旅、思いで思い出し           何も知らずに旅にでた!

昔ズート昔、旅をした。何も知らない私が、若かった,若いだけだった!
半世紀前の事....

780 大陸到着そこは社会主義国でした (次回更新予定 第一土曜日3月7日) 

2020-02-15 05:50:15 | 
 '71年6月11日ソ連ナホトカにに3時に到着5時下船、さっそく町を見学。山が海に迫って、そのわずかな所にアパートも多く建っていました。道路は悪く、日本が戦中に使っていたような車が走って、酔っ払いがいました。先ず、その貧しい環境に驚かされました。とても社会主義の一等国とは思えないものばかりでした。そして肩に機関銃を下げた人がいて、写真を撮るのも難しい雰囲気でした。食事は混んでいるにも関わらず約1時間とゆっくり。ソ連人のむっつりとした無愛想さとともに散々でした。
 ハバロフスク迄列車で、線路沿いの村はもっと酷くて、平屋建てのトタンでできた家が殆どでした。冬の寒さに耐えれるのか?4時頃にもかかわらず薄暗く、どの家も電気は全く点けていなかったでした。それに車も殆ど無く、どの道も相変わらず凸凹でした。昼食後、空港で出発を約2時間程待ちました。とメモに...
 そして生まれて初めて乗る飛行機でモスクワに!でも機内の送風口から白い煙の吹き出しにビックリ。機内食は無くて、お茶と菓子のような物のみ空腹感を覚えました。到着したモスクワはナホトカやハバロフスクとは大きく違ってビルが沢山ありましたが、大通りを外れるとやはりみすぼらしい家がありました。
 ホテルでは柔道家の村山由行さんとの二人部屋で少し落ち着きましたが、紅茶の砂糖が硬くて溶け無い、その硬さだけは鮮明には覚えています。又、トイレの紙がツルツルで薄くて丈夫、水に無事流れるのかと余計な心配をしました。そして人間も硬い、それが印象に残ったようです。
 翌朝、町に出ると長い行列が幾つも、何か買い物でもしている様でした。天気は変わり易く、曇り後、快晴後、小雨。そんな中、モスクワ川(正式名称?)で遊覧。今まで見たことの無い汚い色の川で、驚いた事に、その川沿いに日光浴をしている人が多くいました。そして乗り場は何処も一杯の人でした。
 下船後、地下鉄を利用してホテルへ、途中で「買いたいセイコー」と言うロシア人に、真似をしてサングラスを手にして「売りたいグラス」と皆の笑いを...
 その後、欧州旅行が三度目と言う画家の古屋さんが旅の逸話を披露。印象に残っているのは欧州を描いた絵画が良く売れるので着いたら忙しいと、その経験談と裏話の楽しい話を聞く事ができました。
 ロシアの万博に行ったと、どうにもどんなだったか思い出せないです。出国は入国に比べ簡単でしたが、ワルシャワで夜 列車に検察官が乗り込んで来たのを何故か覚えています。どれもこれも多くがメモ日記を中心に書いていました。
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後書き、退職後この旅話を週一で、良く書いていたなと思います。でなかったら殆ど忘れています。当初は文の長さが分からないので1500字に決めていました。その後、鬼籍に入られた高校の古典の水谷先生に教えを請い、そこで1100字前後がその当時の新聞のコラム欄で読みやすいと知りました。その話を聞く迄の当分の間、字数が多くなる場合もあります。現在は二週間に一度、添削して読みやすくしたいと思いますので、宜しく付き合ってくれたら嬉しいです。
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779  出港と別れそして船の中 (次回更新予定 第三土曜日 2月15日) 

2020-02-01 04:45:40 | 
 真っ暗な4時起床、7時30分横浜ホテルプリンス出発。旅慣れしてない、と言うより全く初めての一人旅が始まりました。黄色のリュックでサイドバックが付いた、その頃普通の新品の大きなリュックを背負って船に乗りました。こんな重いものを持って、これからやろうと思ってもいないヒッチハイクを、メモ日記を自分で読むと忘れている事が沢山ありました。今や、そのメモもどこにあるか分からないほど、大きな??家に住んでいます?
 これから経験することは全て人生初、船の別れがこれ程寂しくて心ぼそいとは、こんなにも長く家族と別れる事自体初めてでした。母と兄にテープを投げて、そのテープが切れて行く寂しさと不安さは思い出しても涙が出てきます。そのテープは誰から渡されたか等、殆どと言うよりまるっきり忘れていました。
 母と一緒にどうホテルから港迄 、兄が 何時来たのか覚えていません。ただテープが切れて自分一人になったと言う実感だけです。その二人の姿が見えなくなる迄、別れを...日記を書いて本当に良かったと今思います。
  船室に入ると、ベットが左右上下で4つありました。何か映画で見る古いタイプの潜水艦の内部のようで、ドアが頑丈だったのを記憶します。その部屋の最年長者は柔道4段の村山由行さんでドイツに武者修行。総額35万円で旅をしようとしている築山由雄さん、そして大塚栄一さんでした。他の部屋の人ともすぐ親しくなり、夜遅くまで話をしました。と日記に。 運動はと言うと食堂迄の往復でしたが、食堂がどんなだったか、まるっきり何も覚えていないし、忘れてしまった事ばかりでした。
社会主義国ソ連での入国検察が厳しいと言うのでお金を丸めて歯磨きチュ-ブ(当時のチュ-ブは後ろが開きました)の中に全財産を入れてびくびくしながら、緊張した顔で現在だったら絶対見つかると思うのですが無事通過。いい時代でした。西も東も右も左も上も下をも分からずおっかなびっくりの若かった20才、京都を出たのが初めての旅が始まったのでした。
旅で会う人、殆どが一期一会でした。そして、父に二度と会えないとは...、帰国後、最も旅の話をしたい父が亡く、帰って1年後、母が追うように亡くなるとは、まるっきり考えもしていませんでした。両親にはこの旅の話を一切していない事を悔いています。
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 後書、どう京都を出て、又、横浜ホテルプリンスの予約は?本当に世界一周をやったのか?村山由行さんの事は懐かしく名前を、ただイメージだけ思い出します。多分自分の事で精一杯で、皆と、どう分かれたのか?殆どの事はメモ日記があるから書けたのです。??ばっかしです。ただネットは凄いです、姓名だけで50年も前の人が分かりました。新シリーズとして添削して書いていきます。再度、連載するように言って下さった山僴居さん、本当に有難うございます。
 
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