旅、思いで思い出し           何も知らずに旅にでた!

昔ズート昔、旅をした。何も知らない私が、若かった,若いだけだった!
半世紀前の事....

143  ロンドン vs 京都

2010-03-29 10:39:14 | 日記
 そもそも、ロンドンに着く数か月前まで、確か1ポンドが1.200円でした。今の様に変動相場になっていないので、1ドル360円のドルを限られた額だけ大事に持って行きました。アルバイトで稼いだ円は、規定以上に持ってましたが、今の相場から、4分の1の価値しか無かったと言う事でした。 今ロンドンが物価が高いと言っても知れていると言う事です。しかし、高くなっています。

 話がそれたついでに、京都について言わして下さい。

 円町(西大路丸太町)から嵐山まで、私の学生時代に新丸太町が作られましたが、今や両側にビル、建物が一杯建っていますが、当時は何もありませんでした。

 私が学生だった当時、未だオープン前に両側に電柱が建っているだけで車が走っていました。多分柵を突破して走ったと思いますが、阪神デパートの配達のバイト(これは日給で2,500円で当時普通の仕事の倍を稼いだのです)で、当時でも古い車、ミゼットで自由に走っていました。

 そこからさえぎるものが全く無く見られる西山は、最高に美しかったと思い出します。どうして、入れたのか、自分だけ運転していたのか、今となっては、不明ですが、一年もしない内に道路と数キロ程離れた西山の間に無造作に家が建っていったのは、残念としか言いようがありませんでした。この体験をして、未だに覚えている人がどれだけいるでしょうか、古き良き時代です。

 話は横道にそれましたが、京都に良く似ている、ロンドンは大好きです。地理的にもピッカデリィサーカスが三条河原町、リージェントスリートが河原町通りでオックスフォードストリートが四条通り、ボンドストリートが新京極で、リージェントパークが御所と自分勝手に何時も思っていました。実際の所、ロンドンを説明するのに京都を思い浮かべると説明し易いと思っています。未だに、これは覚えています。

 私は日本を出て一番ショックだったのは、ロンドンの桜が美しい事でした。見事な物でした。私の心には桜だけは日本の物であると言う事、それだけが日本人として誇れるとその時思っていたのですが、根底からむなしく崩れました。リージェントパークの桜、その近辺にも、そこら中に桜が咲いていると言う感じでありました。桜は日本と言う事は間違っていたと言う事。それ程、私に取ってはロンドンの桜は美しく何処にでも見受けました。もう日本として誇れるものは無いのかと残念でした。

 
 
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

142 フラット

2010-03-25 21:49:10 | 日記
 Flat(アパート)に日本人を訪ねて行くと、そこは1部屋をシェアリングして使うと言うエコノミーな願っても無いものでした。
 これも、運が強いなーと感じます。まず、この機になってもニューヨークにいる殆ど知らないいとこに頼っていたのでした。取りあえず、多少の縁を頼ってつないで行くという究極のつてが非常に良くいっていたと思います。今なら、できるか分かりません。

 色々な人を紹介して貰って、一人だけ入れると言うので勿論決めました。決めたと言うよりそこしか無かった、考えていなかったと言えます。部屋にはバス、トイレは別になっていて、そこの一部屋をギリシア人とシェアする事になりました。

 ギリシア人は事前に変人と聞いていたのでそのイメージが残っていたので、そこにいる間中一言も話しをしなかったのでした。今、考えればイメージで人を見てはいけないと思うのですが、真面目に人の意見を聞くので、そのFlatで一番広い部屋で寝るだけの生活を送る事になったのでした。そのアパートで一番広く、駄々広いとの表現が当たると思いますが、高さは2メートル以上で20-30畳あるかという部屋の窓際をギリシア人に与えられそこに落ち着く事になったのでした。アパートと言うより下宿と言った方が良いかも知れません。

 部屋は広くて、相部屋のギリシア人に角のベットを指されて私のこれから住むベットが決まりました。ここに夜に寝に帰るだけで、ギリシア人には話しかけた事は無かったのでした。可笑しな2人の生活が始まったのでした。

 ここには、日本人、スイス人、フランス人、スペイン人、イタリア人、イギリス人が住んで、まるで人種のデパートでそれぞれが違う目的で住んでいたのでした。
 その内、何組かのカップルができていました。みんなダイニングに集まってナカナカ仲が良くて色々な事を話したのでした。

 私は、デンマークで言葉が分からない生活で苦労をしたので、日本人に対して英語で話す事を奨励したのでした。さすがに今良くそんな事が言えたなと思います。考えて見れば、後から来た人間にみんなより英語も上手く無い人間にその様な事を生意気に言われて、良く黙っていたなと思います。
 しかし、厚かましい願いを、私の様に来て直ぐに、その様な事を言われて、みんな真面目にそれを守ってくれのでした。感謝で一杯です。本当にここでの生活は素晴らしいものになりました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

141 地下鉄

2010-03-21 17:38:00 | 日記
ロンドンに着いて、生まれて初めて地下鉄に乗りました。

 ヒースロー空港から私が考えた、一番安い便利な方法で、ロンドンの中心地であるピカデリーサーカスへ電車に乗った所、途中から地下鉄になっただけの事です。
 
 私は京都で今までに地下鉄に縁がありませんでしたので、生まれて初めて地下鉄に乗ったと、今気づきました。そして、通勤ラッシュ時にみんなが急でいる時に、改札の出方が分からないので途方に暮れて、困ってしまいました。

 出方が分からないのが、皆さんには分からないと思いますが、自動改札が初めてでどうして出たらいいのか分からなかったのでした。京都から出て来て、初めて自動改札に接したら、それも、入口ではどう入ったか覚えがありませんが、出る時に見慣れない形でみんな改札をパスしていると言う状況にあった場合皆さんならどうしますか。今でも、その光景が目に浮かぶと言う程、印象強いものだったのです。

 今でこそ、自動改札が当然となっていますが、当時、40年近く前の事で、まだまだ日本で自動改札そのものが珍しい頃でした。初めて自動改札ができたのが今住んでいる所の近くにある北千里駅でしたが、当時は、未だ、なじみは無く私は知りませんでした。

 この当時、そんなに(私に取っての事ですが)古い事ではありませんが、私が知らなかったのも分かってもらえると思います。
 
 しばらく、人の流れを見て顔は覚えていませんが、心を決めて、女性に声を掛けて改札の通り方を聞き、無事にやっと通る事ができたのでした。

 聞かれた方も、何を聞かれているか分かっていなかったかも知れません。(大きな荷物を持って、呆然としている姿を見て分かってくれたと思います。)
 
 思うに今でも、初めて自動改札を大人になってから、経験してる人がいるのに違いありません。私の受けた衝撃は波大抵のものではありませんでした。恥ずかしながら、改札一つ抜けるのに時間がかかりました。そして、説明にも時間がかかりました。

 そうして、取りあえず、従兄の和田に教えて貰ったFLAT(アパート)に行ったのでした。自動改札が頭に残って、どう行ったのか分かりません。多分、キングスクロスから、確か歩いたと思います。

 そこで、手紙に書いてあったと思うのですが、日本人を頼って行ったのでした。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

140 自分で乗った初めての飛行機

2010-03-16 07:17:57 | 日記
飛行機に乗り遅れると思いました。

 コペンハーゲンからロンドンに向けて出発する時に、沖村氏に送りに来てもらって飛行場へ行きました。ボードを見てゲートへ行く途中の光景は忘れたのですが、ゲートに誰もいないでは無いですか?
 
 もう、てっきりドアを閉められたと思い、必死の思いで柵を乗り越えて飛行機のドアを直接ノックしたのでした。取りあえず自分自身でチェックインして乗るのは初めてで、自分は置いていかれた思いました。この飛行機に乗ら無ければと思っていましたから、今、素人でもしない航空機のドアをタタクと言う行為に及んだのでした。

 今考えても、良くできたなと思います。ゲートに誰もいないとは、考えてみなくても分かるはずですが、早く行き過ぎました。若い時で古い話で懐かしい思い出の一つです。
 
 セキュリティが甘かったのか、考えてみれば、いとも簡単に飛行機のドアの所へ行って、中の人から、未だ時間が来てないと言われる迄、本当に生きた心地がしなかったのです。

 この話は、恥かしいので成田空港の同僚には言っていません。人間20歳、どんな事でもできると言う事です。しかし、飛行機のドアを叩いたのは空港スタッフ以外では素人時代の私位であると思います。

 この時は、デンマークを去る淋しさで座席に座った後、送りに来ていた沖村氏に窓から何度も見て、可愛くもボールペンに光の反射で相手に見える様(見えると思っていた)にしていたのでした。

 そもそも、デンマークを去るのは、1月21日の父の死と言うものがあります。誰も相談する人もいない異国の地、施設に国際電話で、その訃報を聞きました。兄が帰って来なくてそのまま自分の目的を夢を成し遂げる事が親の願いと言われたのでした。死に目にあえないのが、どれだけ辛いのか、その身になって、又、その場になってみないと分からないと思います。

 こうしてデンマークに別れを告げたのでした。

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

137 思い出し 

2010-03-03 16:21:31 | 日記
 ボーンイエメロナリュ(子供の家)においてはクリスマスは子供達に取って特別なものでした。12月に入ると30cm程のロウソクが、みんなのテーブルに置かれました。

 毎朝そのロウソクに火を点けるのを、子供達が非常に楽しみにしていたのでした。それは、ロウソクに飾り付けがしてあって、それぞれに1cm位の印しが1から25迄ついていて、1目盛りが一日になっていました。それに火を点けるのを楽しみに朝起きるのでした。
 そして、一日1メモリづつ減らしてのが、大いに盛り上がりとてもクリスマスを楽しみに待っていたのでした。

 この習慣は、最近では日本の家庭でやる所もあるかも知れませんが、ロウソクを朝に灯す家は無いと思います。その様にして楽しむ事を、40年以上前にやっていたとは驚きです。(これは反面、子供を早く起こすと言う事でナカナカいいものです。)

 一般生活を知る事は、子供のころからの生活を見なければそれが分からないと思いました。(私自身一般家庭の子供を見た訳で、ありませんが、この子達を見て感じたのです)

 そのものが決して教えられるのでなく、生活習慣として前にも言ったと思いますが、例えば、北欧家具と言うのが一般化していますが、それをもって生活を楽しむ為には、デンマークの生活そのものから入る必要があるかも知れないのです。

 それは蛍光灯の光でなく(私の知る所では、デンマークの家では部屋の中は殆どが蛍光灯を余り使って無かった様に思います。)、スタンドを部屋のアチコチに置いて、電球の柔らかい明りを楽しむのが一般的でありました。

 そして、ロウソクがこの人々においては欠かせないものとなっていたのでした。部屋のあちこちにロウソクを置いて、特に若い人達が その明りの中での生活を楽しんでいました。
この様な事が、小さい時から感受性を作り出し、性格を形成していくと思ったのでした。

 今思い出した事ですが、実際、私も帰って来た時は、洒落たロウソク店を将来やろうとしていました。

 日本では考えられないような、ロウソクの使い方をして夜の生活を楽しんでいたのでした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする