「まるたけえびすに おしおいけ あねさん ろっかく たこ にしき し あや ぶったか まつまんごじょう」、わらべ歌で覚えた京の東西の通りの名です。丸太町、竹屋町、恵比寿通り...の頭をとって通りの名を覚えるために歌ったものです。今でも京の子供たちは歌っているのか知らないですが、南北の通りも同じような歌があります。その黒門通りの丸太町上がった、つまり北に入った小伝馬町に住んでいました。
郵便番号が7桁になってから便利になったとは言え、例えば、町名で小伝馬町551番地と言うようになったのですが、町名番地抜きに黒門丸太町上がると書く方が私は簡単です。でも郵便局も京以外の職員も勤められる様になり便利になったのでしょう。
関東地方ではやわらかいかりんとうが、関西地方ではややかためのものが多く、生地の発酵を長くしてやわらかく仕上げ、小ぶりのものが関東では主流であると知りました。京の八ッ橋、神戸で人気の瓦せんべい等、関西には比較的に固いものがあります。
新聞の記事に、京都がベットの保有率が全国3位とは驚きました。最近良く驚くのはボケ防止になると喜んでいます。良く読むと単身世帯が1位、つまり京都は学生の町でもあり全国3位も納得です。関係無いですが、私は押し入れを改造してもらって、布団を敷いて上段を梯子付きのベットにしていました。
町並みもかなり変わりました。昔は我が家の木造3階に上がれば、毎年8月15日に大文字、左大文字、舟形と大屋根に上がれば山が低い妙法迄見られました。テレビで中継でやるようになってからはテレビで映っているのを見てから、上がって行ったのでした。そのうちに一本東側、猪熊通りに8階建てのマンションが出来て、大の字がビルの影から見える様になりました。その頃は、テレビ中継を見ていました。
それまでは、丸太町通りには3階建ての建物は他に我が母校、待賢小学校がありました。府庁前に我が家より高い5階建ての共産党のビルができ、それが理由で最近まで共産党が嫌いでした。京都で共産党が強いのは京都は大企業が無かったせいもあり、いわゆる労働者労働者が多く、一票入れた元蜷川寅蔵知事が日本で1番長く知事をやっていたのには、1つには東京に反発していたのかも知れないです。
小学校の頃、家の前で四人ほどが観光で、そのガイドと思われる人が、京都は応仁の乱の時に町屋が荒らされるのを避けたいがために格子戸が一般になったと言っていました。その様に、祇園以外町のどこでも普通に格子の家が並んでいました。よっぽど印象うに残ったのか、あの光景を良く覚えています。
我が家で、その格子をモルタル塗りのサッシに変えた所、明るくなり住み易くなったのでした。それまでは家の戸もくぐり戸で鍵は内側だけにありました。それを利用していた本人が、今のように豊中に住んで古い町並みを残すように考えているとはいい加減で無責任な話です。
郵便番号が7桁になってから便利になったとは言え、例えば、町名で小伝馬町551番地と言うようになったのですが、町名番地抜きに黒門丸太町上がると書く方が私は簡単です。でも郵便局も京以外の職員も勤められる様になり便利になったのでしょう。
関東地方ではやわらかいかりんとうが、関西地方ではややかためのものが多く、生地の発酵を長くしてやわらかく仕上げ、小ぶりのものが関東では主流であると知りました。京の八ッ橋、神戸で人気の瓦せんべい等、関西には比較的に固いものがあります。
新聞の記事に、京都がベットの保有率が全国3位とは驚きました。最近良く驚くのはボケ防止になると喜んでいます。良く読むと単身世帯が1位、つまり京都は学生の町でもあり全国3位も納得です。関係無いですが、私は押し入れを改造してもらって、布団を敷いて上段を梯子付きのベットにしていました。
町並みもかなり変わりました。昔は我が家の木造3階に上がれば、毎年8月15日に大文字、左大文字、舟形と大屋根に上がれば山が低い妙法迄見られました。テレビで中継でやるようになってからはテレビで映っているのを見てから、上がって行ったのでした。そのうちに一本東側、猪熊通りに8階建てのマンションが出来て、大の字がビルの影から見える様になりました。その頃は、テレビ中継を見ていました。
それまでは、丸太町通りには3階建ての建物は他に我が母校、待賢小学校がありました。府庁前に我が家より高い5階建ての共産党のビルができ、それが理由で最近まで共産党が嫌いでした。京都で共産党が強いのは京都は大企業が無かったせいもあり、いわゆる労働者労働者が多く、一票入れた元蜷川寅蔵知事が日本で1番長く知事をやっていたのには、1つには東京に反発していたのかも知れないです。
小学校の頃、家の前で四人ほどが観光で、そのガイドと思われる人が、京都は応仁の乱の時に町屋が荒らされるのを避けたいがために格子戸が一般になったと言っていました。その様に、祇園以外町のどこでも普通に格子の家が並んでいました。よっぽど印象うに残ったのか、あの光景を良く覚えています。
我が家で、その格子をモルタル塗りのサッシに変えた所、明るくなり住み易くなったのでした。それまでは家の戸もくぐり戸で鍵は内側だけにありました。それを利用していた本人が、今のように豊中に住んで古い町並みを残すように考えているとはいい加減で無責任な話です。