京都に帰ると雨、今回2週連続行って雨、3度目の正直で、午後から雨と予報では言ってましたが、やっと快晴に恵まれました。
京阪東福寺駅を下りると、紅葉を見る人でいっぱいでした。人ごみから外れて、今回目的の東福寺塔頭(たっちゅう=別坊)の毘沙門堂勝林寺がありました。秘仏の本尊・毘沙門天立像(高さ約1・5メートル)の胎内仏「毘沙門天三尊像」が初めて一般公開されているので見学に行きました。
江戸中期以来250年間封印されてきた「秘仏中の秘仏」で、三尊像は4年前、高さ30センチの深紅の厨子(ずし)に入れられ、本尊の腰の部分に納められているのが見つかったとなっていますが、案内の人は入れた時から分かっていたとの事でした。しかし寄木作りの名人が作り、腰の所にどのようにして入れたのか分からないとの事でした。
中央の毘沙門天像(高さ16・7センチ)は本尊と同じ平安中期の作とみられ、優しく力強い表情。両脇の吉祥天(同9・4センチ)と善膩師(ぜんにし)童子(同8・4センチ)の両像は京都の仏師が1763年に作り、厨子に加えたらしい。脇侍(きょうじ)が作られて250年の節目を迎えるため、本尊と合わせて公開されています。すいているので、見に行く事をお勧めします。
総て知っている様に偉そうに言っていますが、混んでいると困るので、前の日に場所確認の為、私と行くのを入れると何と3日連続拝顔している東京から来た人に連れられて行きました。
本尊の前は、天に向かう様になっているとの事で、畳の間が建てつけが悪い様に斜めになっていました。10人程の人が座って参拝、失礼と思いながら途中で股関節が悪いので一人立って説明聞きました。
そこを出て、東福寺の紅葉を外から眺めて、そのまま歩いて泉涌寺を越えて新熊野神社で大きな木を抱き、そして三十三間堂東南にある養源院に行きました。
お恥ずかしい話、養源院は行くまでこんなに有名とは知りませんでした。と言うより何も知りませんでした。淀君の父浅井長政の追善の為、21回忌に秀吉に願って1594年に、それが火災にあい焼失。1621年に徳川秀忠の夫人の願により再建されて、徳川家15代総ての菩提所となっていましたが、全く知りませんでした。
養源院には俵屋宗達の白いゾウや松の襖絵が飾ってあって、菊、桐、葵の御紋が同じ位牌にあるという珍しいもので、歴代将軍の位牌を祀ってある由緒あるお寺でした。いずれも知らなかった。関ヶ原合戦の直前、徳川の守備隊が伏見城落城時、鳥居元忠と将士が城を死守し、最後に残った380人余りの人が自刃した廊下をこの寺院の天井3方にして霊を弔ったと言う事でした。
関ヶ原合戦が終わる迄、自刃した死体をそのままにしていた為、血が滲んで消えなくなっていました。その供養の為、その床をここに移設して天井にしたもので、鳥居元忠のここが頭、これが手と言われていましたが、半信半疑で何百年も前の事と思っていました。2つ目の天井の手の後を見て、流石に本当の事と思いこれ程の沢山の人が自刃したのを実際を想像させて感動し驚きました。
その前の週は、知恩院の屋根の吹き替えを見ようとしたのですが、2時間近く待つとあきらめ清水の裏にある我が家のお墓まで行きましたが、まだまだ、京都を知らずに恥ずかしい一日でした。
京阪東福寺駅を下りると、紅葉を見る人でいっぱいでした。人ごみから外れて、今回目的の東福寺塔頭(たっちゅう=別坊)の毘沙門堂勝林寺がありました。秘仏の本尊・毘沙門天立像(高さ約1・5メートル)の胎内仏「毘沙門天三尊像」が初めて一般公開されているので見学に行きました。
江戸中期以来250年間封印されてきた「秘仏中の秘仏」で、三尊像は4年前、高さ30センチの深紅の厨子(ずし)に入れられ、本尊の腰の部分に納められているのが見つかったとなっていますが、案内の人は入れた時から分かっていたとの事でした。しかし寄木作りの名人が作り、腰の所にどのようにして入れたのか分からないとの事でした。
中央の毘沙門天像(高さ16・7センチ)は本尊と同じ平安中期の作とみられ、優しく力強い表情。両脇の吉祥天(同9・4センチ)と善膩師(ぜんにし)童子(同8・4センチ)の両像は京都の仏師が1763年に作り、厨子に加えたらしい。脇侍(きょうじ)が作られて250年の節目を迎えるため、本尊と合わせて公開されています。すいているので、見に行く事をお勧めします。
総て知っている様に偉そうに言っていますが、混んでいると困るので、前の日に場所確認の為、私と行くのを入れると何と3日連続拝顔している東京から来た人に連れられて行きました。
本尊の前は、天に向かう様になっているとの事で、畳の間が建てつけが悪い様に斜めになっていました。10人程の人が座って参拝、失礼と思いながら途中で股関節が悪いので一人立って説明聞きました。
そこを出て、東福寺の紅葉を外から眺めて、そのまま歩いて泉涌寺を越えて新熊野神社で大きな木を抱き、そして三十三間堂東南にある養源院に行きました。
お恥ずかしい話、養源院は行くまでこんなに有名とは知りませんでした。と言うより何も知りませんでした。淀君の父浅井長政の追善の為、21回忌に秀吉に願って1594年に、それが火災にあい焼失。1621年に徳川秀忠の夫人の願により再建されて、徳川家15代総ての菩提所となっていましたが、全く知りませんでした。
養源院には俵屋宗達の白いゾウや松の襖絵が飾ってあって、菊、桐、葵の御紋が同じ位牌にあるという珍しいもので、歴代将軍の位牌を祀ってある由緒あるお寺でした。いずれも知らなかった。関ヶ原合戦の直前、徳川の守備隊が伏見城落城時、鳥居元忠と将士が城を死守し、最後に残った380人余りの人が自刃した廊下をこの寺院の天井3方にして霊を弔ったと言う事でした。
関ヶ原合戦が終わる迄、自刃した死体をそのままにしていた為、血が滲んで消えなくなっていました。その供養の為、その床をここに移設して天井にしたもので、鳥居元忠のここが頭、これが手と言われていましたが、半信半疑で何百年も前の事と思っていました。2つ目の天井の手の後を見て、流石に本当の事と思いこれ程の沢山の人が自刃したのを実際を想像させて感動し驚きました。
その前の週は、知恩院の屋根の吹き替えを見ようとしたのですが、2時間近く待つとあきらめ清水の裏にある我が家のお墓まで行きましたが、まだまだ、京都を知らずに恥ずかしい一日でした。