旅、思いで思い出し           何も知らずに旅にでた!

昔ズート昔、旅をした。何も知らない私が、若かった,若いだけだった!
半世紀前の事....

16 話 静寂、正月前の明治神宮と喧騒、年末のドマンナカ上野アメ横。

2010-12-30 06:13:13 | 思い出日記
 12月31日JR代々木から歩いて約10分で明治神宮北門に着いたのが朝の11時、屋台のオープニングの用意に忙しい人たちの間を車が一台北門に横着けました。朝のこの時間に矢ぶみのお守りを返納、毎年やっていそうな夫婦が手慣れた様子で、殆ど人を見かけない時間帯に神宮境内に入りました。屋台の方はと言うと、すでに焼きそばを焼き始めている要領の良い店もありました。境内に入るとハウスレスの人たちが何人か広い原っぱで長い寒い夜を無事過ごせた喜びを表すように太陽の暖かさの中で寝転がっていました。それが視野の邪魔にならないほど広い野原でした。その後も殆ど人に会うことなく本殿へ、その頃にはさすがに人も多くなってきました。
 大鳥居、一の鳥居まで逆周り。これは意外に坂を下るので楽ですが、正面から行くと神社の尊さを知る工夫がなされているかのように本殿迄の長い道のりが造られているので有難さが倍増です。裏門からか表門から本殿に行くのかは好みで選んで下さい。代々あることから代々木の地名がついたと言われるもみの木も見ながらじゃり道を楽しみました。この道は毎年元旦のテレビでよく映るので東京に来たら是非行って見たいと思っていた所でした。新年を前に長年の夢が叶いました。願い成就です、有難や。

 続いての代々木公園(まさか隣にあるとは知りませんでした)はロンドンのハイドパークを思い出すような公園で驚き懐かしみましたが、こちらは烏がうるさく残念でした。しかし、広く綺麗な所です。春にもう一度来たいものです。

 公園を出て直ぐにNHKホール、知らなかったですが、既に紅白の切符買うためのダフ屋さんがいました。その横のNHKの無料施設を見学(無料施設はNHKを利用するのが原則、何もチェクされず)井上ひさしの言葉ー難しいことをやさしく、やさしいことを深く、深いことを愉快に、愉快なことをまじめにーに納得。数々の有名人の色紙の言葉を読みその施設(紅白の為のデジタルホール?)に感激。

 後は、渋谷のパルコ等で店員の服装チェック。外人のマフラー結び方をいただきコピー。似合うかどうかは別問題、でも自分では何でも似合うと思っているのでたちが悪いです。

 渋谷から秋葉原まではJRで、全国人気NO.1のラーメン店の行列に驚き、今日は諦め次回挑戦予定。今回は渋谷のこたろうと言うラーメンを食べました。待てるぐらいの列がたまたまできていたので食べました。一人のときは入りやすい。ラーメンにキャベツが珍しい店でした。

 秋葉原で携快電話7(これが便利)を購入後 アメ横雑踏に、期待した通りの混雑でした。おじさんのじょうずな口上と安さで思わず正月に食べきれないお菓子を買ってしまいました。まぐろ、たこ、蟹が安いのですが一人身には多すぎますのでパスしました。
   新東京発見に満足 ◎皆さーん、良いお年をお迎えください!◎
★時はすぐ 楽しまないと 不幸くる★
    ★備えたい 来る年未来 新鮮に★   △ Я ▲ R.CONTI

15 話 六本木から田町まで、

2010-12-24 23:41:25 | 思い出日記
 10月17日、久々の散策2時間30分は本当にきつかったです。六本木ヒルズを左に見て霞坂を下り外苑西通りを左へイタリア料理のイ・ビゼッリを又左へ折れると鉄砲坂、少し奥まった所にある来月姪の結婚式会場のコルディアール麻布、中々落ち着いた建物です。この場所を知るのが目的でした。そして、ここを基点に大使館巡りを始めました。

 この一帯は静かな所で、右へ行くとスイスとノルウエー大使館があります。一般の家もその一軒の大きさが半端で無く大きい、どこかの会社の寮か何かと思って表札を見ると個人宅。その大きさに驚いて暫く下って行くと広尾駅。これだけ大きな家も続くのは東京です。
裏手を行くと似つかわしく無い長屋、そうです高級住宅地広尾に住んでいるのと言うのに誤魔化されてはいけません。大きい家が殆どですが小さな小さな家もあるんです。その長屋に、この先行き止まり、ふさわしく無いDead endの文字。どうして英語が書いてあるのか後で分かりました。大阪で1週間に会う外国人がとにかく多い、取りあえず東京でも今迄で一番、住んでいると思われる外国人が多いのにビックリしました。
 午後2時30分、幼稚園か保育所が終わったのかやたらバギーを押した人が多い、それもアジア系の家政婦さんと思われる人が多くいました。そして有栖川記念公園の広場に日本人に同化した外国人。この公園、古池や蛙飛び込む‐を思い出すような池。そこで大都会とは思えない釣りを楽しむ人が何人もいました。特に釣りを禁止していない、都会にある場所とも思えないうっそうとした古い木々に覆われた広い場所でした。東京来て驚いたのは緑が多いことと公衆トイレが多いこと、ここが京都の町中とまるっきり違うと知りました。京都は町中に私が遊んだ御所はありますが、緑がないのです。山で緑が多そうですが、夏歩くとその日差しのキツサで良く分かります。

 南部坂を上り、途中右へドイツ大使館を右に暫く行くとチーズのいい香りがするフランス大使館。本当にチーズの香りがしたんです。やっぱりフランス大使館 それは臭いで分かります。そしてフィンランド大使館を過ぎると本村小学校。其の横を突き当たると、釣堀。ご丁寧にテレビ取材お断りの注意書き、そのたたずまいは都会を忘れさせてくれるのに充分。近代的な六本木ヒルズは何だったのか不思議な場所です。何人かが、平日にもかかわらず、何が釣れるのか、決して安くは無いのに楽しんでいました。やっぱり金持ち?がいるんでしょう。
 奴坂を上り、薬園坂を下り、イラン大使館。ここは今までの大使館と違いゴージャスさはありません。少し行き左へ都会の中、本当の墓場、死んでもこんな所に埋めて欲しくない程、隣との境目の無い墓石が所狭しと並んでいて、これでは石置き場です、都会に住むと言う事は生まれてから死ぬまで狭い所に住まなければならないのです。でも、都会に死んでも住めるのは幸せかも、細い道を行くと其処だけ立派な曹溪寺。
 桜田通りで信号待ち、横にいる、前から来る人が皆外国の人でした。ここから暫くはビルの間行きますが、ハンガリー大使館をそしてこの坂に名前がついていないのが納得いかない坂を過ぎると超モダンなオーストラリア大使館。綱の手引き坂を感じる前に左へ、それらしいイタリア大使館(大石主税切腹後は見学不可)。一応ここで大使館巡りは終わりました。

 この後りっぱな並木道に囲まれた篤姫で有名な薩摩藩邸跡(NEC本社)まで来るとそこは田町駅です。久々の散策でしたがやっぱり歩かなければ良さ分かりません。東京は凄い、なんでもここに集まるのが分かります。

番外 色々な知り合い 戦友会

2010-12-18 11:46:52 | 日記
 自分の息子のように凄く可愛がって、私も父親をなくして父のように思っていた人がいました。お陰で、戦後生まれの私も戦争と言うものに深く関わったのでした。
 京都の人で染色の仕事をして、私の父親のことも良く知っていました。父親は足が少し片一方細くなっていて兵隊に成れずに軍隊には行きませんでした。兵隊に行きたく無い為に醤油を一升も飲んでいた人もいる時、自分はそんな事もせずに幸運だと言っていました。ただ、京都に2発の爆弾が落とされて、その一つが我が家の後ろに落ちてその当時土間の土がみんな上に上がって大変で、(今なら車で直ぐの所に)疎開しました。戦後も我が家は、仕事上石鹸を箱ごと部屋一杯に持っていた為に比較的に恵まれていたと言っていました。そもそも父が戦争に行っていたらこのブログも書けなかったに違いありません。

 その方は128ビルマ会の人で、私も戦友会にも常に誘って貰って参加したものでした。若い人が増えるわけでなく常に人数が少なくなって行く会と聞きましたが、その通りでした。しかし、その当時会はまだ盛況で常に大勢の人が集まっていました。
 会が終わったら、祇園や先斗町のお茶屋で、5-6人で酒を飲むと言うのが普通でした。そんな時に私はお座敷芸もできずに芸者さん相手にお酒を飲む事しか出来ませんでした。それでも若かったから自由にさせてもらいました。とても自分一人でとても行ける所では到底ありませんでした。情けないですが、今でも行ってません。 

 その当時に聞いたビルマと言う国は、英国の圧制を開放してくれた日本に感謝して、負けて逃げる時に日本兵の為にビルマ人たちが、わずかな食料しか無いのに、家の前に食べ物が置いてあったそうです。ジャングルの中ではヒルに悩まされたそうで、ヒルが付いたらタバコを近づけて剥がすとか色々な事を聞きました。そうしないと取れなかったそうで、戦車が人をはね踏んづけて、その手足が跳んでいくことなど、梅毒にかかった2人とか、小便をするとアリが一杯寄って来た話等どれも私にとっては衝撃的なものでした。殆ど私が覚えている事は敗走の時のことでした。
 たまたま、大尉と言う人が来ていて当時は凄く怖い人かと聞くと、そのような事もなく、鉄砲の弾はいつも前から飛んで来ると思ったら大違いだと言う、本気な脅しで、階級など関係無かったと聞いて、なるほどと感心したりしました。
 又、その内の一人ですが、兵隊やくざを地で行くような人もいて、馬の背中に打ち網を常に乗せて人を乗せなかった話。上官に短刀を持って押し掛けて行った武勇伝も本人から聞きました。その人は銀閣寺の近くでスッポン料理店をやっていましたが、行くといつも私に帳場で一杯やっていく様に言ってくれました。私も人を誘って良くその店に行ったのですが、何時ものように一杯飲んでいると、伝票整理をしていて、その値段の高さに驚いた事を思い出します。

 私がなんの予備知識も無く始めてビルマ(ミヤンマーでは無かったし、直接キップも変えなかった時代)に行った時、女性が、皮膚病かと思うほど、みんな顔が白くザラザラして気持ち悪い思いをしたのでした。幸いにそれは日焼け止めと後から聞きました。そんな所で寺院に入る際は靴下を脱がねばならなかったのでビクビクしていました。一般の家も都会では鉄の柵がしてあって何とも恐ろしく感じたのでした。
 同じグループの中に、大日本帝国のパスポート(後にも先にも初めて見ました)を持っていた木村さんと言うお婆さんの話をしなければいけないです。
この方は、当時既に80歳を超えられてかなりの小柄なお年寄りでした。その方が凄いお医者さんで、伝染病(多分コレラ?)になった人たちを、私など真似できない、病人のカヤの中で二人になったりして、数え切れない位の人を助けたのでした。
 当時もう少し話を聞いていたらと、悔いています。間違いなく歴史に残る功績があった人でした。現地に行くと昔を思い出されたのか、衛生状態の悪い中、屋台の食べ物を買って食べておられました。
 この様な人がかなりいたと思うと、私も色々な人にお会いしている事を思い出します。

14 話 京都宮山町 

2010-12-10 20:41:53 | 思い出日記
 10月この日は大阪から出発、カーナビを持ってないので、インターネットで調べた簡単地図のコピーを持って行きました。不安に感じて何度も途中で道を聞きながらやっとたどりついたのが、美山町の西玄関大野ダムでした。地域とダムの成り立ちの説明してある管理ビル、そこでやっと一休み。

 紅葉まで今少し、公園となっていてバーベキューを楽しむ家族がありました。春なら桜が美しい所でしょうが、渇水期でダムから下を覗くとその高さに高所恐怖症の私には少し強烈な風景となっていました。

 少し車で、日本で一番古い民家、かなり古くて1650年位と言われる石田家を見学(その情報はダムの展示室で得ました)。その茅葺屋根は再生されていて、おばさんが週末番として気さくに応対してくれました。再生の為の日本のかやも少なくなって中国からとりよせたとの苦労談を聞き保存の難しさを改めて知りました。

 すぐ近くの大原神社を見学していると、ご近所のおじさんが気さくに声をかけてくれて明日お祭りなので又明日来ると良いと教えてくれました。勿論このような遠い所にこられる訳がありませんが、その気持ちに本当に田舎の良さを感じました。

 そこから茅葺屋根の集落を探してあちこち見回りました。何度か集落の場所を聞きましたが、田舎の尺度での距離は遠く、都会人(私)とは少し違ってナカナカ分り難いものでした。 
 途中の茅葺の家を何軒か見てはここが言われている集落かと思い、昔の田舎をしのぶ風景に感動していました。美しく整備されている村を見ながら、かなりの距離を車で行った所で茅葺屋根の情緒あるお店〔そば処・もりしげ〕を見つけました。車が止まっていなかったら通り過ごしてしまっているような普通?の茅葺の家でした。駐車場も無いので少し前方に車を止めて中に入ると、囲炉裏があるかなり広い民家でした。まだ2時頃にもかかわらずできる料理は限られていました。と言ってもそんなに種類があるわけでも無く、11時から4時まで営業で不定休と言うナカナカ面白いお店でした。トイレも近代的で、行かれる方の為に電話は0771-75-1086で要予約コース料理もあります。
 私が注文した蕎麦定食も、それが最後で後から来た人たちは蕎麦の単品だけでした。同行のスイス人の友人にも喜ばれ残さず食べて頂きました。商売気が余り無さそうでしたがお店のひとは気さくでした。靴を脱いで、土間からあがった畳の上は広々としてのんびりできました。是非一度訪れて見てください

 食後に又しばらく車で行くと、今度こそびっくりさせられる風景が田んぼの向こうに見えてきました。本当に日本昔話に出てくるような茅葺の集落。白川郷にしかこんな所は存在しないと思っていましたが、そこより良いかも、数にして多分30数軒の茅葺の家々が保存よく私の想像を越えた風景が展開しているではありませんか。目の前にしたものを見て日本を見直しました。古いものをこれ程までに状態良く保存して茅葺で無い家もそれなりに気を使った家が建っていて集落をつくって観光客にも対応しているとは驚き以外の何物でもありませんでした。道路を挟んで右側には大きな駐車場と2軒の茅葺屋根のお土産屋さんが体裁よく建ち並んでいました。これも素晴らしい。沢山の観光客も別に気になりませんでした。

 こんな所は、大好きなスイスからの友人が日本の田舎を見たいと言ってこなかったら先ず行きませんでした。大阪から往復約250KMの行程でしたが、今回はその美しいその風景に堪能いたしました。
 これも私の憧れのスイスの友人と行ったかも、一番のお薦めです。機会を見つけて一度は皆さんも訪れて下さい。

13 話 7-8年位前の事 麗しの人

2010-12-04 08:50:54 | 思い出日記
 多分7年位も前、10月の10日間は限りなく観光してきました。時期外れとなりましたが今回は毎日平均200キロを走破するナカナカの強行軍でした。

 そもそも、スイスから友人と言うより私の憧れの人が、その友達と尋ねて来たのでした。彼女はロンドンにいた時に大好きで、ダイアナ妃ににて、日本びいきな人で私と同い年でした。是非日本に来てほしいと思っていました。

 一度は私がスイスに行き空港で抱き合ったのが(映画の様に人前でこれをするのが憧れでした)懐かしく思いますが、コロンビア人との間に子供をもうけたのですが現在は一人です。ロンドンにいた時に、本当にうぶな私が最後のチャンスをものにできずに、ただ日本に来て欲しいが為に、その時は、パリのオペラ座の前で12時に会おうと別れたのでした。
 結局、何時間も待ちましたが、会えずに失意の内に一人で旅をしたのでした。厚かましくも彼女のいない家で1週間ほど世話になったのでした。まあ、うぶで良かったと思います。

 日本に帰った時、テレビで加山雄三がローマでフィアンセと沢山ある凱旋門で会う為探しまわったと言う話を聞いて、観光客にはそんなに難しい事では無いのに話を大げさに言っていると思ったのでした。しかし2人は会えたから良い思い出になったのだと思いましたが、私の場合会えなかったのですから(ー_ー)!!、今でもその時にくれたスズランの花を押し花にして思い出として持っています。
 未練があるではありませんか。良い思い出です。

 そんな彼女と、初日は桂離宮、京都御苑、この二つは久々に行ってまいりました。久々に行った為に道に迷うかなと思いましたが、昔取った何とか、つまり学生時代に配達のバイトでこのあたりを頻繁に単車やミゼット(若い人には馴染みが無いですが、この当時もナカナカ見られない車でした。パンクしてタイヤを交換しようとしたのですが、針金で止めた為に助けを呼んだ事を思い出します。)で行き来した事があって桂離宮は比較的に簡単に見つけられました。グループ一員として、じっくり見学できました。
 十月の日差しに恵まれてその今で言うエコの館で何度みても素晴らしい物でした。龍安寺、渡月橋、松尾大社と無難?に終え。 実際は途中北山にてスイス人の友人でもある、友達の陶芸展示にて陶器購入旧交を温めるなど 最初からかなりハードでした。その為もあって、いささか慌てて京都御苑にそこでも友人が遅れを心配して待ってくれて時間にどうにか間にあって御所見物でした。

 2日目はもっとぎっしりと修学院離宮からマタマタ友人の陶芸展を訪問。金閣寺(こんな事でも無ければ見なかったのですが、本当に綺麗な建物でした)見学後、円山公園地下駐車場に車を駐車してタクシーにて清水寺へ。ここは私の一番好きな京都のコースです。子安の塔からの清水の舞台を見るのがお薦めスポットです。 3年坂、2年坂からねねの道(途中の龍馬のお墓はスキップ)を祇園へと行くコースは京都で唯一昔に比べて良くなって観光客に楽しめる道並みになっていると思っています。
 最後にその階段がLAST SAMURAIにも出てくる知恩院さんでしたが 既に真っ暗でした。

 京都、奈良と巡って見てみて神社、お寺ばかりだとどうも同じに見えてきたのは私だけでしょうか?特に神社は同じに思えてきました。2人とっては有難迷惑かも知れませんでした。