旅、思いで思い出し           何も知らずに旅にでた!

昔ズート昔、旅をした。何も知らない私が、若かった,若いだけだった!
半世紀前の事....

264 久々の京都

2012-08-25 05:22:55 | 思い出日記
 24年ぶりに金メダルを取ったと聞いてかなり前の事と思うのに、自分のその時の事を考えるとそんな昔だと思えなくなりました。流石に48年前の東京オリンピックの事は大分前にあったと思う様になって、そんな昔に既に自分に生があったのは驚きです。
 
 新町一条に90歳になる人をお見舞いに行きました。40年近く前からお世話になっている方で、特に亡き御主人にはひと方ならない世話になりました。京都御所を左に見て、和菓子で有名なとらやがあって一条通りを西へ行くと病院がありました。その横にある、日本キリスト教団国際センターで学生時代に日本語教師をやろうと紹介状を持って、押しかけた事を思い出しました。

 その当時40年以上前(昔の事は総て40年前を基準に考えています)の事になりますが、外国の人に日本語を教える事が大事と熱心に求職していた事を思い出しました。今は知りませんが、当時そこは正式な教師を雇える団体として活動していなくて、パートとしてしか働け無いと分り諦めました。

 思うと色んな事に対して前向きに生きて来たなと思いました。と言うよりも何も知らずにがむしゃらにやっていました。私が日本語教師になっていたら、素晴らしい京都弁を話す外国の人が増えたと思います。気づくのが遅いですが、現在言葉が変になっています。
 
 当時、アメリカ人に個人レッスンとして日本語を教えていました。知っていて教えるのと知らずにやると言う事の違いが今なら分りますが、知らずに困ったものでした。facebookに自分の話す言葉に京都弁と表記出来たのです。そもそも、自分が京都弁を話すのを初めて知ったのが、万博で働いていた時の、‘ほっこりしたなー’が大阪人に通じなかった事でした。(今広く使われている言葉として使っていませんでした)

 そして極め付きが、忘れもしない欧州に2週間旅した後、フランクフルトのユースホステルであった学生でした。スチュウデントフライトがキャンセルされて途方に暮れていた時に、凄くのんびりしたゆっくりした言葉で話しかけられました。その彼が、私の家から近い御池の新町から来たと聞き、自分もこんな言葉を話していたのかと愕然となったのを思い出します。その時を境におかしな言葉を話すようになったと思います。

 
 ところで、お見舞いの後、昔懐かしい町を歩いて下立売り猪熊の‘達富’さんで美味しいおうどんを食べに行ったのですが、あいにく休みでした。‘達富’さんは昔出前を夜食に毎日の様に頼んでいたので、未だに良く覚えてくれていますので残念でした。冷やしうどんが食べたかった。

 普通、車で行く堀川通りを歩いて行くと、良く整備されて下に降りていて川の側を歩ける様になっていました。沢山のオブジェが飾ってあって、とても美しく変わっていて綺麗な水が私が思う昔のドブ川と別物になっていました。病院から四条大宮まで良く歩きました。

 母親が‘そうどす’と言う言葉を話していた事を思い出しました。あの時こうしていたらと言う事で沢山の失敗ばかり思い出しますが、考えてみると、その時はそれが一番と思いやって来たのでした。楽しい思い出で、悲しい辛い記憶を塗り潰そう!

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263 淀川の風に吹かれて 

2012-08-18 05:16:09 | 散策
 大阪あそ歩、出発地点は、太子橋今市と言う梅田から地下鉄谷町線で270円の守口市との境目でした。先にお昼を食べようと、駅からほぼ一駅歩いた京阪「滝井駅」駅前の‘踊るうどん’と言うお店に決めました。

 そこは何も無い実に寂しい限りの駅の前にありました。まだ開いて間も無いはずでしたが、店の前は沢山の人が待ってました。覗くと店の人が出て、非常に愛想良く一人ですからと、待っている人に聞いて、それだけで感動、先に入れてくれました。店はカウンター8席とテーブル10席の狭い店でした。

 この店で一番高い?うどんを注文するのを決めていましたので、「肉舞茸天おん玉ぶっかけうどん」930円を注文しました。「ぶっかけ」用には柔らかめでモッチリとした歯触りの麺を、「かけ」用には熱いダシで麺が柔らかくなるのを計算して固めの麺を打つそうです。その都度揚げる舞茸天もカリカリして今まで食べた中でも一番美味しかったでした。店主もスタッフも気持ち良く働いていて、行列ができて流行るのが分りました。

 集合場所行く為、わき道に行くと直ぐに関西医科大学病院があって、まだ行くと大きな数本の木が そこは神社かと、目指して行きました。そこには二階建ての家よりも高い木が狭い庭にあって、庶民の家に似合わない、大きな木があるそんな家が沢山ありました。

 そんな中で、間口が3m足らずで薄汚れた白いテントで隠された何の店か分らない看板も風雨にさらされているお店があり‘創業嘉永元年’160年程前になりますが、中を覗くと煎餅を売っていました。良くまあこんな店が大阪の端で商売を長く続けているなと思います。

 大通りにでると、工事の途中かと思われるようなバラバラに木が打ちつけてある建物がありましたが、住宅販売会社のものでした。色々なものに遭遇しますが、ここから大阪市の看板がありました。
 
 集合場所に着き出発すると、守口市の敷地に大阪市立学校が建っていると言う、まさに市の境目となっていました。太子中公園にある銀杏60本は御堂筋に行けなかったと言われ、埼玉県から取り寄せた苗木を大阪の地に馴染ませる為にここで育てた残りがあるとの話でした。そこから少しの所に淀川の河川敷に橋寺廃寺の跡があり、堤防沿いに豊里大橋のたもとに平太の渡し跡。赤川廃寺の跡等、跡ばかりでそれぞれに石碑が建っているだけのものでした。
 土手を降りると、エントランスが中之島公会堂を模したメモリアルゲートを持つで大阪工業大学でした。その建物は圧倒されるほど近代的な素晴らしいものでした。

 川沿いには、沢山のグランドがあって、日本にこんなに大勢の人々がラクビーをやっているのかと思うほどプレイしていました。暫く歩くと、川のワンド(土砂が堆積して魚、鳥等が住める様にした)が、明治時代オランダからデ・レーケさんが来て淀川修築されたと言う事でした。城北公園では、昨日開園した菖蒲を満開迄もう少しの花を観賞しました。

 最後に赤川鉄橋は、レトロと言うか、今は単線に貨物列車が日に不定期に1-2度通るだけと説明がありました。その片側を沢山の人が生活道路として利用している中を、風に吹かれて広い淀川を6,674Mを渡って帰りました。

 
 
 
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262 バーミュダー

2012-08-11 05:49:59 | 思い出日記
30年近く前、レストランで隣の夫婦が、記念と言って、ワインのボトルを我々の為に開けてくれました。お返ししようと思ったら、いつまでも忘れられない言葉でこういいました。
‘君たちも我々の年になって、同じ事をすればよいのだよ!’全然きざっぽく無く、ごくさらりと、今考えるとその様な事は当り前という雰囲気で言われました。やっぱりアメリカ人のやる事は粋で、ズート素晴らしい思い出でした。やはりバーミューダーに似合っていて、とても感激しました。
今や彼らの年になり残念ながら、そんな状況に会う事は無く、情けないかな、その様な事はできるかなと言うのが現在です。そんな所がニューヨークからわずか2時間ちょっと、イギリス領バーミュダーです。

 そもそもニューヨークからバーミュダー(BDA)の区間路線を使ってくれたのは15名程のある会社のグループでした。添乗について行った方は、私がまだBDAに行った事が無いのを知っていて、如何に素晴らしかったかを教えてくれました。その中で一番印象に残っているのは、オジサン達がスクーターに乗って島を走った事がどれだけ良かったかを伝えてくれた事でした。これは今の皆さんと同じで聞いても、遠くまで行ってそんなものかと思うだけでした。しかし、自分で経験して初めてその素晴らしさを実感しました。

 現在の様に、世界中何処でもホテルの予約が簡単にできなかったので直接に手紙を書きました。予約の手紙を書いたけど返事が来なくて困っていました。そこで旅行社の人がテレクッスを打ってくれたのですが返事をもらえなかったので、どうにでもなるだろうと予約無しで行く事にしました。
 ところが、最初の入国検査でホテルの予約が無いと入国できないと言われました。それなら飛行機に乗る前に行ってくれたら良かったのに、3つ程のカウンターがある非常に小さい入国審査上で、その後ろにホテルの予約をする所に行く様に言われました。
そこでも航空会社割引があるかと聞いた事を思い出します。審査官に改めてホテルがもし取れなかったらと聞くと、100%予約は取れると言われました。

 タクシーでホテルに行く途中に、日本から返事が無いはずで予約したホテルは潰れていました。ラッキーにも現地で取れたホテルは素晴らしい景観でアメリカの大統領も泊ったホテルでした。
 チェックインする時、私と同じ名前で予約が入っていると言われました。そんなはずは無い何処から予約されたかと聞くと、空港のパンナムからと言われました。直ぐに空港に電話すると、どういう訳か、テレックスが入って予約したと聞きました。ラッキーで、このホテルに予約してなければ、キャンセル料を取られていたのでした。

 島中をバイクで走り観光して、公共バスに乗った時に、2人の前に座っていた子供達が席を我々に譲ってくれて観光で成り立つはずだとビックリしたものでした。
 夕食を食べる時に、バーミュダーパンツはいてレストランに行くと、皆が正装していて着替えに部屋まで帰らなくてはいけなかったのでした。景色と人、とりあえず良さは行かなければ分らない所です。
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261 緑橋 

2012-08-04 07:23:53 | 散策
  その名も‘大阪あそ歩’1,000円に参加して散策してきました。緑橋と聞いた事も無い駅で集合、地図を見ると環状線の森ノ宮から地下鉄で1駅、もうちょっとで東大阪市でした。

 森ノ宮から緑橋まで歩きましたが、途中に高層な公団住宅があり、平野川が流れる事無く汚く流れ、中央大通り上に阪神高速と、そして緑橋と言っても川も橋も無く、一駅がとても遠く感じました。

 四ツ角に銀行、パチンコ屋、マンションそしてテークアウトのサンドウィチ屋さんと、お昼を食べる為に、四方を歩いて、兎に角安い390円のから揚げ定食がある‘よしまん’に入り、高級チキンカツ特製トマトソース490円を安く美味しく頂きました。安い!

 昼食後、集合場所に行くと、既に10名程来て最終的に16人となり、いよいよ千間川(せんげんがわ)ノスタルジック散歩に出発です。ガイドはこの辺りに住んだ事のある人で、サブガイドが奥さんで、大阪らしくあめちゃんを2個配ってくれました。

 駅を出て、にしん巻きで有名と言われている山本、ここから左に折れて、早速、‘燈(あかり)’2008年9月に町屋を再生した昭和の複合施設でした。オープン部分に駐車スペースもあって、右側に箕面の地ビールも出すカウンターバーがあって、左前に帽子専門店、週末には色々イベントがあるそうです。帽子専門店と言うだけあって、オリジナルなあつらえのも作ると言う事で、2階が 貸しスタジオになっていました。
 緑橋のいわれをガイドさんに聞くと分らない、歩いている所が千間川の埋め立てた後、その埋め立て用の土はどこから持って来たのかと聞くと分らない、多分、地下鉄工事の土かも知れないと言ってました。道路の左右の家々が低いのは、今歩いている所が昔土手であったと言うのを聞いてなるほどと思いました。

 白山神社は、この地域の氏神さんで、幹回り5mもある立派な のしを巻いたイチョウの木は大阪市内で一番と言う話でした。大阪冬の陣では本田忠朝が物見をしたと説明がありました。鳥居の柱の縦は石で、上の横の棒に紐が巻いてありましたが、何か謂われがあるのかなと思っていました。丁度神社の方が出て来たのでその謂れを聞くと、通常良くある、竹とかで作っていたとの話でしたが、私は初めて見たものでした。

 その隣は正園寺で、この辺り一帯が明治18年の大洪水で もともと寺子屋であったのが消滅したそうです。京に向かう杉山街道を行くと、丸いモダンな建物が見えてきて、大阪市で3番目となる下水処理場だそうですが、下水からの水で鯉とかも住める様になって桜の名所の並木があり綺麗になってました。

 この辺りは、下町で銭湯が多くありましたが、扶桑薬品の様に薬関係の会社も多いと言う事でした。細い道の奥に、ここだけ別格CarpeDiem(ラテン語で‘今を生きよ’)と言う300坪の庭園を持つゲストハウスがありました。主に外人が泊ると言う事ですが、第一日曜日にお茶の会を開催すると言う話を聞き、是非とも又来られればと思ったのでした。
 
 こうやって見ると、自分自身では見つけられない事が発見できて参加して良かったと思います。

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