旅、思いで思い出し           何も知らずに旅にでた!

昔ズート昔、旅をした。何も知らない私が、若かった,若いだけだった!
半世紀前の事....

588 ほどほど(次は12月1日 第1土曜日更新予定)

2018-11-17 07:00:00 | ブログ
 「食べ過ぎてはいけないし、少な過ぎるのもいけない」万事ほどほどしておけば、高い徳に至ると孔子は言う。歳をとると、ますます体の機能範囲は狭くなりますから、ちょっとした隔たりが大きなダメージになります。食事、睡眠、仕事、家事労働、人間関係など、あらゆる面で、その人にあったいい加減さを保つことができれば、もう少しの長生きを望むことができるのでは...これが難しい。

 10年前、そんな自分が? それ程10年前の事がもう遠い昔となってしまいました。当時、成田でチェックイン、それもする方。お客様を我が社の飛行機から乗り換え便迄の手助け、その先頭を走っていた事等、今や信じられない事です。今や歩いていくのも?20年前は大阪で営業、ダラスで何も恐れず集まった社員の前で発言したなど、益々信じ難いです。10年20年はあっという間に昔の事です。

 今の勤務先マンションで定年退職した方が10名以上、夫婦で毎日一緒いる人もいます。素晴らしい事です。ゴミ出しは一番、図書館通い、ゴルフ三昧の方達を見て、今の仕事をしていなければ、私もゴミ出し一番になっているに違いないです。実際、退職後は朝、散歩に行くのを日課にしていました。

 高齢者施設の方では当然色々な方が、その人生の終な住居してご本人や家族が選ばれて、又、本人が何処にいるか分からないような方もいます。元気な人は、外出届を出してから買い物や散歩に出られますが、多くの方は一日中部屋にいて、車椅子の人は介護されて、食事をする時に出てこられます。様々です。
 又、環境に順応するのが凄く早いのに驚かされる人も何人かおられます。息子さんが色々探してここを決めた人、でも当初は無言で食事、同じテーブルの人と合わないと言っておられました。その部屋は西向きですが、他の階をお薦めましたが、この部屋に慣れたから、このままで良いと言われました。半年もすると、皆との話も合わせて上手く、その場の雰囲気も分かったようです。

 「上げ膳に据え膳」、施設で作る料理は美味しいと評判です。お皿迄、舐める人もいますが、私もそのようにならないか心配しています。食事をバイキング形式にすれば、食べることに何か考える事も取り入れたらと勝手に思います。しかし、一つのものを食べ過ぎたりして、これもダメ。キッチンを各部屋にあれば問題無しですが、危険ですから部屋によってはハサミやナイフはありません。

 いずれにしてもここにいる人は幸せ「人生、暇つぶし!」この気持ちを忘れず、気楽に行きます。
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587 死語死後 (次は11月17日 第3土曜日更新予定)

2018-11-03 09:46:14 | ブログ
先日アルバイト先の施設で靴箱を掃除するように、その時に、下駄箱も死語になってしまったのかと思いました。下駄など見たこと聞いた事も無い人がいるのは言いすぎですが、生きている間に既に死語にになった言葉や忘れられた物が多くなってきました。

「友を偲ぶ」遠藤周作編、興味深く、懐かしい人を思い出して読みました。既に、読んでいたら御免なさい、遠藤周作さんが選んだ31名の文学、芸能者等々、いずれも有名人が有名人に書いた追悼文や弔辞です。最後にご本人も文庫版特別編として安岡章太郎氏に弔辞を述べられていると言うものです。と言う訳で、その追悼文を書いた方たちも殆どが鬼籍にはいっています。このようなユニークな本を皆さん読んでもらいたく紹介します。

 例えば、三島由紀夫が追悼文を川端康成に、そして三島由紀夫を武田泰淳が書いています。文豪ばかりでなく美空ひばり、裕次郎等、その人となりが短い文書で改めて分かるといもので、感心しました。亡くなった人達も自分達が死んだ後も、この様にして注目を浴びたとは天国で微笑んでいると思います。数枚の原稿で本人の生きている時の姿を、難しい事で不可能とも思えます。それをチョット可能としているかも知れないです。これが一般人と違い、それを遠藤周作もこれを編集する際に数多くの追悼文等を読んだに違いありません。この編集に携わる企画をした出版社が素晴らしいと思いました。

 私はというと両親兄姉と既に4人を亡くしています。学生の時、父親の死をデンマークの避暑地、フリボーで施設で子供達世話をしている夜に電話を受け、交換手にHangOnと言われて受話器を置いたと言う間違いをした後、父親が亡くなった!誰もいない所で泣いたこと。そして2年後帰国、待っていてくれたお骨収めをしました。
 母に「父親に一番会いたかった」と言った事を悔いています。というのは、その後、私は国内旅行して、母はハワイへ行き、殆ど話す間も無く羽田空港に迎えに行って帰って来ての脳溢血、必死の看病の後、明るくなって回復も、私が誰だか分からない状態でした。その後、検査の為だと思ったら、その時していた生命維持装置を切られると、握っていた手の温もりが瞬時に冷たくなったのでした。新聞の死亡欄に兄に、葬式では母の友人がマイクで家に入れない人に弔辞を、その兄は延命治療を拒否しました。最後に会った時は、言葉を交わすのも涙を堪えるのが困難でした。葬式は家族葬でと思っていましたが、野球仲間が立派な式をあげてくれました。姉は何を言ったのか忘れましたが、最後に無言で頭を縦に縦に...

 今となっては、その死も懐かしいものに、楽しい良い思い出ばかり、残してくれました。私にとっては心の財産となっています。
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