旅、思いで思い出し           何も知らずに旅にでた!

昔ズート昔、旅をした。何も知らない私が、若かった,若いだけだった!
半世紀前の事....

273 マニラに行った時

2012-10-27 06:55:31 | 思い出日記
 かなり前の事(済みません、殆どの話はズート昔の事です)つまり35年以上前に、ミーティングでフィリピンに行った時、大阪からの直行便が無く香港経由の便で行きました。マニラの飛行機場から出ると、映画で良く見た暴動が起こった様な人だかり、その人達を押しのけてタクシー乗り場を捜していました。こちらにとタクシーの運転手らしい人が呼ぶのでついて行きました。何故かその光景を良く覚えています。

 駐車場2つ程離れる所迄歩かされてました。車を前に、とりあえず値段交渉しました。相手の言っている3分の1程度を言うと、強気でエアコン付だからと負けません。押し問答の末、どうしても負けず仕方なく諦めて空港迄戻るりました。どうして見つからなかったのか、先ほどと丁度反対側にタクシー乗り場をを見付けて乗ったのですが、さっきの3分の1よりも安かった事を思い出しました。しかし、現在でしたらどうなっていた事やら、そして、いくらなんでも初めの高い料金を会社に請求していたらと思うと二重に本当に良かったでした。(これに懲りずにJFK-Manhattan迄300ドルを請求されました(ー_ー)!!)

 その時は、高級なマニラホテルに泊まり、夕食迄時間があったので、一人で通りを挟んだ一般の地域に探訪に出ました。その頃は何でも興味があって危険と言う物を感じず(今は感じます)と言うか知らずに歩きました。町には異常にやせた、骨で覆われた様な馬が馬車を引っ張っていたりして、大勢の人がたむろしている所を歩きました。奥に席があったかもしれませんが、カウンター席8席位だけあるバーに入りました。

 直ぐに横に女性が座り、その女性が何か飲んでもいいかと尋ねたので、注文したものが、ウィイスキーの様な色をしていました。何を飲んでいるものかと思い、興味があったので彼女が向こうを見ている時に黙って1口飲んだのでした。番茶の味がしてアルコールが何も入っていない物で、こんな物を飲んで金を取るのかと思った事を思い出します。
 しかし、まだ空が明るい内からやっていバーに入る等、今なら行かない行けない、ここでも、その後の日本での数々のフィリピン事件を聞くと、良く行ったと思います。

 夜には、パーティが終わってから、昼間歩いたので大丈夫だと、一人で出て行きました。何処に行ったか忘れましたがタクシーを拾いホテルに帰る時に警察だと言う人間に止められて、腕時計を盗られたのを思い出しました。戒厳令下だったかどうか忘れましたが、こんなに恐ろしい目にあっているのに、若くなんでも怖さ知らずと言いますか、世間知らずだったと思います。

 前に紹介した神の子たちの世界のように食うや食わずの生活を送っている人たちが一杯いるのに、その当時はどんな生活で人々は暮らしていたのか想像もつきません。私の行った所はまだ生活が大らかで、日本人がそんなにお金を持っていたとは知らなかったと、そう思いたいです。
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272 知れば知るほど京都

2012-10-20 06:53:12 | 思い出日記
 紅葉前の京都へお墓参り、いつもと反対廻りで歩いて四条河原町から清水さんを目指しました。南座の裏側になる宮川町に先ず行きました。

 学生時代に江戸時代女絵巻物と言う時代祭の旗持ちのバイトとして出た事があり、宮川町の芸者さんの前で長い旗を持って歩きました。テレビの実況中継の1年前、普通は時代祭の開催協会とかに雇われるのですが、何故か宮川町に雇われ、東京の青山学院生と2人で交代で1つの縦に長い旗を持ったのでした。

 時代祭と言うと雅やかな装いで豪華と言う雰囲気ですが、私は自分の茶色のジーパンを履いていました。現場では特に中間役の人は大変で、頑丈で重い木箱を肩にかついで歩くのでした。私は雪駄を履いて皆に合わして何キロも歩いて、くたびれた事は忘れられないです。それでも日当1,450円で昼食付きで特別待遇は良かったでしたが、中間役はずっと悪かったと記憶してます。
 宮川町の当時は前近代的な遊郭の風景を残しているアパートがあったり、レトロを感じさせていたのでした。現在は、その時の事が分らない程、良く整備されていました。

 そして建仁寺に初めて入りましたが、その広さに都会を忘れさせられました。こんな所が花見小路から横に入った所にあったとは知りませんでした。六道珍皇子寺、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上界と死後六つのどれかに逝く境目がここだと説明がありました。‘お迎え鐘’説明が難しいですが、鐘が見え無くなっていて、建物から縄だけ出て、そこを引っ張ると鐘が鳴る様にしてました。

 東大路に出て、30年以上前に会社のアメリカ人のVPに大阪に来ると良く連れて行ってもらった、ASIAと言うステーキハウスを見よう(食べようと考え無いのが現在です)と思いました。少し入って路地を右に廻ると奥に思ったより小さな店が見えました。その当時1万5千円以上でステーキが出されていたのですが、今幾らになっているのか?
 思い出すのがウオッカマッテニィのvery dryとオーダーしていたVPです。陽があるうちに見るのは初めてで、夜来たのと雰囲気が変わっていました。

 寅(渥美清)さんが京都にプリンスホテルに勤めている母親(ミヤコ蝶々)訪ねて行って、それがラブホテルだと分る場面がテレビドラマのシリーズであったのでした。あのプリンスホテルが直ぐ近所にあって、余り良い雰囲気でなかったのですが、今はホテル跡はマンションになって、路地の入口角は外国の人が多分回りの雰囲気に合わして多分飲食店を造っている所でした。

 話は外れて、昔ヒルトンホテルが大阪にあって(今もあります)、その名もローマ字でHILTONではなく‘HIRUTON HOTEL'となっていたのを思い出しました。様々な事を思い出します。

 そして、以前車で通ったはずですが、全く覚えていない茶碗坂(清水新道)でした。清水道のほぼ道幅が倍近くあり、そこを珍しくスタイル抜群、本物より綺麗な舞子さんが2人歩いていました。そこやあそこに茶碗屋さんが、体力が無くなったのか、その急な坂にお墓につく頃はもうヘトヘトでした。

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271 宗教色々、けれど!

2012-10-13 05:21:49 | 思い出日記
 なんにでも顔を出し興味を抱いていますが、ある人のご冥福を祈りに神戸まで行って来ました。車で約1時間、広い霊苑の中に数々の日本式のお墓が彼方此方にあって、その中にキリスト教会のレンガ作りの納骨堂があります。春と秋にその年に埋骨と入廟されたにお祈りを捧げるのです。式自体は3‐40分でしたが、私はキリスト教信者ではありませんが、年々人が多くなる聖徒廟記念会にここ数年縁あってお参りしています。

 もともと私は無宗教ですが、両親が亡くなって、神も仏もあるかものかと思って益々その傾向が強くなったと思います。我が家の宗教は、門徒物知らずと揶揄される、浄土真宗であります。父親は多分お金をかなり使ってかなり上の位まで行きましたが、なんと呼ぶのか知りませんが首に賭ける色がそれを表していると言っていたのを思い出します。日本的家と思えるのが、仏壇の横に神棚があって、2つあったのですが何の神様か今思い出しました。
 
 一つは金光さん、もう一つは世界救世教でしたが、父親が毎朝仏壇に参った後に柏手を叩いていた事を思い出します。引っ越しの時どうなったのやら、母親はそれと関係無く、四国巡礼の御朱印を押したものを羽織って新品の和服で旅立ちました。今思うと白い布でその良い和服が全然見えなかったのが残念です。

 それと我が家にはもう一つ、巳(み)さんの立派な社があったのでした。お祖母さんが霊友会、それと兄がキリスト教ともう一人の兄は義姉さんの実家に行ってある宗教に入って来ると言う家族でした。日本の家族でもこれだけ宗教雑多は珍しいですが、実は私の名前は母親が信じていた宗教の方に付けられたと聞きます。生まれた時代に合った名で小さい頃、大嫌いでした。年少時代に京都の船岡山の教会に良く連れられて‘高天原にかしこみかしこみ申すーー’と言っていた事を覚えています。

 まだありまして家で働いている人がモラロージュで会場に我が家の工場を無料で貸してました。XX学会は従業員の人が入っていたと言う素晴らしい家でした。昔テニスをしている人で学会に行って来ると言って、みんなは何の学会かと思った事を思い出しました。どれか一つにまとめれば両親は、もう少し長生きしたと思います。私はかくも多くの宗教に囲まれて育ったのでした。 

 ただ最近になって宗教を信じる人は幸せだなと思う様になってきました。現在働いている所の隣のおばさんが、会うと何時も朗らかに私に声をかけてくれます。その友人の方がマンションに住んでいて選挙の度にお願いにお礼に来るので、多分おばさんも同じ宗教で思うのですが、その話を聞いた事がありません。先日胃の手術を2月にやったと聞きました。そんな雰囲気は全く無く、明るく凄く朗らかです。仮に宗教がその様にしているなら、それはそれで良い事だと思う様になった来ました。この人の様に他人に迷惑を掛けず人間朗らかになるのは最高の幸せだと感じました。

 でも、私はやっぱり典型的な宗教日本人でお墓参りと神社参りをしています。
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270 使えない通じない言葉

2012-10-06 06:00:28 | 思い出日記
 中学校まで、小さなくぐり戸で外に出入りして、小学校の頃まで、夜店があると必ず行ったものでした。二町上った(北へ)下立売りで両側に沢山のお店が出ていました。殆ど忘れましたが、月に決まった日にちにあったと思います。いいかげんですが、誰といったかも思い出せないとは、私もモウロクしたものです。

 テレビのコマーシャルで物忘れと痴呆症とは違います、そして常に探し物をしている人は痴呆症であるかの如く言っていましたが、私はその部類に入るのでした。最近は探し物があると、それまでと同じ行動を取るとか、又は振り返って見て自分の行動を思い出して探すと分るはずとアドバイスされてどうにか生活には困りませんが、それでも毎日物探しに残り少ない?貴重な時間を取られています。
  
  因みにいつも一緒に卓球をしている人生の先輩に聞きましたが、その人も同じコマーシャルを見て同じ事を考えていました。私の10歳上で、テニスで右肩を痛め、足を悪くされ、卓球で右手を痛め、左手で卓球を続けられたのですが、直ったと思いテニスで再度悪くされて両腕が上らなくなり、今は右と左手でできる範囲で卓球のみ続けられています。今度は目が悪くなって、こうなると今何処が悪いのか分らなくなって自分の行動を振り返るのも難しいと思います。
  
  それから、益々、今使えない死語が多すぎます。分っていると思いますが、死語は死後の事ではありません。今回は死語と言う事で、私の年代になると今使われない言葉が多くなって来ました。まして、小説では悲しいかな、例えば、柴田練三郎に至っては本によっては分からない言葉が多すぎて辞書片手に本と読まなくてはならない始末です。彼は、私の生きて来た時代に重なりますが、もう使われなくなった言葉が多すぎます。
 
  初めて欧州に行った時に、同行の人が私のゆっくりした言葉を笑った人がいますが、これは京都弁であって死語ではありません。例えば、ラッパ飲みもペットボトルが出て来て死語になりました。昔はラッパ飲みは行儀が悪いと言われたものです。下駄箱や100貫デブ、今思うと確か小学校低学年?迄貫モンメを使っていました。こしらえる(つくる)は?娘の小学校の先生が使っていたという事で、帳面も余り使われなくなって、ノートが標準化してしまいました。そして田舎の香水。寝間はベットになり、乳母車、ベビーカー、その言葉に変わる新しい言葉がでてきて使われなくなる言葉。そして今やその言葉が必要なくなってしまってなくなっている事があります。ただでさえ、私が話す京都弁で使えない言葉が多いのに、年を感じなくても、言葉で時々古くなったなと思う今日この頃です。

  まして、日本では難しくて何でも取り入れて古い物は忘れ去られるのも淋しいものです。死語さえ思い出せなくなってきました。私がこの程度(済みません、例外かもしれないです)ですから、もっと年を取った人は生活大変と思います。
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