旅、思いで思い出し           何も知らずに旅にでた!

昔ズート昔、旅をした。何も知らない私が、若かった,若いだけだった!
半世紀前の事....

357 健康一番

2014-03-29 04:36:53 | 思い出日記
  仙崖義梵(せんがいぎぼん 1750-1837年)は日本最初の禅寺、博多の聖福寺住持になった人でした。新聞に載っていましたが、数々の面白い禅画を書いたそうで、例えば大きな円を描いて、脇に「これをくうて茶をのめ」食えない大きな饅頭を描いてこれを食うて、まずお茶を一服、このように随分人を喰った絵をかいたのでした。
  「西の一休」とも言われた傑僧は、禅僧として素晴らしいキャリアをつみ、当時としてはスーパー長寿の88歳で臨終を迎えたのでした。その時、最後の言葉をと申し出た弟子たちは立派な言葉を期待して待っていたら、「死にたくない」の一言を言ったそうです。それを聞いて、さぞ弟子たちは驚いたに違いありません。仙崖和尚は本性を受け入れた上で死を迎えたのであろうと思います。世の中には凄く興味ある面白い人が沢山いたと思いました。

  ここ数年で、身近な人が異常に多くて5人の人の最後を見る事になったのです。分かっているつもりですが、生まれた者は必ず死ぬという運命から逃れられないのです。人生50年の昔だったら、私などとんでもなく長生きしている方です。

 5人の内、最初に亡くなった人は、天寿を全うされました。そしてごく最近、14日に亡くなりました。色々な死に方はあるもので、葬儀まで見ると、死ぬ時はそれまで負ってきた人生を表すと同時に生き残った人がどう思っているかと言う事が大いに影響されると思います。
 金曜日の夜に亡くなって、土曜日にお通夜、日曜日に葬式そして焼き場へ直行と考える間も無くあの世に行ってしまいました。骨を見ても、生きていた時と結びつかず、死という実感が無かったです。長年病気を抱えていましたから、その機械的な流れに何が起こったのか分からないのが家族にとっては良かったと思いたいです。

 淋しい事ですが、同じ時代、同じ価値観を持った人が段々と居なくなります。そして思い出を共有した人が又一人、亡くなりました。法名を釈明球、父母が長くて覚えられない法名を思えば、野球一筋に生きた本人にとっては最高の法名をつけて貰ったと思っています。

 日影丈吉は『現代呪法』の中で、「人間はだれでも、自分だけは特別な運命を持っていると信じやすい。若い人たちのなかには自分の人生に終わりのあることなぞ信じられないと言う者もある。事実はともかくとして、そういう感情は不自然ではない。」といっています。

 若い時は、自分の人生に終わりがあるとは考えもしなかったのです。信じるとか信じないとかの以前の問題だと思います。人生80年になっている昨今、死ぬ時は死ぬのですから楽しく生きようではありませんか。でも、楽しい人生を送るため、身体だけに気をつけて、暴飲暴食等、無茶をしない様にやって行きます。
 
 元気であれば何もいらない、健康一番です。
 
 
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356 昔 

2014-03-22 05:20:11 | 思い出日記
 京都の我が家は天窓があって大屋根(我が家ではそう言っていましたが、カッコ良く言えば、吹き抜けになって土間の真上にありました。)から太陽光を取れる様にしていました。しかし、ガラスが無い頃は昼から暗かったに違いありません。テレビのCMでは無いですが、窓の大きさ多さと暖かさは現在とかなり違っているのは確かでした。
 家には太い大黒柱というものがありましたが、大黒柱、それ自体過去のものとなり死語になって来たと思います。私も我が家の大黒柱という存在でしたが、それ自体、残念ながら風雪に耐えられず、情けないか、その柱もボロボロです。

 桂離宮のように、光を取り入れ工夫があるならいいですが、普通の家はさぞかし暗くて寒かったに相違ありません。広い家なら、中庭とかあったでしょうが暗くなると薄い布団で寝るしか無かったと想像します。最近の家は、ビルに挟まって暗くなっていますが、真ん中の部屋の両側のふすまをあけて光が入る様にしたの違いないに違いなかったのです。

 我が家でも、ふすまを開けて大勢の人が集まった時に便利に宴会でもできるだけだと思っていたのです。それが、テレビでも良く見かけるのが、長屋で1間ある部屋で寝ている所から土間があり寒いのに障子のすぐ外になっていて、昔の人は寒さに強くならざるを得なかった様です。
 昔といえば、最近は侍映画でもお歯黒の女性を見ることがなくなりましたけれど、イカスミでも食べた後のように映りがはえず無くなりました。今の若い人でも驚くと思うのですが、明治の頃、初めて外国の人が見た時の衝撃は相当なものだったに違いないです。

 小学生の時、夏に滋賀県でお手伝いさんの田舎の家に世話になった時、足の指にワラを通してワラジを作っていた事を思い出しました。あの光景をいつまで続けていたのかとふと考えました。
 
 母親が生きている時に‘みてもらい屋さん’(なんて言うのか忘れました)占い師に見て貰ったら、物置を見て、ここにあった井戸を埋めたのが家に災いをもたらす。‘お払いします’と言われました。母親は、確かに昔そこに井戸があったと、良く位置が分ったなと言って驚いていました。今考えれば、井戸の位置など京都の家を考えれば大体分かるのに、昔は迷信とか何でも人は大らかで信じれば信じられるものだと思います。

前に住んだ大阪の我が家は、中古の家で設計士が凝った比較的に大きな一軒家でした。隣の家の間に2メートル程の空間があるにも関わらず、毎日母親の声が聞こえました。昔の長屋などは隣の家の声が聞こえて、内緒ごとなど無かったのではと思います。夜なんか、大変大らかになったのが分ります。

 

 
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355 順番が一番 

2014-03-15 04:57:45 | 思い出日記
 運だの不運だのは、力の至らなかった人間が口にするセリフなんだ。いいことを言います。人生は運不運ではなく幸か不幸かという話だとも、そうかも知れないです。私はと言うと未だ良く分からないです。残りの人生で探します。

 言葉は魔物だ、これもそうでしょう。これは分かります、今考えると、余計な事を話しすぎて、私はそれで失敗していたことが多いです。しかし、考えようによっては、不運や不幸もそれを馬力に頑張れるかも知れないです。頑張れる時に、頑張りたいです。

 どうしようも無い立場に陥った時、いつも‘最悪とは、これ以上悪くならない、これからは良くなると思い、それより悪くなったら、あの時は最悪で無かったと’考えて頑張るようにして来ました。これも今まで自分が最悪が無かったから、そう思えたかも知れないのです。分かっているのにナカナカ、いずれにしろ他人に頼らず自分で切り開くしか無いということです。
 
 今まで、いろいろな意味で、サポートしてくれた人達が殆ど亡くなってしまいました。今度は私がサポートしなくてはいけない立場になってしまったのです。分かっていないのか、まだ甘えがあるのか誰か助けてくれるだろう、自分には未だつきが着いていると考えています。
 
 そんな事を言ってられないのが、桜塚ヤックンの交通事故死です。事故、天災や火災で予期も無く死んでしまうのはやりきれないです。まだ、テレビで一時期もてはやされたのが昨日のような人が、38歳の若さで亡くなったというお悔やみの話が新聞に載っていました。
 一休禅師の言葉を例に出して「親死ぬ、子死ぬ、孫死ぬ」を例えてその死を惜しんで書いていました。そもそも一休禅師がめでたい事を言って貰いたいとの事にこの言葉を言ったので、周りの人から非難をあびたと言うことでした。この事故以外に死ということを受け入れない話は山程ありますが、まだまだこれからと言う人の死、運が悪かっただけで、不幸ということだけで、このような死は受け入れないと思うのです。 

 この話に注目したのは、私がこの話を良く覚えていたからでした。中学生の時に兄の結婚式があり、参加した一人が同じ話をされました。一休禅師は結婚式に忌み言葉である死ぬを3度もいい、その場にいた人から非難をあびました。それに答えて順序が正しい、これ程めでたい事は無いと言いわれました。
 
 兄の病気見舞いに行き、元気付けの為に、前から昔話としてその話を言おうとしましたが、毎回それが言えないです。まあ、めでたい時に言う話と良く分かりました。ですから生涯こういう時に言うのをやめます。

 
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354 大震災から3年

2014-03-08 05:48:13 | 思い出日記
その答えは僕にはわからない、今でも全然わからない、どれだけ年をとっても、どれだけ経験を積み重ねても分からない事はいっぱいある。窓 村上春樹
 
 改めて友人から来たメールを再度読んで見ると、読んだ時は凄い事が起こったのだなと読んでいたただけの事と気づかされました。今さらながら、凄いと思わずにいられないので紹介します。石巻からの友人の3年前の2011年3月20日のメールです。

 『私の家は海岸との間に小さな山があり直接ツナミの影響は受けずせいぜい身長程度の濁流が流れ込んだ程度で済みましたが、約100坪の駐車場内外に車が流れ込み10台以上も折り重なって数人が車内で溺死しております。
 又、インフラが全く回復せず先週末から仙台の甥の家に避難しておりいつまで世話になれるものかとの不安もあり早く自宅のライフライン回復を祈る毎日です。』

 自分の身長程度の濁流が流れ込んで、その程度と思える程の津波がどんなものなのか想像できません。車内で溺死した人を見ているとは、凄く悲惨な状態だったと今さらながら感じます。私は大阪の隠れた被災地で関西の震災を経験したのですが、津波の恐ろしさを再認識させられました。東北大震災は大分前の遠い話と思っていました。今でも遺体が見つからない方が多く、仕方ないですが、福島の原発ばかりが主にメデアと取りあげられています。

 毎日テレビでACが写っていた当時と比べ、どうしても他の所が影が薄くなっています。実際、震災とか事故は、その模様を実際見てみないと分からないです。テレビで見ると凄いなと感じるのですが、テレビでウルトラマンが怪獣と戦っているのと似て、その凄さは見ないと自分の経験から分からないと思いました。

 淡路神戸の震災では、電車が止まったので50ccのバイクで会社迄いきました。途中で、電線は切れ、自動販売機は倒れていた事がありました。しかし、家の崩れは無かったと思います。

 その後、宝塚にいる支店長宅に行く為に、バイクで行きました。家は崩れて、その間を行った為にガスコンロとバーナーを積んで言ったのですが、途中で落としたのも気づかない程道路状態はヒドイものでした。その当時は携帯電話無くて公衆電話に人が沢山並んでいました。その人達は、じっと並んでいたのでした。終戦直後もこんなだったかと思います。
 道路はまるっきり使えない所もあり、凄かったです。バイクで行くので細い道を選んで行ったのです。後から思ったのですが、細い道程通行が困難で大通りを行くべきでした。
 
 当時、イタリアの友達が大丈夫かと心配して手紙を送ってくれました。私の所は被害は少しでしたが、何でも体験してみないと本当の所はそれでも分からないものです。

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353 イタリアから

2014-03-01 06:22:00 | 思い出日記
 年に夏とクリスマスに2度、母親を訪ねて来るイタリア在住の人がいます。母親が亡くなって、暫くして悲しみをこらえて挨拶に来られました。その人が知らないフィレンツオーラという町に、その昔、友達の家を訪ねた事がありました。彼女は、料理が上手くて太ったうるさいイタリアのお母さんになっている事と思います。

 そもそも、フィレンツェに泊る迄、フローレンスとフィレンツェは英語とイタリア語で同じ町、イタリア語は他にも呼び方があると勝手に思っていました。それがフィレンツオーラだと思っていたのでした。都市名も間違って旅にでる、こんな状態で旅をしたのですから、若いとは素晴らしいです。

 宿泊所手配無しと、凄くいい加減にイタリアに行った事自体が信じられません。京都を出た事がない人間が、何でもやろうと思えば若さでできるのが素晴らしいと思います。それとフィレンツェで泊ったホテルでどう聞いたのか、覚えているのが住所の中にC′が付いていて、その住所ならベニスと言われたのです。そんなはずは無いと、住所を改めて見せて、ここで初めてフィレンツオーラーがどこか分りました。
 バス停を教えてもらって、今更驚いても仕方ないですが、良く言葉も分らずに何も知らずに路線バスに乗って行けたものです。そこに着いて、町に1軒だけあるホテルに泊まって、部屋に友人が来てくれたことも良く覚えています。

それと毎夜、これも何処で飲んだのか全く覚えて無いですが、友人になった5‐6人と町の端から端まで歩いた事を覚えています。確か城壁で囲まれていたと思ったのですが、それも不確かになって来ました。1つ強烈に覚えている失敗が、スパゲッテイを皆の前で数センチ程、音を出して食べた事でした。みんなに見られて、日本のヌードルは音を出すと言うと、友人はズルズル音を出して食べたのでした。未だにスッパゲテイを食べる度に思い出します。

 現役時代に、そこに行こうとして、3度トライしたのですが、様々な理由で行けなかったのです。その町に行くのが、人生の最後の旅と思っていたのです。その町に再訪するのが、どうも夢に終わりそうです。残念ながら、今やどんどん遠くなって行きます。

 覚えていないと言えば、先日、生活(=終活)の一環として色々の物を整理していました。そうで無くても一年中整理してますが、一向に片付きません。欧州から帰国後直ぐに日本国内を旅したのですが、その時の桜島の団体写真が出て驚きました。行った覚えが全くありません。しかし、懐かしいものでした。

 写真一枚が与えてくれたもので、桜島は印象薄かったのかと思いました。その様な事は無いはずなのに40年以上経つと、忘れる事の方が多くありますから、皆さんも写真1枚でも何か残される事をお勧めします。私の場合、少し遅すぎました。
 

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