旅、思いで思い出し           何も知らずに旅にでた!

昔ズート昔、旅をした。何も知らない私が、若かった,若いだけだった!
半世紀前の事....

395 別れ

2014-12-27 04:30:56 | 住宅
 向田邦子さんは‘思い出にも鮮度がある。一瞬にして何十年もさかのぼりパッと閃く、版画で云えば一刷が一番素晴らしい’。なんといい表現、そして素晴らしい言葉を残したと思います。

 様々な別れがあるのですが、誰にでもある死別と言う別れです。チャイコフスキーは腸チフス、ラフマニノフはノイローゼ、ラベルは交通事故の後遺症と、色々です。
 
 ‘墓の無いのはかない人生である’とはコマーシャル、先日テレビで墓石ばかり捨ててある所を見て、墓があっても捨てられたら、どうしようもありません。‘はかいし’を漢字変換したら、‘破壊し’が一番最初に出て来ました。まさにその通りであると今思います。

 死ぬ前に、素晴らしい墓を生前に建てている人、どうなるのでしょう。そのお墓は何代かはその遺族が面倒見ても、その後どうなるか分かったものではありません。
 
 我が家も立派なお墓がありますが、その墓場は買い取りだと思っていました。それがちょっと間違いで、兄が亡くなって一定の管理費を納める事が分りました。その様な話は、両親が亡くなった時には聞か無かったし話題にもならなかったでした。平成28年までに遺族が報告するという事を、今回初めて分りました。
 しかし日本のように、限られた土地であると、今生きている人を第一に考えなければいけないと思い、死んだら跡形もなくなのは仕方ないかもしれないです。

 思えば、父親が亡くなった時は海外にいて死に目に会えず、一番会いたかった人に会えない、それは人に言えない辛さがありました。それを言った母親は脳梗塞で倒れました。父親の1周忌の為に海外から帰って来て、直ぐに国内旅行に四国九州を巡り、母はハワイ旅行に行きました。帰って倒れましたから、母と殆ど話す間も無かったでした。半年看病して、生命維持装置を我々の判断で切るという残酷なもので、たった1秒で握っていた手が冷たくなって、そのまま亡くなると言う、凄く悲しい思いをしまいました。もっと話すチャンスは合ったのに海外の生活を伝えることが無く亡くなったのです。
 姉は最後に元気に頑張りやと私が言って、うなずいたのが最後でした。兄の時は長い患いで亡くなりましたが、その時は悲しかったです。しかし、今でも不思議ですが、いつでも会えそうな気がしています。

 現在の一人っ子の家庭が増えていますが、益々、無縁仏が増え続け、墓石の山がどんどん大きくなるに違いありません。墓石は、破壊しとなり、いずれ細かく破壊され道路等に使われ、人や車に踏まれるのがその将来と思われます。

 テレビで見た墓石の中には、まだ新しい物もありました。それが道路に使われて、死んで世の中の為になるとの事です。思いのあるのも生きている間だけです、凄く淋しい事です。

  1年は早い、来年も元気に迎えられるように、益々明るい年でありますようにお祈りします。それでは良いお年をお迎え下さい。
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394 介護?

2014-12-20 04:48:16 | 思い出日記
 そもそも、何故老人介護に興味を持っていたかと言うと、学生時代に2年間休学すると学生課に届けに行くと「退学しなさい」そして又復学さすといわれました。と言う様に言われたと思いますが、ふるい話で実際は不明です。
 そんなに簡単に退学とは、それでは大変だと考えて、貧困をテーマに「福祉」について勉強しに行くとして大学に提出しました。現在も変わらないですが、この辺、フレ気シブで、今以上に上手くくぐり抜けていると思います。謂わばいい加減、詳細は覚えていない事が多くあり、その当時はそんな事もあったと思います。それを受け入れてくれるいい時代でした。

 そんないい加減な理由で、何のコネも無く、福祉国家である北欧、それもスットックホルムをめざしました。一人で旅行も行った事が無いのに、まして京都しか知らないのに、若さという活力と何も知らない無知さが、それをなし得たのだと思います。
 その後、福祉という言葉が社会一般に使われるようになったのでした。方向性は間違っていないので、何も知らない先駆者と自負しています。

 そもそも、その当時の私は、自分の事を考えてればいいので、今よりず~と金持ちで、それこそ色んなアルバイトをやりました。その中で、給料は良かったと思いますが、やるかと誘われてやらなかったのが、死体を浴槽の様な処にいれてあるのを、浮いてきたら沈めると言うのは流石にやりませんでした。

 そして、当時80万円を貯めて、その使い道に、とりあえず日本から比較的に簡単に貨物船でオーストラリアに行く予定を組み始めました。前後して、日本郵船が運航を止めまして、上記の様な理由欧州行きに決めにました。オーストラリアには、未だに行ってませんし、今後も行けそうに無い国となりました。

 今思うと、凄く簡単に何ともイージーに決めた事が、今、考えると人生転換期を幸運に切り抜けていると思います。定年を無事迎えた航空会社の仕事も面接しただけで決まり、その航空会社が私が頑張ったお蔭で、世界NO.1となるとは?

 とりあえず海外に出ようと思い、その頃、欧州に行くのに一番安いルートが、ソ連(現、ロシア=そんな事分かっている、済みません)ナホトカ迄横浜から船、そこからハバロフスク迄列車、モスクワ迄飛行機、ワルシャワ経由の列車で欧州に入るのが一番安いルートでありました。

 
 そのルートを取ってウィーン(WIEN)に行ったのですが、英語読みがVIENNAとは知らずにここでも人生が変わりました。

 詳細はブログの初めの方を読んで下さい。人生いろいろと面白いです。

 

 
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393 御御御付け

2014-12-13 04:22:05 | 思い出日記
 ‘御御御付け’と書いて‘おみおつけ’、やっぱり上品な言葉には御がつくのだと思いますが、3つも付くのには驚きます。私、老人力(赤瀬川原平著)が、かなり付いて来たのか、寒さを人一倍感じる季節に困っている、今日この頃です。
 今年のクリスマスイルミネションはサボろうかと思っていましたが、やっぱり近所の子供たちが喜ぶ姿を見る為に頑張りました。でも、今年は取扱い悪く約1,000球程も電球が付かず、使えなかったのが残念でした。

 湯川博士の本の中に‘珍しい初物には必ず飛びつく京都人の特異性’と言う話が書いていました。その事は、今でも(京都を出てから幾十年の人間が言うのですが、変わり無いと信じての話です)受け継がれています。受け継がれているの違いありません。
 セコイ話になりますが、初物で、母親が、その頃まだ珍しい3段折の傘を買った事を思い出しました。

「朋友あり遠方より来る、亦楽しからずや」 学生時代の友達は、商売気のない気持ち、純粋な交わりがあり、何と樂しいことでしょう。
 私の場合、「朋あり、京(みやこ)に会いに行く、亦楽しからずや」が、なかなか行けないです。どうしてこうも友達として気軽に話せるかと疑問に思った事がありました。そしたら、その友達が学生時代、毎日会っていたという事であると、そうか、なる程と思った事がありました。どちらが次いでか分からないですが、京都の行ったついで墓参りは欠かさないです。

 昔の友に会うと、前に進む活力が生じます。ただ、悲しいかな、年とともに、いつも身体の事を気に掛けて、同じ話題で会話の切り出しが始まります。一期一会のつもりで会っても、飲むと又、いつでも会えると思っています。

 今回は学生以来初めて叔母さんに会いに行くと云う事がありました。叔父さんは私が未だ子供の頃に亡くなって、その時、娘さんが4ヶ月でした。私と12歳違いますから、小学生の時、その葬式は教会でありました。初めて亡くなった人に会って、強烈に思い出すのが棺桶に入った所に花を奉げた事です。

 同じ頃、名字を文章にすると言う事が小学校のクラスで流行りました。殆ど忘れましたが、北清水を‘起きたしみずで顔を洗う’。小学生が、つまらないですが良く考えたと思います。その事ばっかし考えるから、それに集中するから思いつくのだと思います。
 かれこれ20年前に小学校の同窓会であった時に、村井君と云う彼の家が、大きな家で、おくどうさんが9つもある家でした。彼の事を‘お弔い=おと村井(むらい)’と言いました。それとは関係無いですが、彼は若くして自殺して亡くなったと聞きました。‘お弔い’は嫌だったに違い無いと思います。そんな事があったからですが、何故か良く覚えています。
 
 生きている間、大切な時間を大事にしなくてはいけないと思う日々です。

 
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392 若いって素晴らしい

2014-12-06 06:03:39 | 思い出日記
  8時ちょうど、NHK連続テレビ、マッサンが始まりますが、私の一番忙しい時でもありです。バイタル測定といって、1階に入居されている方の血圧と体温を測って、オムツと溜まったゴミを捨てに行きます。その後、皆さんの食事用意を終え、そして呼びかけます。勤務時間より30分早く来ていますが、終わると、目の回る様な時間を終えてホットする毎日です。
 そのままでしたら、普通に忙しいだけです。その中で、トイレに1時間おきに起き、体が痛い、息が苦しい息ができない。という悲鳴をあげて、一緒にいて欲しいという懇願を振り切きら無くてはならないのです。
 残酷な様ですが、一人に係りきっている訳にいかないのです。その方は入居された時、明る人でした、しかし、人恋しくて、でも、皆と食事をしない、看護師さんを呼びに行く為だったら歩いて行かれます。行かないでと言う声も最近は無くなりましたが、直ぐ代わりが来ますと返事をしています。その人以外にも頑固な人、なかなか大変な仕事です。

 運ばれてきた食事のテーブルセットを完了、そして車椅子の2人の方を誘導をします。やっと静かな食事風景になり、マッサンが始まります。もう少し見られると思っていたのですが、甘かったです。食事が終われば薬の時間、食事を片付けなければならないのです。

 そもそも連続テレビ番組などというものは見たことないのですが、それでもテレビが点けてあると気になるもので、横目で見る機会もあります。やっぱりストーリが分からないです。

 偶々、休みの日にそのマッサンのヒロインに抜擢されたアメリカ女性を追って特別番組をやっていました。まるっきり日本語を話せないのに、日本という国に来ようとしたところに、プロを感じました。そして、その素晴らしさに感動しました。現在偉そうに言えないですが、劇中で米語で無く上手に英語を話していると思いました。

 私も71年、何も知らない若い時分、デンマークに行きました。そこでデンマーク語があることを初めて知り、夜学にも通いその言葉を一生懸命に学んだ事もありました。しかし、ものにならなかった事を思えば、良く長い台詞を覚えたマッサンのヒロインは、素晴らしい。

 ほぼ毎日の番組、そのヒロインを500人の中から選んだ、選考者にもプロの目を感じない訳にはいけないと思いました。番宣でやっていたと思ったのですが、番組として面白かったです。

 日本語が全く分からないのに、あれだけ長い言葉を覚えて、その台詞を殆どミスをしない。そして短い言葉『はだか』という一言が言えなかって苦労する姿、彼女の生き方自体映画になると思いました。

 何事にも挑戦する彼女の若さ、こんな時があったと、私ももっと頑張らなくては...
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