旅、思いで思い出し           何も知らずに旅にでた!

昔ズート昔、旅をした。何も知らない私が、若かった,若いだけだった!
半世紀前の事....

340 京都まだまだ!

2013-11-30 05:08:06 | 思い出日記
 京都に帰ると雨、今回2週連続行って雨、3度目の正直で、午後から雨と予報では言ってましたが、やっと快晴に恵まれました。

 京阪東福寺駅を下りると、紅葉を見る人でいっぱいでした。人ごみから外れて、今回目的の東福寺塔頭(たっちゅう=別坊)の毘沙門堂勝林寺がありました。秘仏の本尊・毘沙門天立像(高さ約1・5メートル)の胎内仏「毘沙門天三尊像」が初めて一般公開されているので見学に行きました。

 江戸中期以来250年間封印されてきた「秘仏中の秘仏」で、三尊像は4年前、高さ30センチの深紅の厨子(ずし)に入れられ、本尊の腰の部分に納められているのが見つかったとなっていますが、案内の人は入れた時から分かっていたとの事でした。しかし寄木作りの名人が作り、腰の所にどのようにして入れたのか分からないとの事でした。

 中央の毘沙門天像(高さ16・7センチ)は本尊と同じ平安中期の作とみられ、優しく力強い表情。両脇の吉祥天(同9・4センチ)と善膩師(ぜんにし)童子(同8・4センチ)の両像は京都の仏師が1763年に作り、厨子に加えたらしい。脇侍(きょうじ)が作られて250年の節目を迎えるため、本尊と合わせて公開されています。すいているので、見に行く事をお勧めします。

 総て知っている様に偉そうに言っていますが、混んでいると困るので、前の日に場所確認の為、私と行くのを入れると何と3日連続拝顔している東京から来た人に連れられて行きました。

 本尊の前は、天に向かう様になっているとの事で、畳の間が建てつけが悪い様に斜めになっていました。10人程の人が座って参拝、失礼と思いながら途中で股関節が悪いので一人立って説明聞きました。

 そこを出て、東福寺の紅葉を外から眺めて、そのまま歩いて泉涌寺を越えて新熊野神社で大きな木を抱き、そして三十三間堂東南にある養源院に行きました。

お恥ずかしい話、養源院は行くまでこんなに有名とは知りませんでした。と言うより何も知りませんでした。淀君の父浅井長政の追善の為、21回忌に秀吉に願って1594年に、それが火災にあい焼失。1621年に徳川秀忠の夫人の願により再建されて、徳川家15代総ての菩提所となっていましたが、全く知りませんでした。

 養源院には俵屋宗達の白いゾウや松の襖絵が飾ってあって、菊、桐、葵の御紋が同じ位牌にあるという珍しいもので、歴代将軍の位牌を祀ってある由緒あるお寺でした。いずれも知らなかった。関ヶ原合戦の直前、徳川の守備隊が伏見城落城時、鳥居元忠と将士が城を死守し、最後に残った380人余りの人が自刃した廊下をこの寺院の天井3方にして霊を弔ったと言う事でした。

 関ヶ原合戦が終わる迄、自刃した死体をそのままにしていた為、血が滲んで消えなくなっていました。その供養の為、その床をここに移設して天井にしたもので、鳥居元忠のここが頭、これが手と言われていましたが、半信半疑で何百年も前の事と思っていました。2つ目の天井の手の後を見て、流石に本当の事と思いこれ程の沢山の人が自刃したのを実際を想像させて感動し驚きました。

 その前の週は、知恩院の屋根の吹き替えを見ようとしたのですが、2時間近く待つとあきらめ清水の裏にある我が家のお墓まで行きましたが、まだまだ、京都を知らずに恥ずかしい一日でした。
 
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339 熟年 

2013-11-23 08:00:08 | 思い出日記
 ‘50になった時、あとは早いよ’と作家の宮尾登美子さんは言われ、50代後半から加速度的な月日の流れになってしまったと書いています。彼女は忙しくてそうなったので、私は彼女とは全然違いますが、結果として同じ事となりました。彼女は私の母親世代ですが、日常の事をエッセイとして書いても、やはり作家は違うものです。思わず読んでしまいます。

 (やっと最近遅いですが、どうも年とった、年寄り臭いは違う様であると気づきました。年とった、しかし若い人の中にも年寄り臭い人がいます。余談ついでに、じじむさい、女性であれば、ばばっちい、この言葉が年寄りから来ているとは知りませんでした。)

 最近一日を殆ど同年輩か年上の人と接しています。考えてみれば会話も殆どなくてテレビも殆ど見ない、若い人とも話す機会が少ない中で毎日を過ごすと言う事に気づきました。ただ四六時中、厳しい目で私に注意する人が若さを提供してくれていると思っています。

 もう会社人間では無い、淋しいかな会社が世界で一番になろうと遠い話、付き合う人の数も知れています。と言うより付き合いが無い、わりと早くに気づいたから良いものですが、年寄り臭いと言われない様に気をつけなくてはと思います。

 年齢を重ねるうちに体力が落ちた。それは当然ですが、80を過ぎてもエヴェレストに登る三浦さんの様な人もいます。そして私はと言うと、体力的には十分に若い人について行けると思っています。最近は若い人はそれなりに、どんどん年寄り臭い人は見かけなくなっています。私はまだ年を感じていませんが、何をするにも年寄りの冷水をいわれないように気をつけます。

 それよりも気付いた事ですが、判断力が若い時ほど早くする事ができ無くなってきたのです。どうして鈍くなったのか考えみると、判断力と言うよりも、それだけ人生の山を踏み越えて来て、周囲が見える様になったとも言えます。つまり熟年の仲間に入りました。今までが自分の思うまま生きて来て、他人(ひと)の言う事を聞か無かった、聞いていなかったとも思います。私の若いとはそう言う、謂わば怖いもの知らずだったと思います。

 先日、このブログのヘビーな読者の一人が、どうも私が最近マエナス思考になっていると指摘がありました。その通りで、ちょっと落ち込んでいました。そして、今はと言うと、やっぱり回りは怖いものばっかしになって来ました。良い事か悪い事か、判断することに寄りますが、何をするにもはたの事を必要以上に気をつけて、判断が遅く鈍くなってしまいます。

 これは、年とって来た人達に一般に当てはまるかと言うとそうではありません。頑固に自分の意見は正しいと進む人や、自分とは関係無いと無視する人等々、色々あると思います。私は若い時と違って、判断が鈍くなった分、良い方向に進むようにしなくては、今まで生きて来た何十年が無駄になってしまうと思い、頑張っていかなくては...
 
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338 ‘永遠の0’

2013-11-16 06:22:36 | 思い出日記
 12月21日に、映画公開予定の‘永遠の0’、本を借りようと図書館へ、82人待ちで何時になるかと待っていると、まだ新品2013年の8月6日の第一般20刷発行の本を、借りる事が出来たのです。はからずも読み初めが8月15日の終戦記念の日でした。これも縁であると、皆さんに紹介したいと思ったのです。
 
 当時最高の戦闘機ゼロ戦にからめて、凄く上手く日本の戦争がむなしいものだったか書いています。引用が多くなるのを承知で、紹介したいと思います。

 映画‘風立ちぬ’はゼロ戦を設計した堀越二郎という実在の人物だそうです。テスト飛行を40キロも離れた飛行場迄、牛車で運んだ、「三菱零式艦上戦闘機」。この辺で、今なら分るのですが米国との勝負は明確でした。

 「零戦」は皇紀2,600にあたり、末尾のゼロにちなんで、そう名ずけられました。(しかしゼロは英語、良く分りません。)時速5百キロ以上と当時の世界最高速のスピード、航続距離3千キロを誇る奇跡の戦闘機で、しかも艦上戦闘機、つまり空母に搭載される戦闘機でした。(ビルマに行った時に、戦友会の人達から航空機は離陸より段違いで着陸は難しいと教えてもらいました。)優秀なパイロットを作りあげるのはかなりの年数が必要となってくるのです。そして5年間に1万機以上作られました。

 その高速と航続距離の為に、防御が弱くなっていますが、熟練の操縦士がいた太平洋戦争の初め、ゼロ戦は無敵でした。連合軍の司令部が「ゼロとは絶対に1対1の格闘戦をするな」と指示を出した程です。
 しかし、この航続距離の長さがラバウル島の攻防で、沢山の優秀なパイロットを戦闘で失うことになったのです。戦闘以外でも片道3時間、15分戦ってから帰還する途中、毎回強烈な睡魔に襲われて、海へ突っ込んだ人もいたそうです。

 このゼロ戦を題材にした物語が‘永遠の0’です。物語の初め、フリーターで司法試験浪人の主人公が昼過ぎ迄寝ていると、ジャーナリスト志望の姉から電話がかかり起こされる所から、長い物語が始まります。
 主人公の姉さんが今度、終戦60周年の新聞社のプロジェクトのスタッフに入って、上手くいったら本を出してもらえる事になったのです。お母さんの最初(お母さんは再婚)の主人である、つまり二人にとっては本当の祖父が、特攻隊員で彼を調べるアルバイトをして欲しい事になったのです。

 そして調べて行くと、その祖父が、戦闘機乗りとして天才的な腕をもちながら、その当時許されるはずの無い‘死なない、生きて帰る’と公然と口にし、その為に‘臆病者’とさげすまれていました。ところが何故か最後は特攻で死ぬ道を選んだのです。(実際は、特攻機の殆どが体当たり前に撃墜されていました。)特攻隊員はテロリストと同じだと初め思っていたのが、やがて違う事に気が付いてくるのでした。

 戦争を知らない私達の必読本ですから、読んでいなければ是非読んで下さい。大好きな岡田准一主演の映画です。本を読めなかったら是非皆さん、この映画を見て下さい。実に上手く戦争の悲惨さを訴えています。
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337 一期一会 

2013-11-09 07:04:18 | 日記
 親が最後に言った言葉が思い出せません。父親はデンマークにいた時に亡くなりました。母親は、約2年間欧州に行って我が家に戻った時、家にいなくて、暫くして帰って来て『夢見ているみたい』と言われたのが覚えている最後の言葉です。

 その当時の記憶もかなりいい加減で、どの様にして日本に帰ったか思い出せません。ただ、電車通りの丸太町通りを曲がり、見慣れた我が家のある黒門通りに来て、思わずビックリ!自分が背が伸びたと勘違いした程、家々の軒々が低く感じた事は覚えています。
  
 その後、落ち着く間も無く四国、九州方面に一人旅(桜島での写真が一枚、デンマークで一緒にいた友達が写っていたので、一人旅と言うのも不確かです)にでました。今、考えると行動力ありました。その行動力が母との会話を妨げました。あちらで遭った事を話す暇も無く、母はハワイ旅行に出かけました。そして、羽田に迎えに行って、バスに乗って『美しかったわー』、多分これが最後の言葉かも知れないです。
 暫く兄の東京の家にいる予定でしたが、その夜に京都から電話があり倒れたと聞き、急遽帰りました。忘れてしまう事が多く、その時も、どう帰ったか分からないです。

 脳溢血で倒れて、すぐに救急車で病院まで行き手術したとの事でした。まだ学生でしたから、その後の半年以上の間、殆どを看病していました。帰国して、こんな事は予想して無かったので、母に会った最初に『父親に一番会いたかった』と言った事を後悔しています。

 毎日高熱を下げる為に、体中に氷嚢をあてて精一杯の看病をして、意識があったら脇の下とか凍傷を起こす位に冷え切って、氷が冷たかっただろうと思います。その後半年で、どうにか意識は回復しました。脳が損傷して全く話せず、他のものばかりで無く、私も認識できずに、常に笑顔だけでした。そして、検査だと手術室に行き、そのまま亡くなッてしました。残酷なのは、生命維持装置を切ることを、家族に託した事でした。そして切ると手を握っていたのですが、瞬時に体温が無くなりました。その時程、死を感じた事が無かったでした。

 今改めて、この様な状態を思うと、どの人との出会いでも一期一会と言う事があるのだと思いました。毎日に普通に会う人が、突然に前からいなくなる、二度と会えなくなる。考えて見ても見なくても、この年になると人生色んな人と会って来ました。何かの拍子に思い出す事がありますが、殆どの人々が記憶の底に眠っています。記憶から目を覚ます事は無い状態です。
 毎日出会う一人一人を改めて考えなければいけないと思います。次に又会えると言う保障が何処にもありません。どんな人でも、時の出会いを大切にしなくてはならないです。

 このブログも始めた頃より、かなり多めの人が訪れています。1日236で27121位/1947654ブログ 、1週間で628と言う私にすれば驚異的数字が記録されました。巧くこのブログの会社からサクラの数を増やしたなと思っていました。でも、数字は益々増えて、驚くばかりで感謝一杯です。有難い事です。
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336 ‘マリコ’

2013-11-02 07:54:48 | 思い出日記
 再々の事で困ったもので、2度読んでるのにまるっきり忘れている本があって驚かされています。多分、早読みで斜め読みしている為だと、2回目はできるだけじっくり読むように心がけています。情けないけど、2回目かどうかも忘れています。

 ‘マリコ’(著 柳田邦男)は以前30年程以上前に読んで感動した本です。お薦めの本の1冊ですが、感動したにも関わらず余りにも忘れた事が殆どで、1回目に読んだものは何だったのかと思います。マリコのお母さんの書いたもの、‘太陽にかける橋’(著グエン テラサキ)と勘違いしてるかも知れないと思いまして、同時に2冊を読むと言う離れ業を使う事になったのです。

 マリコには、ズート長い人生を経てにじみでた言葉があります。その言葉「悲しみこそ生きる力の源泉です」、戦争の悲惨さを家族を中心に書いた話です。アメリカ女性が結婚した夫が日本人外交官で、最後まで歴史の裏で、日米の戦争を止めさせようとしたマリコの父でした。そして戦争前夜、マリコは日米間の暗号名として使われました。

 ‘太陽にかける橋’では、アメリカ人から見て感じた日本の事も沢山書いています。当時の日本に来ただけでも、カルチャーショックであったのに、アメリカ人として受けた、戦争中の厳しい社会の状況に良く耐えたものと思います。日本人だけが苦しい生活を送っていたのかと思っていましたが、この様な外国の人が彼女の他にも日本にいたとは再認識し驚きました。

 戦中の冷たい目で何時も見られていたのですが、そこに心ある日本人がいたとは良かったです。仕方ないとは言え、日本の様な寒さと風習の下、殆ど食べるものも無く、食べるものを貰う為に行列に並んだり、モンペを実際履いて竹槍の訓練う事を知っていたとは信じ難いです。

 ‘涙というものは、大きな喜びをもった慰めをもたらすこともあるもの’実体験から出た言葉です。終戦直後、父親は天皇陛下の通訳をしていて病気で亡くなったのです。その時に陛下と話した、グエンと言うアメリカ人女性がいたとは改めて凄かったと思いました。父親が亡くなってアメリカに帰国後、マリコはアメリカ人との間に子供を持ち、政界に乗り出す実話です。

 お母さんが書いた‘太陽にかける橋’では、世界各地を回る外交官の家族を中心に書いています。ハリウッド映画にもなり、外交官の妻として世界を回っている中、その逸話の一つに、上海の中国人の間では、交通事故で怪我をした人を助けるのは縁起が悪い、血を流して死んで行くのをじっと見ている。他人を助けて、その悪運をこちらにもらう事はとんでも無かったそうです。
 動物は前世に悪い事をした人間が生まれ変わってきている姿なのであって、これを虐待する事も、悪い事とされなかったそうです。信じられない事ですが、これが戦前の上海にいた中国人の考えで、道端に幼児の死体とかあったと言う事を書いてありました。
 勿論、現在の中国一般の事とは違うと思うのですが、多大なる影響を受けた国、仲良くしたいものです。戦争は失うものばかりです、平和な国であり続けたいものです。

 
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