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旅、思いで思い出し           何も知らずに旅にでた!

昔ズート昔、旅をした。何も知らない私が、若かった,若いだけだった!
半世紀前の事....

396 時

2015-01-03 04:35:13 | 住宅
 今年もやっとこさで新年を迎えられました。古来の和時計には12刻を表す短針1本ばかりであったという事です。今やスポーツ界では0.01秒単位ですから、当時は時間がとてもいい加減とも言えます。その時計も限られた人と所で持っていたとしかなかったと推測されます。

 その結果、凄く時間が大雑把で大体、日が登り、日が沈むを基準にしていたと考えられます。そう考えると、冬は働く時間が少なくなってきます。まあ、殆どが農民と考えると農閑期ですから、それも分からない事はないですが、どう時間を計ってきたのか疑問となります。
 
 どの時代の話でも時刻が、どうして時間を得たか書いていません。全てだいたいで、武蔵と小次郎、武蔵が遅れたことに小次郎苛立って負けたと言われていますが、遅れる事が当たり前だったらオカシイと思うのです。

 いつも分からない事があります。実際、この年になって益々分からない事が年だけ増えています。そして増え続けています。済みません、今まで正直、何も知らなかったのです。

 良く南米の人は時間にルーズ、反面、南米の人は時間に大らかとも言えますが、日本人は時間に几帳面で時間に厳しいと言われてます。現在の感覚からいえば、その通りと思います。

 日本人は昔、推測ですが、人の集まっている村なら、お寺の鐘が時刻を知らせたようです。お寺の無いような所では?ところでお寺もどうやって時間を知ったのでしょう。

 しかし世界中の国で日本が一番時間に厳しい国と言えます。電車の時刻は、これ又以前にブログで言いましたが、関西に帰ってから気づいたのですが、環状線の大阪駅で2-3分に来る車輌に毎回、何時何分発と告げるのは驚きです。東京の山手線はそんな事は考えることがなかったです。
  
 時間だけでなく、私は昭和と平成だけで自分の年が分からなくなってしまいます。明治以前の人は多分自分の年を直ぐに言えなかったか、早く死んでしまって、そんなに年の事など言う間も苦労しなくて済んだのかも知れないと思っています。(291話で詳しく...)

 学生の頃、欧州に行って‘何年生まれだと’聞かれて、西暦に直すのに時間を取られた事を思い出します。その時、エンペラーエイジを日本では使っていると言った事を思い出します。それ以来、西暦で生まれ年を言う様になりましたが、昭和の年に25を足すと西暦なるのも何時の間にやら平成になり、平成も27年となりました。平成生まれが27歳です、もう驚いていられません。カレンダーにも年号は西暦が一般に言われる様になりました。

 大正生まれの最後の人が、90歳を超えるようになり、私の疑問も増えるばかりです。 喪中の為、 年始のご挨拶をご遠慮させてただいてますが、今年も宜しくお願いします。

 

 

395 別れ

2014-12-27 04:30:56 | 住宅
 向田邦子さんは‘思い出にも鮮度がある。一瞬にして何十年もさかのぼりパッと閃く、版画で云えば一刷が一番素晴らしい’。なんといい表現、そして素晴らしい言葉を残したと思います。

 様々な別れがあるのですが、誰にでもある死別と言う別れです。チャイコフスキーは腸チフス、ラフマニノフはノイローゼ、ラベルは交通事故の後遺症と、色々です。
 
 ‘墓の無いのはかない人生である’とはコマーシャル、先日テレビで墓石ばかり捨ててある所を見て、墓があっても捨てられたら、どうしようもありません。‘はかいし’を漢字変換したら、‘破壊し’が一番最初に出て来ました。まさにその通りであると今思います。

 死ぬ前に、素晴らしい墓を生前に建てている人、どうなるのでしょう。そのお墓は何代かはその遺族が面倒見ても、その後どうなるか分かったものではありません。
 
 我が家も立派なお墓がありますが、その墓場は買い取りだと思っていました。それがちょっと間違いで、兄が亡くなって一定の管理費を納める事が分りました。その様な話は、両親が亡くなった時には聞か無かったし話題にもならなかったでした。平成28年までに遺族が報告するという事を、今回初めて分りました。
 しかし日本のように、限られた土地であると、今生きている人を第一に考えなければいけないと思い、死んだら跡形もなくなのは仕方ないかもしれないです。

 思えば、父親が亡くなった時は海外にいて死に目に会えず、一番会いたかった人に会えない、それは人に言えない辛さがありました。それを言った母親は脳梗塞で倒れました。父親の1周忌の為に海外から帰って来て、直ぐに国内旅行に四国九州を巡り、母はハワイ旅行に行きました。帰って倒れましたから、母と殆ど話す間も無かったでした。半年看病して、生命維持装置を我々の判断で切るという残酷なもので、たった1秒で握っていた手が冷たくなって、そのまま亡くなると言う、凄く悲しい思いをしまいました。もっと話すチャンスは合ったのに海外の生活を伝えることが無く亡くなったのです。
 姉は最後に元気に頑張りやと私が言って、うなずいたのが最後でした。兄の時は長い患いで亡くなりましたが、その時は悲しかったです。しかし、今でも不思議ですが、いつでも会えそうな気がしています。

 現在の一人っ子の家庭が増えていますが、益々、無縁仏が増え続け、墓石の山がどんどん大きくなるに違いありません。墓石は、破壊しとなり、いずれ細かく破壊され道路等に使われ、人や車に踏まれるのがその将来と思われます。

 テレビで見た墓石の中には、まだ新しい物もありました。それが道路に使われて、死んで世の中の為になるとの事です。思いのあるのも生きている間だけです、凄く淋しい事です。

  1年は早い、来年も元気に迎えられるように、益々明るい年でありますようにお祈りします。それでは良いお年をお迎え下さい。

381 出会いを大事に!    (毎週土曜日に更新しています)

2014-09-20 04:47:03 | 住宅
 年を感じている暇がありません。新しい事を始めると今までと違った世界を知る、そこに新たな沢山の出会いもあります。しかし、殆どの人は年を取るとそれが段々と自分の世界に入っていかざるを得ないと思います。

 誰でも哀しい事に感じなくても感じても否応なく年を重ねて行く、つまり年を取ると、若い時に比べて動作が鈍くなり、そして歩行困難になってしまう方もいます。やがて車椅子や介護の世話が必要となって益々行動範囲が限られて来ます。一日中部屋から出ないで中に閉じこもっている、外に出ても話す人がいないとなってきます。いたとしても話し相手になる人は殆どが年寄りばかりで、会話と話題が限られてくると思うのです。
 
 人によっては頑固で自分の考えが合っていると会話が難い人もいます。そんな人に対しては、自分の意見を述べずに良く聞けば良いと思うのです。この頃、やっと出来るようになりましたが、これがナカナカ難しいです。

 世の中、一人住まいの方が多くなって孤独死が多いのも良く分かります。他人が毎日元気かどうか確かめても、その人達に1日の内、何時間会っているのでしょう。ほんの少しの時間で話す内容も同じと思います。これが1週間や一月に一度となれば生死を確かめているだけだと思うのです。ますます年寄りが増えて、役所の人も大変と思います。

 今、この様な言い方が正しいか分かりませんが(有料老人)ホーム、他に言い方あれば教えて下さい。そこに入っている人達も、生命の不安をなくしているのですが、ボケの防止は二の次にならざるを得ないと思います。このような中で、自分自身ボケの防止をしなくては他の人に迷惑がられるのです。今からボケないように何か新しい事をしなくてはならないです。でも、本人はボケて何も分からないのです。 
 こんな時に新しい事を始めるというのは、無理な事です。その前に、いろんな人と出会う事を心がけなくてはと思います。幸いと言うか、恵まれていると言うか不幸というか、色々私の場合やっています。

 若い時は自分の身の回りの事で精一杯でしたから、気にしなくてもそれなりにやってきましたが、今までの人生で出会いと言うものがどれほど大事かと思うようになって来ました。どうしても新しい人に会う事、新しい事を始める事が少なくなってきます。今日を大事にして、今日会った人を大事にしなくてはと思います。

 先日、お年寄りの方に、「貴方の様に年寄りの人の方が、親切ね!若い人は駄目だと」言われました。私が年寄り、言葉の選び方が間違っていると思いたいですが、私も年寄りの仲間に入るのか考えさせられます。

 (今あることに)か、感謝、き、希望(を持って)、(何事にも)く、くよくよしない、(自分自身の)け、健康管理、(思ったら)こ、行動、「かきくけこ」の精神を忘れずに皆さん、お互い頑張って行きましょう。

380 昭和住宅 ストークガーデン        (毎週土曜日に更新しています)

2014-09-13 05:04:38 | 住宅
 5年程前に関西を中心に営業している昭和住宅で家を建てました。先ず最初に気づいたのは、屋根裏部屋の物置から屋根裏に抜けるための戸がずれていたのを見つけたことでした。30cm四方程の戸は閉まらないけど、見えない所だからと、まあ良いかと思っていました。そもそも、それから始まりました。

 その前にもありました。家の外側に雨水の後がどの家にも付いていたのを我が家が入る前に改善して貰いました。そして、暫くしてから家の外側の下水管から汚水が漏れたのでした。数度の調査の後に、結局外階段を壊して分かった事は、2メートル程の木が詰まっていたのです。
 その外階段と下水管は新しく作ったもので、信じ難い事でした。とりあえず木を取り除きました。その間、トイレは使えなかったのです。でも早めに汚水がもれて良かったです。取り除いた外階段5段程が色が違ったのですが、その内、変わると言う事で、了承しました。そしてガレージの入り口の下が、他の家に比べて違うので他と同じように石を入れてもらいました。

 トイレと言うと、自動で便座から離れると水が流れるというモノです。小の水の流れが悪くて2年ほど経った時迄、総てを大にして使っていました。恥ずかしながら自動とはそういうものと諦めていましたが、他の数々の苦情のついでに言うと、簡単にトートの人が直してくれたのでした。今までの辛抱は何かと思いました。

 今度はトイレのクロスがずれているのに気づき張り替えて貰うことにしました。クロスの模様を選ぶ為に、分厚いサンプル本を3冊持ってきました。それで選んで待っていましたが、特に困るものでないので辛抱強く待ってました。何時までも来ないので電話で催促すると、選んだクロスの型番が古くて、製造していない、もう無いと言うのです。そこまで2年です。その間に、主寝室のクロスもズレていたのに気づきました。目立たないのでそれを修繕するのを諦めるので、風呂場のゴムパッキングを替える事を引き換えに諦めました。

 しかし、パッキングを修繕後、ドアが曲がっている為にこれ以上直らないと、パナソニックの人は逃げるように帰って行ったのでした。その間5年、ナショナルからパナソニックになりました。これは見にも来てくれませんでした。そもそも初め2年程して、毎年住宅はどうなっていますかと聞くと言っていたのが、その時の電話1度きりでした。それなら言わなくても良いのに分からないサービスでした。

 それから隣の境目で雨跡が酷かったのですが、クレイムの対象外ということでした。5年たって最後に苦情を昭和住宅の支店長宛に書きましたが、もう諦めた時分2週間ほどしてお詫びの言葉が、タイプ打ちで送られてきました。
 支店長は代わっていて、今後は直ぐに対応しますとか書いてありました。返事が直ぐとは2週間も掛かると言う事です。そして、誰が打ったのか署名はタイプ打ってありました。 

「還暦を迎えて、家を建てる馬鹿」この場合は意味は違いますが、人生最後の大きな買い物が、気分の悪い思い出となりました。家1軒こんなにも建てるのは大変です。大変と知らずに現在バイトバイトです。そのお陰で沢山の人と会えました。今ある事に感謝です。