旅、思いで思い出し           何も知らずに旅にでた!

昔ズート昔、旅をした。何も知らない私が、若かった,若いだけだった!
半世紀前の事....

286 親子の対話

2013-01-26 05:25:35 | 思い出日記
 ‘親子の対話、あれは発言の反響を恐れる文化人たちが逃げる為の言葉として作りだしたんですよ、迎合用語でしょう’と言う一節が笹川佐保の本にありました。

 言われて見てなるほど、父との会話は私は殆ど思い出しません。それでも父は父として存在感がありました。世間一般に何時の頃からか、TVの影響か親子の会話が無くなった、それが家族の問題ですと言い始めました。そして聞く方もなるほどと思って来ました。待って下さい、私と父親とは会話がそれほど無っかたと思いますが、親子の断裂と言う事はありませんでした。うちだけかも知れませんが、昔の父親は無口な人が多かったように思われます。

 私の年代で父親と良く話した人はいるでしょうか? 小さな頃は、みんなでラジオを囲んで聞いていた事を思い出します。しかし、会話があったとは思い出さ無いです。父親は、従業員みんなが来る前に朝早くから、隣にある工場で仕事をしていました。その代わり夜は早くて、私がテレビを見ている横で黙って毎晩晩酌をしていました。その光景を懐かしく思い出します。
 それが段々子供に合わせる様になって、そして世の中難しくなってきたのですね。そうこうする内に下火になりましたが、家庭内暴力と言うのが全国的に一時話題になりました。一つにはテレビで全国的に話題になると小さな事迄取り上げられる事になるので、流行りになるかも知れないです。

 最近いじめが問題になってます。何人も自殺と言う最悪の状況で、自分がその立場に置かれたらどうしようかと考えさせられます。テレビである日突然に、いじめる側からいじめられる側に簡単になる話をやっていました。

 いじめをされる方はそうは思って無かったと思いますが、まさに私が高校の時にいじめる側にいたと思います。いじめの対象としての先生、そしてクラスメイトに対しても、今は本当に申し訳無く思っています。いじめた方が言うべき事で無いのは分っていますが、やはり先生が毅然と止めさせると言う事も一つと思います。その先生の問題が多いのは底が知れないです。どのチャンネルを見ても、教育者の体罰が問題になっています。テレビの悪いのは一時期に集中して、その後はお構いなしとほったらかす事にあると思います。

 決して体罰は許される事がありません。卓球を習っていますが、前回から小中学生が10人程入って来たのです。その子らが毎回整理体操の時に毎回サボっていたのでした。コーチの一人60代後半の人が我慢できずに、子供らの前迄行って大声で注意したのでした。時代が違うと言う事に気づいたら、怒鳴り怒ると注意するがみんな同じになってしまうかも知れないのです。子供達は怯えただけで、注意と受けっとたか疑問です。それから後、子供が少なくなったのは寒さだけであれば良いのですが、難しいです。

 
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285 余命

2013-01-19 05:27:13 | 思い出日記
 私と同年輩の人が入院していて、一人で淋しいと思い見舞いに行きました。何十年殆ど付き合いが無いお兄さんが一人いるだけで、たまに会って話をすると言う程度の付き合いでした。気持ち良さそうに寝ていて、起こしてはいけないと廊下に出ました。見舞いの品にメモを書いて、置いて帰ろうと思った所起きてきました。そこで暫く話をしました。

 
 お腹が変だ、水が溜まっているとCT検査を11月9日にしたそうで、本人はいたって元気で食欲が少し落ちた程度だと会っていた以前と変わらなかったのでした。

 実は事前に検査の結果を聞いていて、末期の癌で余命1ヶ月と宣言されたそうです。驚くほど、そんな悲壮感は一切無く、明日から勤める始める仕事が行けなくなると残念がっていました。見舞いに行ったのが23日、2週間経つと死が待つとは、本人に そんな自覚が感じられず、さし障りの無い話をして病院を後にしました。

 会う前迄は死ぬまで一人部屋にいて、多分沢山の人がお見舞いに来ていると思っていました。すると、一人部屋でも狭いと思われる4人部屋で、それぞれにカーテンに囲われて寝ていました。ベットと水がやたらと置いてある物入れがあるだけで、座る場所もありませんでした。仕方無く薦められるまま、ベットの上に彼と2人で腰掛けて話しました。

 あっては困る、何度もある事ではありません、今までの人生で、死を告げられた人と会って話をしたのが初めてでした。経験上、病院に面会に行った時は、ことさら朗らかに明るく話すのが良いと思いました。と言うのも、昔病院を退院した人から、自分は元気なのに見舞いに来る人が悲壮な顔をして、自分がそんなにも悪いのかと思っていたのです。

そんな気遣いが全く必要無く、余計な事が分りました。この様な経験は持ちたくないですが、自分が鈍感なのか、2週間もすれば死と言う現実を感じさせなかったのです。また感じない程普通の話をして、思わず長いしてしまいました。

 その後、 余命1ヶ月を過ぎているのに病院からお正月は自宅で過ごす様に言われて、年越しを一人でどうするか悩んでいたのでしたが、12月24日の朝に突然容態が悪くなりそのまま亡くなったそうです。
 
 不謹慎で残酷ですが、誰でも避けられない死を目前にして、もうどうしようも無いのであれば、1ヶ月の猶予を得てこれ程突然に死を迎えたのは幸いです。癌で苦しんで、苦しんで自分もシンドク、他人に心配と迷惑かけて亡くなるより良かったと思いたいです。

 たまたま同じ時期に読んだ本‘おくりびと’の最後の所に、風呂屋さんの女主人が薪を運んでる所で死ぬのが書いてありました。最後まで仕事をしながら死を迎える、人によって様々な最後があるものだと思いました。

 余命1ヶ月、改めて、死に付いて考えさせられました。眠れない夜を過ごしたと思いますが、他人を煩わす事無く亡くなりました。今でも信じられないですが、SMさんのご冥福を祈ります。 合掌

(余談ですが、一人住まいの女性が、牡蠣にあたって救急車でこの市民病院に運ばれました。その退院の日、大雨が降ったのでした。救急車で来た為に靴を持って行かなかったので、裸足で行けないとスリッパを貸して貰おうとした事がありました。病院はスリッパを貸さず、売ってもくれずに仕方なくタクシー迄素足で帰った事がありました。どうしようも無い病院です。)


 
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284 平成25年 昭和は...

2013-01-12 05:43:54 | 思い出日記
 元旦珍百系SPで、以前番組紹介されたのをマトメテご長寿ばかりを特集していました。決して私がご長寿とではありません(それに近いかも)、ただ自分もまた昭和生まれを再確認した事がありました。94才の方が昭和30年代から絵日記を書いているのを見て、あんな事こんな事もあったなと思い出した事がありました。

 日記絵の中で、障子に人差し指につばを付けて穴を開けて中の様子を探るのを、昔の侍映画で良くやっていた事を思い出しました。ちょうど子供の時に、それを真似て障子に穴あけをしてたのでした。その為でもありませんが昔我が家では年末に障子に張り替えをしていました。その時、ここぞとばかり障子を突き破った風景を懐かしく思い出しました。

 最近の家は洋風化して障子がなくなって、あっても紙が丈夫で張り替えの必要がなくなってきました。また、映画でもテレビでも穴を開けるシーンが見られなくなり、真似をする人間が少なくなったのか破れ障子の家が無くなったように思います。又、みんな良い子になって、そんな馬鹿な事をする子もいなくなりました。たまに大家族の家で破れフスマを見る事がありますが、平成25年4半世紀がたち、益々昭和が遠くなって来たと思います。

 明治以前はガラス窓が無かったので、考えて見れば日本だけですが、光を取り込む事において障子は大切な手段であったと思います。時代劇を見ていると下町の家や農家では雨戸は無く、入口から土間、直ぐ部屋となりかなり寒かったに違いありません。実際、寒いのに都会に囲炉裏が無かったのも部屋が狭く、そして一番火事が怖かったと思います。

 デンマークからイギリスに渡って、当時最初に思ったのがロンドンの我々がいる所は暖房施設完備していなかった事です。日本と同じ様に特別寒い所では無く、オーバーを羽織って部屋に入るとTシャツと言う、暖房が抜群の寒さの厳しい北欧とは違いました。

 友人のイタリア人に日本の家は紙と木で出来ていて、食べ物飲み物をこぼしてもいいなと言っていました。何の事かと思うと日本は高床式住宅で床の下は物をコボシテモ問題無いと思っていました。畳の床を、籐の幅の荒い床の下に豚でも飼っているように思われていたのでした。

 そんなに前とは違うと思っていた昭和と言う事に懐かしさを感じてきました。あっという間の平成25年、その間戦争を経験し無くて良かったです。これから伸びゆく昭和25年、その様に平成25年もなって欲しい物です。
 とりあえず日本の年号は良いものです。
 







































































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283 年初め!

2013-01-05 06:17:08 | 思い出日記
 新年程四季のある日本に生まれて本当良かったなと思います。日が1日開けるだけで気も一新、何かが変わらなくてはと思います。さて何がと考えて、とりあえず皆さんの健康を祈りながら、無理せず健康一番に自分の身体を第一と考える事とします。それと願いですが、恥ずかしながら今の状況から脱出する為に、何十年買っていますが成田にいた時に少し当たってパソコンを買っただけで、今年は是非宝くじを当てたいと思います。

 子供頃の年末31日は、夜遅く眠いのに無理して起きていました。そしてゆく年くる年の表示を見て寝ました。この数年は番組が楽しめずに眠くて、12時迄起きてテレビを見ているのが疎ましくなりました。どうしても昔デンマークにいた時に、夜空に打ち上げられた花火を仲間で見て越した年末を思い出します。

 今は、各テレビ局が、年々競って紅白歌合戦をワイドショウの話題に良く取り上げて盛り上げます。他社の番組を宣伝している不思議。しかし、その効果が無くなった場合NHKの視聴率はどうなるかと思います。無ければ確実に10%は視聴率が下がるでしょう。
 昨今は紅白歌合戦からの出待ち迄やって、視聴率を取ろうとしていますが、ヤッパリ国民的行事だと思う様になりました。しかし、国民みんなが知っている流行った歌と言う物が無くなって淋しい限りです。スポーツ、マンガ、料理バトルと31日の番組に日本人の趣向が様々になったと思います。色々な歌手が31日にカウントダウンコンサートをやる様になったのも世の中趣味の違いが鮮明に表れて来たのでしょう。私は結局、風邪をひきまして早めに寝ました。

 それも遠い昔、自分が生きていたのが不思議な40数年程前に、知人のアメリカ人が、正月に店が閉まっていて困ったと言ってました。しかし元旦にお店が開いているのが当たり前となりました。年末に物を買わなくても、この頃は何でも買えるようになりました。でも、何故か年末に大量の物を買う人がいるのが面白いです。

 和服を着た芸能人が出て来る、毎年同じ様な番組で正月を知る様になりました。去年から箱根駅伝そして年賀状がいつ来るかと待っています。これが最近の正月です。若い人達は年賀状も出さ無くなった人も多くなり、寒い中郵便局の前で年賀状を販売してもどれだけ効果が上がっているか分らない状態です。

 テレビが無かった時代、私の両親は随分とのんびりと月を送っていたのに違いありません。メールで最近一年前のブログを送って来るようになり、どんな事を考えていたか思い出します。改めて、皆さん、せめて正月だけは毎年日記をつけるべきです。振り返ってばかりは良く無いですが、あの時に世の中どうであったか思い出す手掛かりになると思います。

 遅くなりましたが、今年もどうか宜しくお願いします。
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