旅、思いで思い出し           何も知らずに旅にでた!

昔ズート昔、旅をした。何も知らない私が、若かった,若いだけだった!
半世紀前の事....

277 塚本-3度目の大阪あそ歩参加

2012-11-24 06:41:56 | 散策
 大阪駅から神戸方面にJRで1駅で塚本、私は阪急電車の十三から歩きました。昔友達の大阪で言う文化住宅、共同トイレの安アパートに良く泊めてもらったのですが、その面影も無くなっていました。変わらないのは、高層ビルの無い庶民の町と言う事でした。

 川の面影も無い中津川の左岸と言われる所を経て右岸を散策、丁度土手部分と言われる家の間の狭い道をガイドさんと歩きました。説明によると、坂本龍馬も大阪から神戸の抜け道として利用していたとの事でした。

 川が無くなったのは、明治18年(1885年)の大洪水があっての事でした。被災人口は約27万人、それで新淀川が建設が計画されて明治42年(1909年)に完成されたそうです。そのさい、今ならできない3,000人以上の人が立ち退きさせられたそうです。

 家並みが続き、現在は新淀川と神崎川に挟まれています。鼻川神社(昔地名は漢字を簡単にすべきだと、この辺りを花川との地名になったそうです)があり、神功皇后が地形が鼻に似ているので鼻川神社と命名したそうです。昔の地図を渡されると、その昔は川が入り込んでいて、地形が変わったのが良く分りました。
  
 現在この辺迄来ると、川の名を新淀川、淀川が上流の天神橋で大川と新淀川に2手に分かれ、新御堂に掛る橋を新淀川大橋、そして十三大橋と続いています。ここを聞き忘れたのですが、新淀川に掛る橋なのに何故か新が付かず淀川大橋北詰になりました。
 
 今回のコースの一番南端になり北にあがり野里本町商店街、淀川大橋北詰とこの間が昔の中津川との事でかなり広く2‐300メーターはありました。そこは電車の駅があった頃は栄えたらしいですが、寂しい商店街を歩き古い民家の堤下(ていか)さん宅で、ご主人の手品を見せてもらいました。

 野里住吉神社(1382年足利義満創建、こんな所に神社を作ったのは義満さん本人知っていますかどうか?)は、毎年7月31日と8月1日に夏祭が執り行われ、3つのだんじりが行き交いすると言う事でした。先ほどの堤下さんのお父さんが神社の彼方此方に寄贈の印があり改めて手品をした人を見直しました。
 かって野里村は「泣き村」と呼ばれるほど風水害、疫病に見舞われ娘を人身御供にして、そこに武者修行中の岩見重太郎が現れて解決に乗り出したと言う話は、司馬遼太郎が小説化しているとの事です。そこで毎年行なわれる一夜官女祭と言う祭で、現在もその時を思い出させるそうです。

 そこでガイドさんが説明してる鳥居の下で、‘あそ歩”のジャンパーを着た郷土史研究家の先生が、マナー悪く煙草を吸っていたので注意しようと思ったのですが踏みとどまったのでした。そして次の旧家池永家に入る際は、その先生が入口の錠前を厚かましく勝手に開けて中に入るではありませんか。この地区に不釣り合いな総面積300坪、家と庭がある所をその先生が説明して、家の土間でここの持ち主と聞き驚きました。人は見かけに依らないものだと思いました。

 一言多いのが今までの人生の誤りでした。あそ歩は3度目ですが、自分一人で歩いても分らない、面影も無い所を良く説明してくれました。

 
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276 クリスマスの飾りつけ!

2012-11-17 05:47:22 | 日記
 ハロウィンが終わって直ぐにクリスマスの飾りつけを始め、今年も私が一年で一番力が入るこの季節がやってきました。(もっと他に力を入れる事があるはずだとの意見もっともです。)

 デパートと同じく毎年早く用意するようになって、特に去年、仕事から帰って来た時に、近所の子供達7‐8人に取り囲まれました。こんなに人気があるとは思えなかったので何事だと思ったのでした。するとその中の餓鬼大将と思われる子が、クリスマスのをイルミネーション点けて下さいと丁寧な言葉で言ったのでした。

 こんなに我が家のイルミネーションを期待されていたのかと驚きました。まだ、全部が出来ていないと答えると、‘そんな事はありません十分です’と言うではありませんか。もうしばらく待って下さいと思わず丁寧な言葉で答えました。と言う訳で今年は例年より早く準備に掛りました。

 そもそもクリスマスの飾りつけは、始めた頃は部屋の中だけでした。そしてマンション住んでいたので、ベランダ中を飾りつけてほぼ四半世紀になります。
レークタホにスキーに行った帰り道、偶然リノに近づいたある村で、イルミネーションで村中が飾りつけしてありました。その村の1軒の庭が、日本の家屋の3倍以上ある立派な家が普通で、庭からその家全体迄電飾で綺麗に飾りをしてある所でした。(電気料金は、夏休みに1週間程の旅行に行くのに、帰って来た時に涼しい様にと、5LDK2階建の部屋全部にクーラーをかけて行くような家がある所でした。)その様な雰囲気を知ってから、なおさら凝り始めたのでした。

 一度にそろえるのは大変と、初めは毎年少しづつ集めて、やっとそろったと思ったら電飾がLEDに変わりました。LEDの方が美しくて、古いの順次新しいのに変えながら増やして行きました。ご近所もやれば盛り上がるのですが、引っ越ししても行った所は、どこも我が家だけでした。今の家に引っ越しして子供が以前より多いのに、少しやっているのが3軒だけと相変わらず少ないのでした。
 経験上、電気の取り口を増やす事を一番に考えましたが、結局無駄な所に付けたり、必要な所に付けなかったりしました。しかし自分のセンスの良さに(自己満足)これで食べられたら文句はないのですが、この仕事をするのが夢になりました。家を建てられる方があったら、その経験を生かしたいのでご相談下さい。勿論、無料です。

 大阪でも成田でも地域一体でやっている所がありますが、実に羨ましい限りです。私の住んでいる豊中や箕面でも地域で美しく飾りつけしてます。ただ、これからのシーズンはそんな所は車が一杯になって大変です。実は私も渋滞に参加しています。そんな訳で、我が家はご近所だけ楽しんでもらえたら充分です。我が家の飾りつけは昼間も楽しめる様にしていますので、子供達の喜んでいる姿を楽しみにしています。

 ちなみにクリスマスイブには例年教会に燭下礼拝に行くようにしています。少し、だいぶ早いですが、MERRY CHRISTMAS!
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275 教育実習 

2012-11-10 06:25:46 | 思い出日記
 昔、教育実習で英語を教えました。まだ、卒業して間もない我が高校に行きましたが、社会の免除を取るのに英国で学んだ、その時自信のあった英語を選んだのでした。

良く覚えているのが、実習を終えた時に先生に‘変わった発音をしていますね’と言われた事です。英国から帰った間もない時でしたので、英語(米語と違う)発音に生意気にも自信があったのでした。 今はまるっきり英語に自信がありませんが、その時は、自分が正当な英語を話していると信じていました。英語が米語より発音において日本人に向いていると思ったのも確かでした。今でもそう思っています。
 例えば、CANの事を英語でカン、米語でキャン(書くのが難しい)と言いますが、a とか r が典型的で米語の方が日本語発音に無い事が多いのです。とりあえず(多いphaseで済みません)、若さ一杯で若いだけでした。ただ、アメリカ人より自分が正統な言葉を話していると自信を持って話せる所がありました。英国人は言葉を誇りにしていました。

 実習に何故英語を教えたか、社会科を教える事は、極端に言えば歴史の初めから勉強しなくてはと思っていたのでした。それに比べ英語は、そのページだけしっかりやればどうにでもなると思っていたのでした。気軽に免許さえ取っておければと言う具合で、でも生涯その教員の免許を生かす事はありませんでした。

 今思うと、2‐3年前迄その高校で習っていた先生でしたから、英語の成績が良く無かった生徒(私)が何で又教育実習で英語を何で選んだのかと思ったと思います。まあ、私にとっては色々経験して良い勉強でしたが、教えられた生徒は良く黙って聞いていた事と思います。多分、発音の違いも何も考えていなかったに違いありません。
 
 あの時の自分の英語を今聞いたら恥ずかしく思うでしょうが、英国帰りの英語、もう一度聞いてみたい気がします。あの時先生にもう一歩進んで、米語との違いを言うべきだったと思います。又懲りもせずに、その後、業務でアメリカに研修に行って、同じ様にアメリカ人に対して英語を英語らしく話していたのでした。社会人になって営業を担当して、書く事は多かったのですが話す事は殆どありませんでした。でも、話す機会が多い成田で若い人達の米語を聞き、その発音の上手さに驚くばかりです。

 実習が役に立ったと言えるのは、ビジネス学校旅行学科で教えた事でした。その学校で生徒に教師が直接就職の口利きをしてはいけないと言う規定になっていました。私のクラスが一番分り易いと人気があったのでしたが、今考えても可笑しな話で、旅行界に顔が利く人がいなかったのでした。覚えているのが旅行業界と関わり無いロッテリアに就職が決まった生徒が多くいた事です。

 そんな中、旅行会社に勤めた生徒はたった2人だけだったでした。その一人は、業界で有名な会社に勤め大阪支店長まで行ったのですが、非常に残念でしたが、40歳を超えた位で肝臓を悪くして亡くなったのです。世の中上手くいかないものです。
 
 
 
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274 60歳を過ぎると...

2012-11-03 07:13:14 | 思い出日記
 アンパンマンの連載を60歳を過ぎてから始めたやなせたかおさん、そして同じく経団連の会長をやった城山三郎の石坂泰三を書いた‘もうきみには頼まない’を読みました。

 半分読んで、人生60を過ぎて経団連の会長を6期12年もやって益々真価を発揮したのには恐れ入りました。驚きとしか言いようがないです。その石坂さんは70歳を過ぎてから、本格的に仏語、ゴルフ、焼き物、碁、長唄、絵、書等を習い始め、2‐300の肩書を持ってと言うより持たされていたと言う方が良いと思いますが、超人でした。

 原爆が落とされる前にそれを知っていた明治生まれの国際派、‘老人は我がまま適齢期、憎まれるのが一番の長生き法’‘役人の数が多すぎる、その役人達を民間にまわせば良い、そこには常に民間の産業を盛んにしておけばすむ’政治とは距離を置いて、日本経済の活力を信じる自由主義者でありました。考えが変わらないのは、情けないのか、今と通じるものがあります。

 失敗するのを恐れて誰も引き受けての無かった、万博会長迄を60歳を超えてやったとは驚きでした。とてもそんな会長が頑張っていたとは...。急に小さな話に変わって申し訳無いですが、それとは関係無く私は同じ万博のガーナ館でココアを売っていました。

 そもそも万博を紹介してくれた人が、初め団体写真を写すカメラマンと言っていたのでが、駄目になり仕方なくガーナ館を紹介してくれました。仕方無くが、ラッキーで当初は暇で、毎日遊んでいました。ココアは良く冷えて美味しかったですが、その後は1杯100円のココアが行列ができて冷やす間も無く売れて行きました。生ぬるくても平気、我々3‐4人で1日80万も売り上げました。お陰で立派なナショナルデーのパーティもやる事になりました。

 このパーティに両親を呼んだのが、今思うと最後の親孝行だったと思います。会社に勤めてからは、この種のパーティに出る事は多かったですが、両親は国際的なパーティ会場と万博を見て両親も喜んでいたと思います。2人には良い思い出を作ってあげて良かったと思います。そして最終的に月に6万(高校出月収が1.5‐2万)も稼ぎ、欧州行きが確実可能となったのでした。

 本の中で‘何を見ても興味が湧くようで無ければ仕事もだめだ’と書いています。どうもいけないと思ってました。現役を退職すると、最近新しい物に興味が無くなってきて、必要としなくなってしまいました。コンピュウター等、例えばexcelとか新しい取り組みが、携帯も古いラクラクホーンで良かったなと思う様になって、Ipadminiと言われても自分には関係無いと興味をひかなくなってきました。

 これではいけないと、新しい事に興味を持たなくてはいけないとfacebookを始めました。丁度、成田の片思いの人からfacebookにお誘いがあって頑張っています。画面に写真を入れる事に、右往左往して情けない事です。つまらない事でも、何も興味が無くなるより良しとしましょう。

 
 後書き、万博に両親がどんな形で、どうして行ったか帰ったか総て忘れていますが、一枚の写真が両親を万博に呼んだと気づかしてくれたのでした。もう少し両親にどう思ったか聞いたら良かったと思います。皆さんも写真は大事にして下さい。1枚1枚に思い出いっぱいです。
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