24年ぶりに金メダルを取ったと聞いてかなり前の事と思うのに、自分のその時の事を考えるとそんな昔だと思えなくなりました。流石に48年前の東京オリンピックの事は大分前にあったと思う様になって、そんな昔に既に自分に生があったのは驚きです。
新町一条に90歳になる人をお見舞いに行きました。40年近く前からお世話になっている方で、特に亡き御主人にはひと方ならない世話になりました。京都御所を左に見て、和菓子で有名なとらやがあって一条通りを西へ行くと病院がありました。その横にある、日本キリスト教団国際センターで学生時代に日本語教師をやろうと紹介状を持って、押しかけた事を思い出しました。
その当時40年以上前(昔の事は総て40年前を基準に考えています)の事になりますが、外国の人に日本語を教える事が大事と熱心に求職していた事を思い出しました。今は知りませんが、当時そこは正式な教師を雇える団体として活動していなくて、パートとしてしか働け無いと分り諦めました。
思うと色んな事に対して前向きに生きて来たなと思いました。と言うよりも何も知らずにがむしゃらにやっていました。私が日本語教師になっていたら、素晴らしい京都弁を話す外国の人が増えたと思います。気づくのが遅いですが、現在言葉が変になっています。
当時、アメリカ人に個人レッスンとして日本語を教えていました。知っていて教えるのと知らずにやると言う事の違いが今なら分りますが、知らずに困ったものでした。facebookに自分の話す言葉に京都弁と表記出来たのです。そもそも、自分が京都弁を話すのを初めて知ったのが、万博で働いていた時の、‘ほっこりしたなー’が大阪人に通じなかった事でした。(今広く使われている言葉として使っていませんでした)
そして極め付きが、忘れもしない欧州に2週間旅した後、フランクフルトのユースホステルであった学生でした。スチュウデントフライトがキャンセルされて途方に暮れていた時に、凄くのんびりしたゆっくりした言葉で話しかけられました。その彼が、私の家から近い御池の新町から来たと聞き、自分もこんな言葉を話していたのかと愕然となったのを思い出します。その時を境におかしな言葉を話すようになったと思います。
ところで、お見舞いの後、昔懐かしい町を歩いて下立売り猪熊の‘達富’さんで美味しいおうどんを食べに行ったのですが、あいにく休みでした。‘達富’さんは昔出前を夜食に毎日の様に頼んでいたので、未だに良く覚えてくれていますので残念でした。冷やしうどんが食べたかった。
普通、車で行く堀川通りを歩いて行くと、良く整備されて下に降りていて川の側を歩ける様になっていました。沢山のオブジェが飾ってあって、とても美しく変わっていて綺麗な水が私が思う昔のドブ川と別物になっていました。病院から四条大宮まで良く歩きました。
母親が‘そうどす’と言う言葉を話していた事を思い出しました。あの時こうしていたらと言う事で沢山の失敗ばかり思い出しますが、考えてみると、その時はそれが一番と思いやって来たのでした。楽しい思い出で、悲しい辛い記憶を塗り潰そう!
新町一条に90歳になる人をお見舞いに行きました。40年近く前からお世話になっている方で、特に亡き御主人にはひと方ならない世話になりました。京都御所を左に見て、和菓子で有名なとらやがあって一条通りを西へ行くと病院がありました。その横にある、日本キリスト教団国際センターで学生時代に日本語教師をやろうと紹介状を持って、押しかけた事を思い出しました。
その当時40年以上前(昔の事は総て40年前を基準に考えています)の事になりますが、外国の人に日本語を教える事が大事と熱心に求職していた事を思い出しました。今は知りませんが、当時そこは正式な教師を雇える団体として活動していなくて、パートとしてしか働け無いと分り諦めました。
思うと色んな事に対して前向きに生きて来たなと思いました。と言うよりも何も知らずにがむしゃらにやっていました。私が日本語教師になっていたら、素晴らしい京都弁を話す外国の人が増えたと思います。気づくのが遅いですが、現在言葉が変になっています。
当時、アメリカ人に個人レッスンとして日本語を教えていました。知っていて教えるのと知らずにやると言う事の違いが今なら分りますが、知らずに困ったものでした。facebookに自分の話す言葉に京都弁と表記出来たのです。そもそも、自分が京都弁を話すのを初めて知ったのが、万博で働いていた時の、‘ほっこりしたなー’が大阪人に通じなかった事でした。(今広く使われている言葉として使っていませんでした)
そして極め付きが、忘れもしない欧州に2週間旅した後、フランクフルトのユースホステルであった学生でした。スチュウデントフライトがキャンセルされて途方に暮れていた時に、凄くのんびりしたゆっくりした言葉で話しかけられました。その彼が、私の家から近い御池の新町から来たと聞き、自分もこんな言葉を話していたのかと愕然となったのを思い出します。その時を境におかしな言葉を話すようになったと思います。
ところで、お見舞いの後、昔懐かしい町を歩いて下立売り猪熊の‘達富’さんで美味しいおうどんを食べに行ったのですが、あいにく休みでした。‘達富’さんは昔出前を夜食に毎日の様に頼んでいたので、未だに良く覚えてくれていますので残念でした。冷やしうどんが食べたかった。
普通、車で行く堀川通りを歩いて行くと、良く整備されて下に降りていて川の側を歩ける様になっていました。沢山のオブジェが飾ってあって、とても美しく変わっていて綺麗な水が私が思う昔のドブ川と別物になっていました。病院から四条大宮まで良く歩きました。
母親が‘そうどす’と言う言葉を話していた事を思い出しました。あの時こうしていたらと言う事で沢山の失敗ばかり思い出しますが、考えてみると、その時はそれが一番と思いやって来たのでした。楽しい思い出で、悲しい辛い記憶を塗り潰そう!