旅、思いで思い出し           何も知らずに旅にでた!

昔ズート昔、旅をした。何も知らない私が、若かった,若いだけだった!
半世紀前の事....

365 日本語を世界に広げよう!

2014-05-31 04:44:08 | 思い出日記
 小さな日本がどうして世界において常に経済的に世界の上位にいるのか不思議です。どう考えても、そんな恵まれた国に住んでいるとは思えません。数々世界最先端の技術を誇っていますが、日本は欧米の生活と比べてより良いとは思えないのです。電化製品等は格段に日本の方が上と思いますが、いつまでも精神的に貧乏であり続けます。

 今も変わっていないと思いますが、デンマークいた時は間接照明を使い、一般家庭では蛍光灯は殆ど使っていませんでした。それはいいものでした。日本と言う国は次を未来を目指すのか、今あるもので満足しないというのが貧乏精神に繋がるのではないかと思っています。その貧乏根性、精神が日本を先進国仲間入りしています。

 目線を変えて、暖かな国には半袖、半ズボンあるいは裸で一年を過ごすというところもありますが、それはそれで凄く楽です。日本のように寒い冬を乗り越えなければ生きていけない所もあります。春夏秋冬という四季が日本人の感受性と言うものを生んだとも言えます。暑い夏を越せるのも、過ごしやすい秋があるからだと思います。四季おりおり感受性が豊になり、そして語彙が豊富になったともいえます。 

 日本語の表記法(漢字、平仮名、片仮名、ローマ字)は多様で、その組み合わせによってずいぶん表現の幅が広がります。漢字のみの中国語、ハングル、アラビック、ローマ字、26文字で総てを表記する英語などと比べると、その面白さは天文学的に多彩です。これが極東の島国の日本をここまで世界の先進国にした一つの理由と考えるのは、考え過ぎですかね。 
 中国は漢字の先生の国になりますが、中国の人は漢字からできた平仮名は勉強して分かるという事ですが、片仮名になると分かりずらい。例えば、カタカナのカは力(ちから)を連想するとなります。日本の新聞も平仮名を飛ばして読む人もいると聞きました。

 最近はパソコンとか携帯、スマホのように左から横書きになってきて、そのパターンから外れることになってきましたが、表記にしても、横書き、縦書きがあり、本の開け方も左からも右からもドチラニもあるという珍しい文字です。いつも感じるのが、看板を見るたびに日本に生まれて良かったと思うのです。

 同じ地球に住んで、色々な国、様々な言語が存在しますが、横綱になったモンゴルの人達が素晴らしい日本語を話すのを聞くたびに、日本語は難しく無いと思うのです。私達は、日本語を難しいと考えすぎたのかも知れないです。
 
 こんな素晴らしい言語を、物ばかりでなくて、もっと世界に輸出すべきだと思います。みなさん、自信を持って日本語を世界に広げて行きましょう。  
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364 井戸掘り

2014-05-24 04:48:52 | 思い出日記
 若いころはむやみに手を延ばしたが、その出せる手もだんだん減っていって来ました。死は生の終わりでは無く、到達点なのだ。どれだけさわやかに生き、見事に死んだかである。
 見事に死ねたら良いのですが、延命処置で生きるだけ生かすというのが近代医学であると思いますから、そうた易く死ねるとは思っていません。だから死ぬまで元気でいなくては、いけないのです。健康に人一倍気を付けていますが、これが難しい...

 食べられなくなったら、胃ロウという栄養を口からでなく直接胃までチュウブで送るという手段もあります。徳田トラオさんのように不自由になっても目で字を指してコミニケーションを取るをいうこと可能になってきました。昔なら、きっと死んでいたと思われる人達がそうやって生きながらえている現在です。世の中、進歩が良いか迷います。

 世界を見回せば、幼児、そして子供たちが衛生状態が悪いだけで死んで行っているのも事実です。たまたまテレビを見ているとアフリカで家に水を引けない為に、子供たちが遠くまで汚れた飲み水を汲みにいかなければいけない所でした。その子供の家の中には家具だけでなく家財道具らしきものは無く暮らしていました。もちろん布団も無くて、地面に布を敷いて寝なければならないのです。生まれてからその様な生活を普通としているという、現代社会にもまだまだ最低限以下の生活を強いられている所があります。
 
 そこでアフリカに井戸堀に日本から行きましたが、番組上、上手く行って万歳とはなりませんでした。はるばる遠い地に行って1ヶ月以上のテント生活を強いられて、自分の努力が報われなくて無になったと分かった時、その落胆は計り知れないです。
 この状況の中、笑顔で一生懸命に協力した現地の人の落胆は余り映しませんでした。その人達は、夜中まで働きそれが無駄に終わった時の落胆は想像する以上のものがあったと思います。そんな本当に良い人ばかり、自分が何もやっていないのに、こんな事を言うのは避けなければいけないのですが、あれほど協力したのならもっとスポットをあてる必要があったのに残念でした。

 厳しい環境で与えられた試練に、何事にも精一杯生きていかなければと思います。こんなに苦労している人達は世界中にあちこちに沢山いると思います。ただの傍観者として、頑張れとしか云い様がありません。

 狭い日本を飛び出して、世界各地に行ってその土地の人達を援助して役立っている人はまだまだ沢山いると思います。最近はそのような人もスポットが当たる人がいますが、私は若い時に、デンマークで小さな子供達を相手に数ヶ月、ましてオムツ替えに疲れきったのが恥ずかしいです。
 過ぎ去った昔の反省ばかりの今日この頃です。明日をもっと考えなくてはいけないと思っています。
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363  久々の好天気で観光京都 

2014-05-17 07:00:13 | 思い出日記
 イタリア人と京都を巡って、食事のメニューの料金の数字が気に掛かっかたので一言。例えば、普通 二、〇〇〇円、又は弐千円と書いてある数字です。2,000円と書けば、できればメニューの内容が分からなくても¥2,000と勿論、横書きが分かり易いです。懐の淋しい私のような外国の人に、やはり数字だけは算用数字にすべきだと思いました。
 他にもお店が気が付いていない、例えば、メニューを選ぶ時に、京都のお店には陳列台の日本が世界に誇るサンプルを置いてあるお店が意外に少なかった事です。前から思っていたのですが、店頭のメニューサンプルに日本語が分からない人の為に番号を付けるべきす。

 それと今回驚かされた事、和服を着た若い人が凄く多くなっているのです。清水さんから祇園までの道で、グループで、個人で、それも若い男性の和服姿が多くなっているのです。京都は元々和服姿は多かったですが、数が増えたのは、和服を着ればかなりの神社仏閣、そして色々な所が割引となってからと聞いています。
 それが出来始めた頃は、たまに和服姿を見ると、なかなか良い考えと思っていました。簡単にレンタルで舞妓さんになれるのも、ヒットしました。外国の観光客が写真を撮る、そんな姿に、その人はレンタルですよと、言いたいような化粧の成り切り舞妓さんもいました。でも、つい先ごろまでとは、明らかに違う和服姿の人が多くなっています。いい事です。

 四条へ抜けるために、パチンコ屋へ入った時は、イタリア人達も呆気に取られて、今までと違う日本というのに驚いて盛んに写真を撮っていました。その騒音に頭が痛くなりましたが、ナカナカ出てこないで余りに写真を撮るのでお店の人に注意されるかと心配させられました。

 今回のコースは、清水さんへはタクシー運転手の知らなかった、昔、大石内蔵助が山科から祇園に通ったといわれる裏道からリノベーションを終えた子安の三重の塔(ここからの清水さんの風景は最高です)、若い人で一杯の縁結びの「地主神社」、流れに逆らって裏口から「清水寺」、舞台上から見るだけの行列ができた「音羽の滝」、真っ暗な中を手摺一つを頼りに(1寸先は闇、頭を打ちました)体内巡りの「随求道」、三年坂、途中で八坂の塔、二年坂、外からの「霊山観音」と「高台寺」ねね道を経て、山門に登ろうとして時間切れになった「知恩院」、八坂さん、祇園コーナー(車が多くて残念)そして鴨川を経て四条通りを寺町へ、場所だけ示した「錦市場」、そして新京極の天神さん、先斗町と呆れるほど良く歩き廻りました。

 その間、途中試食のみ昼抜きで3年坂でコヒータイムを取っただけで、合計5-6時間程歩いたのでした。戻って最後に京の雰囲気抜群の辰巳神社の近くの祇園喜知次の椅子のある和室で夕食を頂きました。

 ずらっと書きましたが、グループの皆さん良くもこれだけ歩き、その後まだ五条のホテルまで歩いて帰りました。私が大好きなコースでしたが、イタリア人パワーに驚いた一日でした。2週間経ちましたが、まだ身体が元に戻っていません、でも喜んで頂いて良かったです。最高のオモテナシをできたと思っています。
 
 
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362 ご冥福を祈ります

2014-05-10 04:57:08 | 思い出日記
 死というものは、人生における最後の挑戦である。誰にいつお迎えがくるかということは、人間には予測できません。私たちに許された時間が、私たちの生命です。その許された時間を、私たちはひたすら生きるしか道はありません。論語にいわく「朝(あした)に道を開けば、夕(ゆうべ)に死すとも可なり」。ノウテンキに、それ程深刻に考えている訳ではありませんが、だんだん死というものが近くなってきたのも事実です。何時お迎えに来られても毎日、精一杯生きて行けばいいのです。

 こんな私も、韓国の学生の若い命が奪われた、それも修学旅行途上の死に対して凄く考えさせられました。あの学生たちの立場にいたら同じように死の直前まで、自分たちがまさか死ぬとは思わずに写真を撮ったりしていたかも知れないです。それが映像に残ってるのが尚更、悲惨だと思います。
 部屋にいなさいと言われたら、船が沈むとは考えもしなかったでしょう。どんな状態で死んだかと思うとやるせない気持ちで一杯です。人災です、その中にも死を防げた場面は何度かあったのに、悲惨で残酷な結果を生み出しました。
 しかも救助の為に最大限の努力をしたとは言いがたいです。国の威信が大事なのか、日本の援助を得なかった事に納得いかないのは私だけでしょうか。国の面子を捨てでも日本の援助を受ける、又は、用意を要請すべきで、親たちはこの事を知っているとは思えないのです。まず、日本がこの様に思っているのを韓国の人達は知らされていないと思はざるを得ないです。報道、広報は気を付けて見聞きしないと誤った方向に行きます。反面、我々も韓国では反日報道ばかりだと知らされています。

 親の気持ちになると本当に残念では済まないです。ダイバーがもう疲れ果てて潜れないと聞くと、まして補充要因で民間潜水士の事故死もありました。日本のダイバーが替わって潜るということも、ガラスが割れなければ日本なら出来たかもと思うと残念です。今となっては悔いだけですが、韓国政府もせめて、日本の救助隊の船が現場の近海でスタンドバイを要請するように言えば、それが駄目なら要請が無くても日本は救助船を国境線迄行って、1分1秒でも早く捜索を加える体制で待ってたらと思いました。そして捜索に乗り出して一人でも多くの人を見つけて欲しかった。

 肉親の方々は、あの最後の映像を身を引きちぎられる思いで見たと思います。もう日本のニュースとして取り扱いが僅かになりましたが、韓国の大統領がもう少し度量が大きければ、又、日韓関係が上手く行っていれば命を救えた可能性があるのに残念です。

 国際問題、関係は一人一人の生命を軽く見ています。命を一番に考えるべきで、そして廻りまわって、安部首相が靖国神社に参った事が、日韓関係を一層悪くしています。特に近隣国とは、すこしでも仲良く上手く付き合いたいものです。

 将来ある多数の尊い命を失ってしまいました。今はご冥福を祈るしかできないです。

 
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361 小説から

2014-05-03 06:49:07 | 思い出日記
 どの小説に言える事ですが、その場にいたように様に書いています。特に歴史小説の何処までを信じていいか、昔の事なので確かめ様が無い事が殆どです。困った事ですが、今の自分の年も良く分らないのに江戸時代、戸籍の代わりをするものがあったとはいえ、出て来る人達は、良く自分の年が分かったなと感じます。多分、生まれ年だけ言っていたと思うのです。

 秀吉の年を疑っていますが、天下人になって好き放題、貧農で生まれた年月日もいいようにしているのでしょう。何百年経つとどうでも良いと思う様になりました。ボケているのではありませんが、自分自身が厚かましくも30才で止まっている状態です。実際、昭和と平成だけで何年前か、もう分からなくなってしまいます。

 藤沢周平の本を読んでいて、江戸時代に何処かの藩でおきた話を、よくもこれだけありそうな話を見て来たように書くなと思いました。思わず本に引きつられます。本当らしく色々様々な資料を調べて勝手に自分の解釈で書いて、藩名も入れて、本当素晴らしいです。

 面白いのは、主人公が作者の判断で良くも悪くもなる事です。大筋では間違っていないと思いますが、脚本家が又素晴らしい。そもそも誰が目撃したのか、坂本龍馬が沢山の手紙を残したとは言え、実のお姉さんに言う事や、織田信長が本能寺で火が燃える中で、人生50年を舞った後、切腹。良く、まあ誰も見ていない事を、話を面白く書いています。実際面白いですが、作家の名前が有名であれば、まず間違いないと信じてしまいます。

 私はというと、本当に申し訳ないですが昔、世話になった多くの人達の名前を忘れています。毎日会っていた学校の友人たちさえもおぼろげになってきました。小学生の頃、町内を毎夜‘マッチ一本火事の元、火の用心’‘魚焼いても、家焼くな’ヒョウシキを持って子供会で夜廻りしていました。これも、参加者を帳面に書いていたのに、どんな帳面(今はノートと言うらしい)に何のために参加者名を書いたのか良く覚えていません。
 
 子供の頃は自分たちの周りにある、意識はありませんでしたが、タダで手に入るもので良く遊びました。そして、それが唯一で疑いもしなかったです。子供の間で伝えられたもので、誰でも、その道の遊びのプロと言えます。多分知らない思いますが、路地裏で釘打ち(三角をくぎで地面に書いて、そこを基点にして釘を地面に刺し、相手の進路をふさいで勝つというもの)や、道路の上にロウ石で線を引き相手の石に当てると言う、石当ても良くしました。近くの石やさんに拾いに行って、路面が舗装できたから普及したものです。こんな遊びも、今なら車が多くてできません。隣の町内の子供たちも同じようにやっていたのか、今となっては知る由も無いです。

思い出に慕っているより、今、出来る事を考えた方が良さそうです。一度は花を咲かさなくてはと...
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