旅、思いで思い出し           何も知らずに旅にでた!

昔ズート昔、旅をした。何も知らない私が、若かった,若いだけだった!
半世紀前の事....

447 時 (毎週土曜日に更新)

2015-12-26 04:28:32 | 高齢者
 過ぎ去った時は 楽しかった事を思い出し、悲しみを和らげてくれると思います。かなり前になりますが、とりあえず日本をでようと考えました。初めはオーストラリアに日本郵船の安い船で取りあえず出ようと計画しました。そうこうする内に、日本郵船が運航を止めましたので計画を初めからやり直さなければならなかったのです。

 その頃一番安いルートの船でソ連(ロシア)のナホトカから欧州へ行きました。そして父が亡くなった時にはデンマークの田舎、フレデンスボーの施設で子供達の世話をしていました。父の死は突然の国際電話で知りました。その時、混乱して何度も電話を切り交換手にたしなめられました。誰も周りに知り合いがいない状況で声を出して泣いた事が忘れられないです。でもその時の悲しみは今思い出です。

 その後、母にコレクトコールで電話をした時に自宅にいなくて、交換士が友人宅迄探して追いかけてつながった事があります。いい時代です。その家にその後、電話料金が請求され笑い話になった事もありました。
 その母もそれから1年後に亡くなりました。父親の死に目にも会えず、母親はハワイから京都に帰って、その夜に、そのまま脳溢血で救急車で、半年毎日看病して亡くなるまで続けましたが、生きていたとしても話ていないかも知れないですが、両親共に海外の話をする事なく亡くなりました。

 半世紀近くも前になった今思うのは、悲しみは年数が和らげてくれると言う事です。人間の記憶と言うものは、人によって違うと思いますが、私の場合、悲しかったことは2の次、楽しい良い思い出のみが残っています。

 会社を退職してからもう早くも嘘のように瞬く間に何年も過ぎ、この頃は一日が終るのは早く感じてきました。私の年になると 10年はアッという間に済んでいくものだと感じます。それどころか、このブログを書く、一週間、一ヵ月が猛烈に早く感じるのはどうなっているのでしょう。時間が過ぎるのが本当に早く感じます。

 時間はみんなに公平に持っているもの過ぎて行くものと分かっていても、時間が早く過ぎる時、なかなか過ぎない時があると感じています。おかしなものですが、仕事が終る迄の1-2分が耐えられない遅さ、バイトで他人の体温、血圧を計る時、時計の秒針だけ見ると、30秒がとても遅く感じています。

 益々年々、早く過ぎる一日を有効に使わなくてはいけないのに、一日一日が何もできない内に過ぎて行くと言う生活です。少し前まではそんなに時間の事を考えずに過ごしていたのに、今まで生きた人生より少なくなった将来、最近は特に時間を大事にしなくてはと思っています。

 
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446 一笑涯 (毎週土曜日 更改)

2015-12-19 05:23:38 | 思い出日記
 ラテンの雰囲気を持って、明るく、しかし彼女は仕事はドンと大きな胸で、任しときなさいとの雰囲気を持ったメキシコで育った日本人でした。そんな人が成田空港で初めて私と仕事をした若い先輩でした。
 お客様に対しての応対は抜群で、私にすれば見習うべき丁寧過ぎるとも言える日本語で、つまりメキシコでの日本語教育、彼女の家庭での生活の良さが出ていたに違いありませんでした。
 
 大阪で営業一筋であった私が、初めて配置されたのは手荷物課でした。ここに来るまで手荷物係とは簡単な仕事と思っていました。海外から疲れて帰って来た人の手荷物が無事にお客様に手渡しできるか確認して無事に渡って終わりと思っていました。しかし成田で旅行を終える人ばかりででばかりでは無く、多くの人が第3国の国際線に、勿論国内線にも乗り継ぎ、そしてロストバッグもあり大変でした。そこで、どうにか無事に過ごせたのは、彼女達のお陰です。
 10時間以上の国際線なのに10分遅れで次の便が厳しくなる人がいるのに、30分、それ以上になれば代替え便まで用意しなければいけないのに、営業にいた私は、そんな事は考えた事が無かったです。

 月曜日14日に「こんにちわ、Kさんの件は聞いていますか?」メールを受けた時、彼女の結婚話と思い、軽く「聞いていません」。それから返事が無くて何か悪い予感がして、返事を催促しました。
 思いもよらない知らせが来ました。聞いた事の無い病気「平滑筋肉腫」が転移して手術ができなくて、彼女は11月11日に亡くなったと言うものでした。

 人間ドックにも行き、健康優良児と思える身体、大笑いして「私が死んだ!冗談、冗談、冗談きついですよ」と言うはずです。そう言って欲しいです。未だに信じていません。これを書いていて堪らず涙が出てきます。酒々井で二人してコーヒーを飲みながら話をした事を忘れられないです。私と違い、老後の家も二軒の買っていました。
フェスブックで友達なのに、今日確認すると断りも無く名前だけあって「このアカウントは停止されています」。本人が辛い闘病生活の間に消したと思います。それにしても若すぎます。ここで合掌で終るには未だ気持ちの整理ができていません。人間いつかは死ぬと理解しているつもりですが、死とはまだ良く分かっていないのです。

  大阪に帰る時に成田空港のスタッフ個々に写真を撮ってもらいました。二ショット、彼女が面白い変顔の写真、それを毎日見られるようにリビングに飾ってあります。みんながコメントを書いてくれたのですが、改めてMs.Kのを読むと「もっと早く北清水さんにダイエット方法を学んでおけばよかった....長生きするためにもやせます。元気で元気で元気で KK」
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445 映画って本当、いいものです (毎土曜日 更新)

2015-12-12 04:06:25 | 映画
 映画「杉原千畝」を観て、TVドラマで観て知っているつもりでしたが、最初の数分間で涙が出そうになりました。直ぐに感動、年とは関係無く、映画はいいです。最期の字幕に衣装「黒澤和子」と、是非読んで欲しい「回想 黒澤明」著者の名が出てきました。
黒澤明監督はインタビューで「世界の監督の中で、どの監督の作品を評価されますか。」と同じ様な問いに、自分の映画の宣伝と怒りを抑えて「評論と言うのは、誉めることだと僕は思う。自分が映画監督で特にこの監督が一番だとか、この人は駄目だと言うのは、僕にとって一番大事な映画界をこれから支え、未来を作ってくれる人たちに対して口にすることじゃないと思う」「もし語るとすれば、僕が観た数えきれないほどの映画を一つ一つ、この作品のどこが素晴らしくて、この監督はこういう点で才能があるので是非観て欲しいと、具体的に....」
 「映画って、本当にいいものです!」と淀川長治さんが、良く言っていたことでした。黒澤監督を追う様に彼の死から2か月後に亡くなった人、評論家として素晴らしいと改めて思いました。どんな映画でも何かいいものがある、それを認めて褒めているように言っていました。評論家そのものだと感じました。映画を鑑賞する時は、それを肝にめいじています。
 本の中で黒澤監督が素晴らしい事を言ったより、娘の和子さんが、良く父親の言った事を覚えているなと驚きました。その中に数々の回想として監督の話が出てきます。父親を愛し、尊敬しているのが分かり、本の中から親子愛と言うものを感じました、本当に素晴らしい親子です。そして彼女もやはり、並みの人では、無いと思います。この本の中で、言われている数々の逸話、想像していた以上の父親だったと思います。
 「親がたくさんの本を読んでいれば、強制などなくとも、自然に本に興味を示し、気がつけば読書家になっているものだ。両親ともに教訓めいたことはほとんど言わなかった」とも言っています。又、「人は変わるものさ、それが成長ってもんだろう。年を取るなと言われても、時間は過ぎていくものだよ」
 実は、その点は私もそうで、父親が本が好きで、良く読んでいる姿を見ました。そして、両親から教訓めいたことは言われたことがありません。失敗しても怒られたことも無く育ち、監督は小さい時な泣き虫であった所も、物事に集中するする点等、共通点が被さります。考えてみたら、子供の時は同じだったのに、持っていたものが違う、とか何とか言っても、それぞれに対する、ものの見方、継続的な集中力、その深さが天と地程、違って、まるっきり違う人間が出来上がったのです。 
 でも、映画好きはだけは同じだと思います(@^^)/~~~

 
 
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444 呼び方で年齢不詳 (毎土曜日に更改)

2015-12-05 05:59:14 | 高齢者
 小さい時の事を考えて、自分の周りにお年寄りがいなかった様に思います。そんなはずは無いと思うのですが、同年輩の人が本に子供の時、同じ様に年寄りは見なかったと小説に書いています。
 ひょっとして昭和30年前後は、お年寄りの人が少なかったのではないかと思います。自分のお婆さんでも、遊びに行ったのは覚えていますが、周りにお年寄り、それどころか他の人がいたとは覚えていません。そのお婆さんにしても、自分の思っている年齢よりもっと若いのではとないかなと思っています。と言う訳で、今考えても、老人を余り思い出す事がありません。

 今の子供は、高齢化社会の現在において、そこら中、周りに年寄りばかりいて大きくなると思います。大体呼び方は、そもそも、幼稚園児にすれば、お姉ちゃんやお兄ちゃんとは、自分より年上の人、小学生、中学生であるに違いないです。そうすると、高校生や大学生も辛うじてそう呼ばれ、それ以上の人は、残念ながら、オバサンやオジサンと呼ばれる年が幅広くても不思議ではありません。お爺さん、お婆さんと呼ばれるのは親がそう呼ばすか、見た目に違いないです。で、私はと言うと、オジサンと呼んでくれると思います。
 
 しかし、私もオジイチャンと呼ばれるのが当然となる年になって来ました。これを言いたくて遠回しになり申し訳無いです。友人で、50才の時に実際におじいちゃんになった人がいますから、これも分かります。しかし、これ程呼び方で自分の年を知らされるとは考えませんでした。

 以前近くに住んでいた若夫婦で、現在でも信じられない話ですが、18歳の時に自宅で子供を産み救急車も呼ばずに、疲れて朝まで寝こんで胎盤をゴミと一緒に捨てた人がいます。私など真似が出来ません。

 その人の子が、親と同じ様に子供を産んだとしたら、恐ろしく早く36才でお婆さんとなるではありませんか。呼び方とは、年を表しているようで分からないものです。

 考えてみたら、小説で良く江戸時代に14、5才で嫁に行ったとか売られたと言う話か出てきます。その年でしたら中学生の子、昔でしたら嫁入りに行って不思議では無いと思います。でも、何時も思うのが、本当なのか数え年なら異常に若いので驚きます。
 今のように栄養状態が良くない時に、殆どの娘が胸の膨らみなど、見受けられないのは当然だと思います。
 人生50年、世の中がそうしないと若くして死んでしまう社会でしたのでしょう。昔、その栄養状態から言っても、その年で子を持つのは現在の私としては驚異の事です。

 
コメント (1)
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