旅、思いで思い出し           何も知らずに旅にでた!

昔ズート昔、旅をした。何も知らない私が、若かった,若いだけだった!
半世紀前の事....

290 記憶に残っている事 

2013-02-23 06:34:03 | 思い出日記
 一番古く記憶に残っている事が何だか考えた事がありますか。私は、小学校の入学式であります。古い事は、写真の影響が一番あると思います。

 それより前と言うと幼稚園の二宮先生、太っていて小柄で優しくその先生の姿は覚えています。その時先生は何歳だったか、でも小学校2-3年の時に亡くなったと聞きました。若かったと思いますが、ショックで、死と言う物が私の私の人生に入って来たのでした。先生の年の事は分らないけれど、ひまわり幼稚園が堀川通を通る度にその光景を思い出し懐かしいです。

 小学校の入学式に、幼稚園の友達3人と写真を撮っているのを未だに覚えています。その後、3人とは別々のクラスになってしまって不安でしたが、希望に燃えていました。

 小学校に入ると1-2年が女性の沢田先生、顔は良く覚えていて痩せ型でメガネを掛けて良く怒られて、当然のように口にテープを貼られて机に縛られました。3-6年が松尾先生、後で直接聞いたのですが、当時に実験的に同じ先生が4年間も担任をやったのでした。

 TVが家に来たのは小学校高学年の頃ですが、それまでは休みの日にラジオを家族みんなでテレビを見る様に、ラジオを中心にねっころがって聴いていた事も何故か覚えています。エンタツ、あちゃこ、蝶々さん等の番組を 腹を抱えて笑った記憶があります。どれも自分がいて、その周りに誰がいたかと言われるとこれも記憶にありません。

 家の前が30cm程のどぶで、今と違い本物の石ふたが安定が悪かったのか良く車が脱輪していました。遊びで石あて(3-4メートル位の所に20㎝四方の平たい石を立てて、石を滑らして相手の石を倒す遊び)は舗装してある小学校の時に遊んだのですが、丁度いい石を取りに行ったのを思い出します。誰が考えたのか、近所に石屋があったので出来たのでした。大きくなると共に車が増えて来て出来なくなるまでの少しの間であったに違いないと思います。路地で釘さし、外で遊ぶ事ばかりでした。

 お菓子会社のカバヤのウサギ狩りに行って、どの様にして離したのか大きな網に追い込んで捕まえました。それをどう料理したのか、今考えると、残酷にも美味しく確かお汁にして食べた事も思い出します。年末の風物史として紹介された、竹薮から雀を一網打尽にして獲る風景も時代とともに放映されなくなりました。今考えると動物虐待になる事だと気づきます。
 

 こんな話をするのは、年取ったせいで自分の過去の事は懐かしいだけで、聞いていて詰まらないと思いますが、みなさんは自分の過去を覚えている限り、簡単でも若い内に記録すべきだと思います。

 
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289 アメリカで思い出す事 

2013-02-16 06:40:01 | 思い出日記
 もう記憶の奥に収まっている、ダラスの知人宅に滞在している時の話。南にWACOと言う町があり、一度行って見ようと車を走らせました。いつもの如く、その場で決めました。やっぱり予習は必要でした。

 WACO、ウェイコと聞こえますが、ドクターペッパーの本部があるので多分米国では有名なはずだと思います。ダラスをでると小さな丘があるだけで、車も少なく、ズート運転をしていると眠くなって来るような道のりを覚えています。

 テキサスレンジャーのミージアムがあったり、小さな店であったと思いますが、ドクターペッパーの店がありました。味はやはり馴染めず、古い橋で娘を肩車して写真を撮った事が遠い思い出です。最近は娘と一緒に写真を撮る事が無くなったので、尚更良い思い出です。

 ビジネススクールで土曜にバイトをやっていて、そこでサンアントニオにあるアラモの砦の話に、誰も知らないのに驚かされました。デービークロケット、ジムボーイ、トラビス大佐などが活躍したジョンウエインのアラモの砦、30年数年前に常識が常識でなくなりました。守備隊長でナイフの名手とされたリチャード ウィドマークが演じた‘ジムボオイ’のボーイナイフが展示してあったりしたのです。今、本物だったか記憶も曖昧になって来ました。
  
 帰りの道で入って店でCatfish (ナマズ)を始めて食べた事や、ステーキを注文した所、焼きすぎるので(炭の様な肉)何時もレアを頼みました。表面を軽くあぶっただけ噛み切るのに苦労する中は冷たく、日本人食べられるものなら食べてみろと言うような生肉が出て来たのには驚きました。

 別の時に、ボルチモアからワシントンに行く途中のアナポリスは海軍の基地が確かあったと記憶しますが、入り江といい小さな町と言う雰囲気でした。映画の撮影で良く使われそうで帰って見た映画も風景が撮られていました。一度は皆さんに行って貰いたい所です。

 ワシントンに行った時、エアポートで予約したホテルの中を見てビックリしました。ホテルチェーンだから大丈夫と思ったのですが、そこは長期滞在者ばかりで中東系の人達ばかりがいて絨毯が湿っぽい感じがして嫌な雰囲気で、直ぐにキャンセルして他のホテルに泊った事がありました。

 街に出て、タクシーに乗る前に料金を問うと、インドの大様と言ったドライバーが大声で300ドルと大きな声で言われてマタマタビックリしました。驚いて、そんなに高いのはやめ様と思ったら、直ぐに冗談と分りました。何でも後で調べるまずさ、ワシントンでは区域によって料金が一定となっていた様でメーターがありませんでした。アメリカ人?のジョークを言っただけと分って安心した事がありました。

 話は思い出しの事となり、前後が分らなくなります。その時は分ってもやはりメモ程度は採っておくべきとつくづく思います。
 
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288 今、平和だから..

2013-02-09 07:00:00 | 思い出日記
 硬い話で申し訳ないですが、世の中騒がしくなり現実に戦争と言う影が色濃く心配がますます増えています。新田次郎の‘望郷’と言う短編集で、戦争と言うものをさらに考えさせられました。
 本来、本の解説と言う物を余り重要に思わないのですが、多分その本自体を読んだ人は少ないと思いますので、それを紹介します。

 望郷を中心にしての短編作品は、一つの環を形作っているような気がする。その前篇とも思える豆満江、又その前篇である事も言える‘夕日’西沙島から蒸発した男、生き残った一人、七人の逃亡兵、総てが1冊の本に第二次大戦によって翻弄されつくした男たちの物語であり、いまさらのように戦争の怖ろしさが読む者の心にこみあげてくる。新田氏は少しも声を荒げずに、すぐれた反戦小説を書きあげているのである。解説 山田智彦(私見:新田次郎のその自伝的小説は強烈でした。)

 新田次郎と言うと‘八甲田山死の彷徨’映画名‘八甲田山’最近であれば‘劒岳 点の記’等で一般に知られていますが、戦争作品でこれ程迄に一般人を描いた作品は少ないと思います。

 もともと中国大陸に戦争直後、一般日本人が置き去りにされたのは知っているつもりでした。それが数十万人の人がその日から路頭に追い出された等、知らなかった事ばかりです。その僅かばかり知っているより惨い状態でした。さらに、ソ連支配下のシベリアへ抑留された人達は想像を超えて、どの様な状態だったのかと考えさせられます。

 私の身近に聞いているのはビルマの京都の128部隊での戦争に負けて逃げる兵隊の事です。知っていると言うと今は亡き人達に怒られますが、この悲惨な戦争に付いて、我々戦争経験が無い人間が次世代に語り継げなくてはいけないと思います。

 128部隊と同じ京都に住んでいた父親が死んでいたかも知れないのです。父親は片一方の足が少し細くなっていて兵役を免れたので助かったのです。

 その父親も知っている人達、ビルマ128戦友会の人達に可愛がらていました。戦友会に出ていって飲み会にも誘われた事は以前にもこの場で紹介した事があります。お会いする度の話ですが、戦車に遺体がひかれて手足が飛んで行った事、蛭(ヒル)が身体に付いた時は取れないので煙草の火で取る事、梅毒にかかった兵隊の有様、小便をしたら蟻が一杯寄って来た事、弾は前(敵)からだけでなく後ろ(味方)からも飛んでくると上官を脅した事等でした。その中の一人の人はまさに戦争やくざで、馬に投網を積んで上官の命令を聞かず、注意を受けると短刀で脅した事もあると言っていました。しかし、逃げる時、ビルマの人達が軒に食べ物を置いてくれた事もあったと聞きました。

 靖国神社 遊就館は戦争礼賛している様に思いました。こんな戦争を2度と起こしてはいけない、起こすべきではありません。
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287 良い所を見つけ出す、何処かに良い所がある

2013-02-02 08:04:00 | 思い出日記
 高校の先生が、正式名称は知らないですが映画監督の‘五所平ノ助の集いの会’の現在会長をやって年一度東京に行かれています。試験の採点には必ず‘ごしょ’とサインがしてあり、先生が尊敬して愛してやまない映画監督です。私の世代よりも少し年上の映画ファンが良く知っています。

 この先生とは、欧州を一人旅して歩いている時に、本当に突然に偶然スイスの町であったのでした。1ドル360円当時、今の様に簡単に行けるはずが無いのに、ツアーで旅行中でした。卒業して2‐3年、私が欧州に行っているのをご存じなく、会った事を私以上に驚かれたと思います。その時、パリ祭に自分の部屋に来ないかと誘われたのでした。そう目的のある旅で無かったので行けば良かったのですが、何故か行かなかったので惜しい事をしたなと、後悔しています。

 スペインで買ったロングブーツ履いてスイスの町を一人歩いていた時、日本人グループがバスから降りて来られた時、バッタリ会いました。すぐ近くのオープンカフェでコーヒーを頂き、チップを置いて‘マダム シルブプレ’と言われた事を思い出します。この前、聞こうと思っていたら、より先に、スイスのどの町であったか聞かれたのでした。勿論、忘れていました。

 その先生に、五所監督の汽車とからました話が、産経新聞にシリーズで記事に載っているのを郵送しました。記事を書いた人は、色々な映画を汽車に絡ましてシリーズで書いているので、さすがに良く映画を見ているなと思いました。先生に聞くと有名な人で、同じ映画好きでも映画評論化になる人は見る所が違っています。ただ映画を楽しむだけで、私の場合は終わります。

 昔、映画評論家の淀川長冶さんが、‘どんな映画にも何処かに良い所がある’この考えはどれにも当てはまります。それを私の映画鑑賞に生かして、2級3級勿論1級とあらゆる、映画を見る事にしています。

 若い頃、寅さんを二人で見に行って、凄く面白かったのにもう一人が気に入っていなかったのでした。今なら面白く無い事が分りますが、私もつまらない思いをした事がありました。それ以来、一人で行くのが多くなりました。

 その時、返事と一緒にラジオ塔なるものが写真と一緒に送って来ました。ラジオ塔とは私自身は聞いた事が無かったですが、京都に7つあると言うことです。私も色々な事に興味をいだく者ですが、その塔の事はなにも知りませんでした。

 世の中便利になったもので、早速インターネットで検索して見ました。昔ラジオを聞く為に広場に作ったそうです。私たちの世代は公園でテレビを皆で見ました。それが石でできている為、戦災に合わなかった為に残ったものですが壊すのが面倒で今まで残ったに違いありません。
 ラジオ塔は多分見過ごせば何の事も無く石の塔、世の中興味があれば、何でも気に掛かるものです。
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