旅、思いで思い出し           何も知らずに旅にでた!

昔ズート昔、旅をした。何も知らない私が、若かった,若いだけだった!
半世紀前の事....

430 浦島太郎の地蔵盆(毎土曜日 更新)

2015-08-29 04:44:42 | 高齢者
 今年は週末に地蔵盆が重なったので、知り合いに会えるとかもと思い京都に久々に行って来ました。その時に、地蔵盆は今まで続いているのかと心配になりました。でも今日は日曜日、まあ、取りあえず行って確かめようと思いました。

 良く使っていた四条大宮駅で降りて、見た事も無い新くできた北口改札というのを、初体験。そこを出ると、今までと反対側にでました。昔、映画館があった場所で直ぐに何処か分からないほど広い通りでした。多分こんな出方をした事がなかったので、そう感じたのかも知れません。

 王将一番館がこの辺と、細いカウンターの狭い店と思っていましたが、それが4階建てに変わっていました。餃子を食べったかったけれど、人と会うかも知れないと、我慢しました。大阪王将と王将の違いが分からないでしょうが、私も良く分からなったのです。

 昔のように路線の堀川バスに乗って、二条城そして、懐かしいひまわり幼稚園、何と、幼稚園は見違える程大きくなっていました。私が園児の時にシーソに乗って眉毛の間を切って手術した思い出の可愛い幼稚園は、立派な鉄筋でできた、以前の3倍以上の土地を持っていました。

 そして丸太町、降りた所に、その昔カメラを買った小さなカメラ屋さん、隣の本屋さんは無くなっていました。向かいの角に大きな初めてみるスーパーはここ数年の時代の流れを感じます。

 待賢小学校は看板と建物だけ、今は公民館になっています。その横に私が盲腸で手術をした佐々木病院が隣のビルの陰になってありました。そして、黒門に入りました。欧州から帰った時、自分の背が大きくなったと勘違いした軒の低い家々も今回は普通に見えました。暫くしか経っていないのに思った以上に道路が狭かったのが第一印象でした。それと町内が小さく狭く感じました。

 午後3時と言うのに年配者が、もう地蔵盆の後片付けをしていました。どの顔にも覚えが無く誰か気づいてくれればと黙って見ていていました。結局、私の名前を言って誰か知っている人がいないかと思いましたが、誰もいませんでした。ここで古くから住んでいる方に聞くと、兄二人の事、それと甥御の事はそれなりに覚えていました。自分の存在が失われたようでした。

 我が家の後は、以前駐車場になっていたのに立派なアパートになっていました。裏の通りにある、蔵を改造したライブハウスの「じゅっとく」はみすぼらしくなって、友人のうどん屋は無くなっていました。

 浦島太郎の作者もこの様な経験をしたのではないかと思いました。この作者は改めて素晴らしい話を我々に伝えていると思ったのです。ホンの数年で今まであった事が、嘘の事のようになりました。




 

429 夢を忘れずに...(毎土曜日 更新)

2015-08-22 06:00:52 | 思い出日記
 今年も台風で沢山の人たちが亡くなっています。風が吹き始めてから窓に板を打っている時に、風に吹かれて窓から落ちて亡くなった人、雨がきつく降り、水路が水で溢れてその異常を確認して水に流された等は毎年聞く話です。どれも、高齢者でした。

 雪国の親戚の家に行った時に、毎年一銭の金が手に入る訳でないのに雪かきに毎日せいを出さなくてはならないと、年寄りの人がなげいていました。 
 若い人がいないので自分たちがやらなくてはいけない、世の中は高齢化して益々その被害者が多くなると思われます。その人達が仕事をするのに、昔だったら、簡単に早く終っていたのに、去年より今年、段々と遅くなってると思います。

 それならモット早くに片付けたら良いのに、しかし、窓打ちをやって台風が来なかったら、又、やり直し、当然避けます。そこで昭和の家を守る為に、昭和を生き抜いた人たちが、簡単に亡くなってしまうと言う事が毎年のように起こっています。明るい内に非難を!でも何とかならないものでしょうか、考えさせられます。

 ところで、私は宝くじに当たる事に賭けています。当選日を過ぎても、机の前に何時も宝くじを置いて、寝られない時は、その当たったお金をどう使うかと考えると直ぐに寝られます。

 今でも若いつもりですが、万年青年??の私も写真に写ると年が分かるのが情けなく感じ始めました。鏡で毎日見ているけど、いい男?と納得してますが、この頃の写真機はできが悪いのか自分らしく写っていないのです。どうもデジカメが合わなくなって来ました。今でも20代のつもりですが、デジカメは私をそう若くは写してれなくなりました。

 新装オープンのチラシにカップに入ったロウソクの写真が写っていました。そこで思い出した事ですが、欧州にいた時、ロウソクの専門のお店を京都の四条通りに持つことが夢であった事です。そんな時もあったのでした。

古くていつ頃か不確かですが、本当に若い45年程前に、コペンハーゲンで家に何か問題があって貧乏とかで親と一緒に住めない子等がいる施設でボランティアとして働いていました。

 その時に、可愛いというより凄く艶めかしい14才位の女の子の部屋で、ロウソク、網、そしてビールの木箱等を上手く飾り付けていました。それを見てロウソク専門店を夢見たのでした。色んな若者がいましたが、その娘は、近親相姦で親と一緒に住めないと言う事でした。

 その店の名前まで決めていたのに...今となっては夢、チラシを見るまで、そんな夢を忘れていたとは、どうしようもないです。皆さんは、若い時の夢を忘れずにいて下さい。
 
 

428 30年前

2015-08-15 05:35:05 | 思い出日記
 日航機墜落事故があってから30年がたちました。10年1昔前、30年前、長いようで、昨日の事のようです。大惨事と言って一言で終わっていいとは思いません。524人が落ちるまでどんなに恐怖に陥ったのか、その後、未だに何も言わない川上慶子さん、怖かった、彼女ら以外には怖さは分からないです。ジェットコースターと比べ物にならないのは分かりますが、なんでも普通経験しないと分からないと言いますが、生き残った人以外に誰も経験しない恐怖です。
 
 乱気流に巻き込まれて、一挙に数千メートルの急降下を経験した人、生きた心地がしなかっと言う事を聞きます。それより長い時間、長い距離を経験した後に亡くなった人達。想像するより、でも、それは想像できないです。

 CPカナディアンパシフィック航空会社に努めていた新田さんも、その中にいました。彼女は、我々航空業界に努めていた人間が殆ど混んでいるので避ける、ピーク時の8月12日に乗ってその事故に合われました。

 多分、微かなチャンスに賭けて、チェクインカウンターか搭乗口で自分の名前を呼ばれた時は、嬉しかったと思います。航空会社に努めていると、スタンバイと言うか、ノンレブと言いますが、取り消し待ちのチケットで乗るのが普通です。それか山陰地方で、彼女の家は有名と聞いたので、普通の航空券を買われたかも知れません。そして、どうしても大阪に帰る理由があったのかも知れないです。彼女が乗らなければ昨日の事故のように感じなかったかも知れないです。
 
 この飛行機に乗った人、その一人一人にそれぞれ人生がありました、その殆どの人が、それぞれが夢に満ち溢れた時を持って搭乗したと思います。その地縁者だけでもかなりな数が想像できます。又、その中で最後の手紙を書けた人には、何としても家族に伝えたいということで、精神的な強さを考えさせられます。

 書道家の村尾さんが「鎮魂の個展」を模様されました。大阪箕面の人で東京で開かれた書道展の表彰式の帰り、その日に早く羽田に着いて予約していた123便より早く121便の空きに乗って、難を逃れたそうです。搭乗しようとした時に、4人家族の中に、水槽を持った子供がこのままでは機内持ち込みができないと、入れ替わるようになったとそうです。犠牲者の中に4人家族がいたことを知ったそうです。 

 毎年のように墜落現場の御巣鷹山へ慰霊登山に行くそうですが、遺族とすれ違っても言葉を交わす事が出来ない。偶然生きながらえた自分の立場を言い出しにくく、接点が持て無かったそうです。
 
 事故にあった人々、その人々にかかわった人、みんなに何と言っていいか分からないです。合掌
 

 
 

427 長寿世界一の国(毎土曜日 更新)

2015-08-08 04:24:05 | 高齢者
  WHOは2015年版の「世界保健統計」で13年の男女合せた日本の平均寿命は84歳。めでたい事に2年連続首位になりました。女性の平均寿命が87歳で、男性80歳で3位だったそうです。

 男性80歳を遠に過ぎて元気いっぱいの人もいる長寿世界一なら良いのですが、長く生きるだけ寝たきりとかの人が多いのが、介護のバイトをして実感として喜んでばかりいられなくなりました。

 何も目的も無く、1日6回も毎日歩くだけ、その方はやっとデイサービスに週3度だけ行かれるようになりました。その反対に。85歳になっても元気に老人クラブの世話係をしている方や73歳で現役バリバリの仕事をしている女性の方、一般には色んな人がいます。

 でも、施設に入居されている方は、食事が済むと、部屋にこもる方が殆どです。部屋に戻って何か読んでいると思ったら、目が不自由で本も読めない人もあって、なかなか難しいです。

 45年以上前、北欧デンマークは日本とは比べものにならないほど福祉国家として知られていました。その人たちの生活は質素で、今はどうか知らないですが、蛍光灯を好まず、電燈を楽しみ生活していて、又、若いうちから、ライティングが驚くほど上手かったです。
 
 日本では、当時、福祉ということさえ一般的でありませんでした。まだまだ、職業としてその存在は認められていませんでした。しかし、現在では素晴らしい施設のどんどん出来ています。今の感覚でその施設を見て知っていたら、私の生き方も変わって来たかと思います。 
 
 でも年金で食っていけないので新幹線に乗車している人を道ずれに焼身自殺、単身赴任赴任に行く時、家族が温かく見送ってくれないから家に火をつける人とか、自分勝手な人が増えて来たと思います。心も貧乏、それどころか極貧で、生活も貧乏な人たちが事件を起こすようになって来ました。
 
 金持ちは政治家になってはいけないのに、金持ちだけ政治家になりやすい社会です。タレント杉浦大蔵が典型的で議員を足がかりに金持ちになるようになってきました。悲しい事に、日本はマダマダ貧乏なままです。

 最も平均寿命が低かったのがシエラレオネで46歳、人生を楽しく送るか人の寿命とは長さに関係しないと思いますが、人生50年の国も未だあります。

 「貧乏なひととは、少ししかものを持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」、もう一度、デンマークの人たちを学んで世界一長寿を誇る、そんな国を目指すようになりたいものです。

 この年になって言える事ですが、若い内に、施設の現状を知った後に、心にゆとりのあるデンマークの一般の生活も知って貰いたいと思います。