旅、思いで思い出し           何も知らずに旅にでた!

昔ズート昔、旅をした。何も知らない私が、若かった,若いだけだった!
半世紀前の事....

308 二度とは無い人生 in My Life by SALU

2013-06-29 05:25:27 | 思い出日記
 SALUのin my lifeの歌声が、FM802で6月の歌として毎朝7時前に聞こえてました。年は取りたくないですが、ラップで殆ど何を言っているか分らなかったです。その中で、何度も歌う‘二度とは無い人生’だけは良く分り、改めて感じ入ります。

 2度無い人生と良く言われているのですが、自分自身は余り意識しませんでした。今の所、死が何時訪れるか分らないですが、それが面白い、でも人生は楽しく終わりたいものと思います。その時その場が2度とやって来ない、そこで先ず何からと考えて、先立つものがない、時間を無為に過ごしているので時間が過ぎるのが早過ぎるのです。そこで日々のちょっとしたことを有難く感謝することから始めていこうと思います。

 コシノ ジュンコさんが言っています。(か)=今ある事に『感謝』、(き)=常に『希望』を持って、(く)=何があっても『くよくよしない』、(け)=自分で『健康管理』、(こ)=思ったら『行動』。これらの頭を取ってかきくけこ、一流の人はやっぱりいい事いいます。今、やっている事は残念ながら健康管理だけです。

 マンションの管理人をやっていて、本当に幸せそうな人を観察していると、その方が今まで生きて来た人生がなにかしらわかる気持ちになって来ます。反対に毎日、不平不満をぶっつける人、これはこれ別の意味幸せかも? で無ければ、ただ歩き周って、私は天気予報士では無いのですが、決まって天気を聞いて来る人。一日の内何人の人と話すのかと思うと、この方と変わらないと最近思っています。

 ‛どんな悲しい涙でも、いつかは乾くときがくる’ミヤコ蝶々の言葉で正論を言っていると思います。でも、その悲しみの渦中にいる人に対しては何の効力もある言葉とは思えません。はたして慰めになるかと言うと疑問です。でも、そう考え無いとやっていけない事も確かです。何事にも『くよくよしない』『希望』を持って生きなければならないと思う様にします。

 ‛生きていることと死ぬことは、ある意味等価なのです’考えさせられます。小説『ねむる』中で村上春樹さんは「死とは、眠りの延長線上にあるものとして、死を想定していたのだ。ふと思った。死とは眠りなんかとはまったく違った種類の状況ではないのだろうか、それはあるいは私が今みているような果てしなく深い覚醒した暗黒の中で、永遠に覚醒しつづけていることであるかもしれないのた。」誰も死後の世界を知らないから、想像するしか仕方ないので、それが正しいとか正しく無いとか言えないのです。本当にその通りです。

 死んだら無になる、今の所そう考えています。人は様々な考えを持っているから、それで良いと思っています。好きな考えを他人に押し付けるので無く、自分の考えで死後の世界というものを考えれば良いと思います。まだ、死を考えるには早すぎるかも知れないですが、年と関係無く、常に死と隣り合わせにいることも確かです。
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307 初めての村上春樹さん 

2013-06-22 06:01:15 | 思い出日記
 村上春樹さんと言うと、ノーベル賞候補にあがるぐらいだから、難しい本ばかり書いていると思って今まで読みませんでした。偶々、本で良く売れる、村上春樹と百田尚樹とどちらが凄いかとテレビでやっていました。その採点にあたる多く人が、村上作品を読んでいないというのも何故か分ります。 

 図書館で本を借りて、短編物を読むと読み易く、そして‘やがて哀しき外国語’を読んだら自分と親近感を覚えるほどの人だと思い、機会を見つけ長編物に一度挑戦をしようと思っています。やっぱり、読まず嫌いは駄目だと反省しています。

 映画を愛しポール・ニューマンが好きである点も、年もほぼ一緒、私と殆ど変わらないのに何が違うのか?ポール・ニューマンの着ている服を見る為『動く標的』を10回見た、ヤクルトファン(だと思う)で、神宮でヒルトン2塁打を打ったのを見て何かがヒラメキ、作家になった言っています。こちらは江夏が辞めさせられたのを気にいらず、タイガースファンを止めたのがいけなかったのか、今では(御免なさい、前からです)大変に大きな違いになっています。

 ‘いったい誰の人生が間違っていないだろう、お前の人生は間違っているとかいないとか、誰に確信を持って断言することができるのだろう’と言う一節が肝に伝わりました。

 日本を離れて一番強く実感するのは、自分がいなくても世の中、何の支障もなく円滑に進行していくのだと、一年位たてば、きっとみんな自分という人間が存在していたことさえ忘れてしまうだろう。ときどきは思い出しくらいはしても、だれもとくに痛痔は感じないはずである。こう村上さんは言っています。
 この人でこうなんですから、先行き私が亡くなっても誰も気にしないでしょう。私の両親、先に亡くなった姉も、我々兄弟がいなくなったらと思うと淋しい限りです。

 アメリカに来てから日本という国について、あるいは日本語という言葉についてずいぶん真剣に、正面から向かい合って考えるようになった。ここまでは私と変わらないです。小説を書き始めたころ、少しでも日本語的なものの呪縛から逃れたいと思っていたのが、歳を取って日本語で小説を書くのが好きになってきた。日本語が他の言語より言語的に優れているとか、そう言う事を言っている訳で無く、あらゆる言語は基本的に等価であると認識してる。部分部分で分り難いと思います。しかし、この点については後ほど、私の考えと違いを順次述べて行きたいです。ノーベル賞候補に何を言うか(@^^)/~~~

 私はというと、肝心な所で、他人の影響を直ぐに受ける。それは良い考えは直ぐに受け入れる、日本人的と言えるます。坂本龍馬は、勝海舟に弟子入りした26歳から32歳で暗殺されるまでわずか数年の間に、近代日本の礎を築きあげたと言えます。人生、長生きしても今まで何創ったかなと考えます。今から創らなくてはと考えさせられます。
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306 色々と!暇...?

2013-06-15 06:29:48 | 思い出日記
  最近ニュース以外にテレビを余り見ない、テレビ映画においてはCMが間に入って結局根気が無くなってしまいました。反対に、今まで考えもしなかった事に疑問を持つようになったのは、生活が単調、一つには暇かも知れないです。
  
 車の前を走るバイク便を見て思いました。ついこの前の様な気もしますが、マンハッタンでバイク便と言うか自転車で書類の配達がもてはやされてました。簡単にコンピューターによって書類が転送できる様になったので、昨今どうなっているのでしょうか?現在新しいものは、直ぐ古くなるという事かも知れません。10年ひと昔と言っていたのが、既に死語になってしまって、ついて行くのが大変、目まぐるしく日々変化します。
  
 
 正月を何故1月1日と決めたのでしょうか。旧暦から変わった時は、2回元旦を迎えたのでしょうか。南半球に住んでいる人達は、別に8月1日を正月に決めても良いと思うのです。年が改まるとふだんと違うと思うのは?元旦を神聖な時として、仏教、イスラム教、キリスト教宗教に関係無く多くの国が休日としているようです。不思議です。

 紅白歌合戦は去年も見ずに、他の日と同じ様に早く寝ましたが、見ようと見なくても日本の場合、紅白歌合戦で年末を知る様になりました。紅白は嫌いでしたが、今はどうでも良いです。でも、紅白が無ければ正月を迎えられないと感覚が変わって来ました。

 五線譜/staff notationを発明した人は世界中の音楽を作り出したと思いませんか。 この五線譜のお陰で今までの名曲が作られたのと思うのと、そもそも誰が作ったのでしょう。作った人はノーベル賞間違いなく凄い人と思いますが、ネット上でも見つけられません。

 昔、漫才で‘そんな事を考えると夜も寝られない’と言っていた事を思い出しました。私の場合、変な事に疑問が起きて夜も直ぐ寝られ、9時過ぎるといつでも眠る事が可能です。その代わり、良く寝て5時間です。夜中に1度起きる、テレビの薬のCMでやっていますが、これは年を取って来たかな思います(テレビを見ていないのに済みません)。

 京都の家は、ご存じの様にウナギの寝床と言われている程奥に深く長くなっています。私の家は普通の家より大きかったのですが、若いから問題なかったですが、我が家のトイレはかなり遠かったのです。水洗になって家にくっつけて作り直しました。今なら、我が家の中のトイレは、今なら10歩以内に1階2階にトイレがあり助かっています。
 その昔、姪の家では寝小便をすると明治生まれのお祖母さんと布団を持って何故か、ご近所に謝りに行ったそうです。今なら幼児虐待ですが、昔の丁稚デッチの子供達は、寝小便等、大変だったと思います。

 間違ってちり取りに入った蟻は、遠くゴミ箱迄持って行った場合、自分の家迄変えるのか?疑問は益々増えて行きます。今夜も直ぐに寝れれそうです。
 
 
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305 ぼくは日本兵だった 

2013-06-08 05:48:19 | 思い出日記
 寄贈した軍票が、ピース大阪で展示され何と表彰状迄頂きました。それとは関係無いですが、これ程迄に楽観主義者オプテイミストもいないかとも思う程の話がありました。それは英国人と日本人のハーフが、日本の兵隊になった話です。題名が面白かったので早速借本を借りました。
 その題名は‘ぼくは日本兵だった’I was a Soldier of the Emperor著者J.B.ハリス。彼の父親は英国人で、ロンドンタイムズの日本特派員として勤めていました。読んだ人はまずいないと思いますので、紹介します。
 
 日本人を母親として1916年(大正5年)神戸市で生まれ、その後父親のアメリカに転勤にも同行して行く事にもなりました。壮大なアメリカを知った後、日本に帰って来ました。16歳の時に父親が46歳で突然の死、そして母親が日本人に戻り、あえて反対する理由がないという事で日本人・外見上は西欧人である平柳秀夫となったのでした。

 母親と二人、食べて行かなくてはと、英語誌のジャパンアドバイザーの記者になったのでした。それ以外にも、夏にはNHKラジオの英語講座と、そしてジャパン・タイムズへの移籍となって25歳を迎える時に太平洋戦争になったのでした。
 戦争が始まると直ぐに外人と言う事で留置所に、それも雑居房でした。そこは汚く凄い匂いの便器の横で、膝を抱えてじっとしていて息の詰まるような沈黙を続けねばいけなかったのでした。仲間は人あたりのいい人でしたが、食べ物も酷い状態でした。新人が入る度に便器から遠くなり、2週間目に釈放、横浜の山下埠頭にある敵国人収容所に移ったのでした。

 その後、日本国籍があると釈放されるのですが、何も分らず徴兵検査を受け甲種合格となったのでした。手際良く、その後召集令状が来て、2週間で軍隊に入いりました。母親に再び会う為に、まるっきりの西欧人がふんどしを締めて、特別扱いも無く日本兵になったのです。
 日本の教育は受けていないので、まして軍隊用語とは縁もゆかりもありませんでした。話は上手にできても、例えば「兄は独身です」を「それはお気の毒ですね、毒を飲んで死んだなんて」意味を間違ったりしていた人でした。軍人勅諭など、総てをローマ字で覚えてたそうです。勿論、日本は勝てるはず無いと思っていました。

 ここ迄が本の半分までいかない所で、この後北支に送られて行くのですが、そこでの戦争体験が半端ではありません。凄い辛い体験をしているにも関わらず、読み終えて、ドラマを読んでいる様に思ったのです。本の紹介となりましたが、新田次郎の「望郷」を読み終えた時と何かが違いました。同じ家族に会う為に、底辺にあるのが楽観主義者と言う事で、こんなにも違うと言う事を知らされました。

 日記をつけていたそうですが、復員の直前、旧上官の命令で総ての記録と写真を焼いてしまったと書いています。40年を越えた話を思い出して書いたそうですが、良く書けています。

 条件はまるっきり違いますが、私も同じく40年以上前に欧州行った時の話を書きました。メモがありましたから書けましたが、忘れた事が殆どです。やはりこの本は、思い出すには衝撃度が違うと感じました。戦争の悲惨さを別の角度から伝えています。
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304 大阪 関西

2013-06-01 06:43:36 | 思い出日記
 誰しも1度くらいは人生のピークというものがある。人は皆それを目指して登る事につとめる。と言うのが本にかいてありました。その通り、まさに最近、大阪神戸の新しい話題で盛り上がっています。神戸のアンパンマンミュージアムとウミエ、大阪駅北の、グランオオサカ、ナレッジキャピタル、心斎橋のファストファション、阿倍野の近鉄の超高層デパート、そして京セラドームのイオンモールが今日オープンと盛りだくさんで驚きます。

 一般のお店はどうなる事やら、この際、マイナス思考は無しで、グランオオサカGrand Front Osakaには驚かされました。ほとんど駆け足で見たのですが、開店から暫くたっていて、11時過ぎ人はそれ程多くありませんでした。大阪駅は大きくて、まあ普通に凄いです。良く出来たなあと思いますが、そこを出て南館を過ぎて、雨除けの通路の屋根が、もう少し斜めにすれば雨あとが付かないのに思いながら、北館に入ってビックリしました。
 入口は普通ですが、今までに見た事が無い、東京にも無い高い山の様に連続して5階まで見えるエスカレーターの凄さ、強烈な印象を私に与えました。各階に行くのが大変複雑と思いながら、そこを登り切って、外にでると眺望が素晴らしいでした。

 これだけの広さが大阪の駅の近くにあって、この広さ、ニューヨークのセントラルパークの様になればいいのにと思っていました。そこに到底比べようもありませんが、バックヤードに木と川とがありました。まだ、開発途上、まあ現在においてはこれが精一杯のものだと、あきらめました。

 そもそも成田にいた時は、東京の新しい話題のスポットが、そこに行く度に出来ていた様に思っていました。流石東京と驚いていたのでした。友人の高層マンションから見た、乱立するクレーンの数々等、東京1極で仕方ないと思っていたのに、その勢いが大阪迄来るとは考えもしなかったです。ちなみに、友人宅は、本当のマンションですが、災害時に備えて食料の備蓄、非常用発電と何でもあるのも驚きました。
 その時は、月島でもんじゃ焼きを頂いた事を思い出します。もんじゃ焼き等、見た目の悪さから言って食べられたもので無いと思っていたのでした。その後も、東京で美味しいもんじゃを食べて、食わず嫌いを改めていけないと思いました。

 東京渋谷店を出して成功したPablo(生とミディアムのチーズタルトを売る店)ですが、大阪に先日行くと並んでいる人がいなかったです。、大阪はシビアーで、暫く行かない間に値段が630円から東京と同じ780円に値上がっていたから列ができて無いのでした。私も同じ理由で買わなかったですが、780円でも安いのに大阪人は何処まで買わずにいられるか見ものです。

 もともと京都人らしく大阪嫌いでしたが、安く大阪で飲み食いし始めてから垣根が無くなったようです。グランオオサカはオフィス部分が入居率2割程度、ピークをむかえた後、どうなるのでしょう。まあ心配しても、しょうが無いです。

 
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