旅、思いで思い出し           何も知らずに旅にでた!

昔ズート昔、旅をした。何も知らない私が、若かった,若いだけだった!
半世紀前の事....

348 老人力

2014-01-25 05:46:21 | 思い出日記
   今まで知りませんでしたが、老人力、老人が力を発揮する?とは、その言葉は1997年に出来たそうです。その具現者(赤瀬川源平)が老人力について書いています。ナカナカ面白いので紹介したいと思います。

 そもそも還暦をむかえて自分の年より10歳も年上の人を見て、体力、記憶力が衰えてきた人(著者)、ボケて名前を忘れたり、約束を忘れたりしていく姿を見て、老人力が高まったと言ったのが初めでした。ぶらぶら歩いて、ぶらぶら物件を見つけて、ブラブラ写真を撮るという、ぶらぶら感覚の中から老人力は発祥したのでした。つかみどころの無いエネルギー概念「老人力」という名前が発表されてからは、自然のパワーとして積極性が出てきたと言ってます。

 ‘忘却という事は、拒み難い時の力’人間歳をとると物忘れがひどくなるのはいうのは誰しもあることです。「あいつもだいぶボケたな」の代わりに「あいつもかなり老人力がついてきたな」ということで、歳をとることに積極性が出て、「物忘れ イズ ビューティフル」となるというのです。 
 若い人も、若年寄りと言われるように老人力を発揮していて、その人達の事を何故か恥ずかしくも早老と言います。それは人間の知恵、つまり、生きて来た社会生活で得たコセコセ力を少しづつ殺ぎ落としてきた人といえます。

 忘れようとするとますます忘れられない、努力して覚えることはできても忘れることはナカナカ出来ないものです。情報が無いと不安、捨てるのがもったいない。みんないざとなったら情報を捨てられない。ボンボン忘れて行く事の面白さを見つけたと言う事で、老人力がそんな悩みを無意識の内に自然に解決してくれます。そして、その方が幸せになるという訳です。回りの人だけが不幸せ?だと思います。

 テレビが好きであった自分が情報だらけで、大した情報でないのに大事に覚えて、その内いつか忘れている。捨てていく気持ちに江戸っ子になって ‘宵越しの情報は持たねえ’。年とってくると便利な事、頭のガードがゆるんで警戒心が無くなってくる、すると吸収が良くなったり新しいものが入り易くなってくる。良い事ばかりです。

 著者は小津安二郎の再評価を何本か続けて見て、小津力というものを認めたのです。一方で小津監督の現役で撮っていた時には他の監督の作品を見ていて、全然見ていなかったそうです。やはり、長生きしなくては、分からない事が多いようです。
  
 そして年をとるとどうしても人生が見えて来ます。若い時は、考えもしなかった、つまり有限の先が見えてきます。その有限世界をどう過ごすか、特に若い時には分かり難い。情けないかな、未だに私は分からない。考えなくてはいけないですが、それがナカナカ難しいです。
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347 やっぱ好きやねん!

2014-01-18 06:41:04 | 思い出日記
 ‘やしきたかじん’享年64歳の追悼会を関西TV各局共同でやる話があるということです。彼の名前を知っていても、少し売れた歌手としか知らないかもと思います。好き嫌いは別にしても、大阪にこだわって大阪中心にMCとして活動した人でした。

 多分TVに出た最後になったと思うのですが、しばらくテレビを病気で休んでいて久々に出て来た時、いつもより言う事に迫力が無く、服は大き過ぎてなおさら痩せて見えました。

 見ていて痛々しい程げっそりして、もう少しカッコ良い合う服を薦めたらいいのにと感じました。回りがみんな本人に気を使ってか、それとも死を意識していたのかそのまま出てきました。亡くなってから、昨年、若い女性と再婚したのも既に死を意識したものだと思いました。

 私自身、大阪で営業をしている時にこのまま行くと病気になると言われ67㌔からダイエットに成功して56㌔に、多分知人は癌と勘違いしている程痩せて、総て服を買い替えました。そんな金何処から出たのやら、今考えると何も気にせず服を買っていたと思います。そんな事で今苦労しています。
 そして成田では会社割り当ての制服であった為に、退職後大阪に戻って来てなけなしのお金で再び背広を、とりあえず1着買いました。さらに4㌔減で52kgになって、この前その服を着る予定で、たった4キロ痩せただけなのに、一度だけしか着ていない背広、再び買い変えなければならなっかたのでした。私でもこれだけの事をしたのに、たかじんさんはどうして合わない服をきたのでしょうか、分からないです。最後にTVに出ると急に言ったので、だぶだぶの服を着たのに違いありません。最後なら最後で回りの人がもう少し、服にこだわるスタイリストがいたら良かったのに...難しかったのですね。

 大阪でも大変デープな西成区に住んでいたと聞きました。西成と言っても関東の人は分からないと思いますが、昔、昔ばっかりですみませんが、和服で正月に一度、住吉大社に車で行った時に道を間違って西成のあいりん地区、職安近辺に行ってしまったのです。寒い中、路上で人かたまりになって自動販売機のコップ酒を飲んでいる人がいて、車で通るのに随分怖い思いをした事を思い出します。勿論、西成と言っても広いですから、いちがいに言えないですがその様な所です。

 どんなにこの世が進んでも、どんなに有名になっても、お金を持っていても変わらない事は何か、それは『生まれた時から‘死’に向かって進み始める』。その過程で色々ありますが、そして若い時は死と言う事を考えもしなかった。それを考える必要もありませんでした。生まれた時から死に突き進んで行くとは考えもしなかったけれど、考えて見れば、又考えなくても、その通りあたっていると今、思います。
 
 たかじんさん、3日前に前に亡くなった上阪様の御冥福を祈ります。合掌
 
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346 にっぽん名曲遺産

2014-01-11 05:27:22 | 思い出日記
 ‘にっぽん名曲遺産’時代の出来事という番組を何気なく聞いていましたが、その時々の事を思い出しました。私にも歌を総て口ずさむ程懐かしいものでした。
 去年は文化遺産が話題になりましたが、遺産とつければ何でも良いと名曲遺産とつけたと思いました。しかし、私の世代というより私にとってはタイトルそのままにで思い出に残る歌ばかりでズバリにっぽん名曲遺産でありました。

  何が現在の曲と違うかと思って聞いていましたが、殆どアクションが無く、マイクを左手に右手で表現するもので曲以前にも問題が多いと気づきました。一番アクションの多いと思われる西城ひできでさえも今のに比べれば知れていました。ダンスを主体にするのに若く無くては出来ないのかも知れないですが、若い人というより子供達がいないと気づいたのでのでした。今なら、字幕を見ないと歌についていけないのに、私も分るほど歌が全体にゆっくりしていたので歌誌の意味を良く理解できたことです。自分が時の流れについていけなくなるはずだと思ったのです。

 特に‘ちあきなおみ’が喝采を歌った時は何故か母親が好きだった事を思い出し懐かしさがこみあげてきました。今でも聞いてみたいのが‘矢切の渡し’です。この歌は細川正に盗られた歌ですが、ちあきなおみの歌、オリジナルが素晴らしいです。是非、機会を見つけて聞いて下さい凄いです、最高です。。
 その歌、まず、インターネットでの評価ですが、冒頭の「つれて逃げてよ」が女の声で、男にすがるようにささやかれ、次の「ついておいでよ」が、男が振り返った視点で、はっきりと明確な男の声で答えられる。次は、「夕ぐれの雨が降る 矢切の渡し」と、これは情景描写。もう、これだけで一気に、物語の「絵」が浮かびますね。名曲なのでカバーが多いんだが、ここまでしっかりと歌い切ったのは彼女だけです。彼女以外は、すべて「上手なカラオケ」というレベル。この評価、感心します、いい事を言います。

 どの歌もその時、何をしたかと思ったけれど、テレサテンの歌は思い出すには充分でした。彼女が二重パスポート違法で成田空港から退去する際、沢山のレポーターに追いかけられてパンナムに乗った事がありました。その時、偶然に私もその便に乗ろうとソファーに掛けて待っていた所、レポーター達が私のいる所へラシュして来たのでした。私で無く、隣にいた多分マネジャーと思われる台湾人?にコメントを取ろうとしたのでした。彼女とは飛行機に乗ったら又会える、稼いでいるから当然ファストクラスに乗ったと思ったのでした。残念ながら、彼女はエコノミークラスに乗ったので会わず仕舞いでした。

 色々思い出しますが、全体に昭和の歌はゆっくり聞かせるものが多くて思い出が一杯でした。





































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345 謹賀新年.. 

2014-01-04 06:43:16 | 思い出日記
 我が家は宗教に関して大らかでした。と言うよりバラバラで、もっと言えば、多神教で典型的な日本家族でした。私はと言うと、ある年、元旦に、キリスト教の元旦礼拝、京都の八坂神社、そして知恩院と1日初もうでに出かけ、日本人を存分に感じました。

 昔、我が家では、お祖父さんの月命日にはお寺さんを家に、日々のお参りには仏壇、金光さんとま光さん、ここまで来ると典型的とは言えないでした。以前にお話ししたように、一部を除く、殆どどんな宗教でも受付ました。そのお陰かどうか、両親は若くして天に召されました。

 我が家は、真宗ですが私の名前は金光さんに名付けられました。その名が、平凡で嫌いでした。今は違いますが、若かりし頃、外国に行ってfirst nameで呼ばれると馬鹿にされた様に感じたのです。

 良く母親に連れられて、京の船岡山にある金光教の教会に子供の時に行きました。石垣のある小さな所だったと記憶していますが、子供心に何も分からずに‘高ヶ天原にかしこみかしこももおすー'と言っていた事を思い出します。兄が北山バプテスト教会に行っていたお陰で、アメリカ人の知人ができてその日本語教師のアルバイトをやりました。

 そしてロンドンにいた時に、教会にも良く行きました。どんな教会か忘れましたが、お陰で、教会の若い夫婦に家に夕食に誘われました。
 それとは関係無く、ピッカデリ-サーカスの近くの喫茶店にスイス人の友人が働いていて何時間も粘っていた事等も思い出します。プライベートスクールで英語を習っていて、日本にいた時と同様に騒いでいた事。同時期に行っていたパブリックスクールでは日本人の女の子が教師に焦がれて、結婚を迫った事がありました。その教師が男しか愛せないと言うので、必死で女を愛するようにしてあげると言っていたのを思い出します。今なら日本でも同性愛も普通になって来て、もっと理解ができたと思います。当時とすればその世界の事は分らなかったと思います。私も分からなかった。
 
 既に話した事が多くなるのを許してもらえれば、今もどう考えても自分がドジだと思うのがニューヨークからワシントンに向かう客が5人程のバスでパスポートを盗られた事です。お金はいいのですが、パスポートは数々の出入国のスタンプを押してあるもので、それさえあればモット旅行記が書けたと思い残念です。その当時世話になったワシントンのYMCAの人の名前を整理していての書いたのが見つかったのでした。
 当時は奈落の底に落ちた、その失意のまま、ニュウオーリンズに行きまして、知人宅で 今考えても生涯最高に一番ぐっすりと長く眠った事を思い出します。その家の押し入れに拳銃があり、気軽に見せてくれて銃社会を感じました。何故か、その時に頂いた名誉市民証は懐かしい思い出です。実際は世話になった方が、市役所の名誉市民を与える所に勤めていたのです<m(__)m>

 あれやこれやと年の初めに思い出した事を書きました。
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