旅、思いで思い出し           何も知らずに旅にでた!

昔ズート昔、旅をした。何も知らない私が、若かった,若いだけだった!
半世紀前の事....

530 輪ゴム(毎週土曜日に更改しています)

2017-07-29 05:25:46 | ブログ
 お金さえあれば何でも手に入る世の中になっていますが、残念ながら私はその流れに乗れていないです。そして益々便利になり、全くついていけない程、進歩は凄く早い、何処まで社会が進歩するか分からない世の中です。
 地球の終末を逃れて、他の惑星に住むことになるのかも知れません。そんな時に生きているとはとても思えないですが、そうなっても、どう考えても地球に残る事になるのですが、そんな世の中にならない事を願っています。

 ところで途端に細かい話になりますが、バイト先のマンションの広い庭の毎日掃除をしていてアリがちり取りに入り、帰巣範囲は何処まであるのかと何時も考えます。それよりも1匹でどうやって生きていけるのか心配になって、面倒ですが世間に返す事にしています。火蟻が、セアカゴケグモの様に、何処にでもいるようならないよう願っています。そんな事を毎日考え、今日1日をとりあえず無事に過ごせた事に幸せを感じています。

 子供の時にあって、現在でも便利に使っているもので1番古い発明ものは何かと考えます。多分輪ゴムだと思います。指鉄砲、割り箸で作った鉄砲と色々な遊び、今でも日々厄介になっています。そこで輪ゴムをネットで調べました。即座に分かるとは、こんな事が早く簡単に分かるとは素晴らしいですが、それを今までチェックしなかったのです。先ず、そんな暇な人いないと思います。

 その歴史は驚くほど古く、1844年、アメリカで特許を取得。そんなに古くから特許があるのに先ず驚きました。私は70年代迄カルチェ等まだまだコピー製品を利用していたのに、その特許は明治維新より古くてビックリしました。
 中南米の先住民族が使用していたゴム製の袋を薄く輪切りにすることで、靴下や服の袖を止めるのに利用できるのを発見したことに始まるとされています。日本では大正後期より使われ始めたそうで、株式会社共和によれば1923年(大正12年)、創業者が自転車のチューブを薄く切り、輪ゴムとして生産したのが国産第1号の輪ゴムであり、日本銀行が紙幣を束ねるのに採用したとされています。

 今までの疑問は、その気になれば、どんどん解けていきます。暇さえあれば、大した疑問でありませんが、2-3度クリックすれば即座にOKです。その手間さえ面倒になりましたが。ロングロングセラー本当に長く使われているいるのは歴史があるんだと思いました。小さな輪ゴム、やっと分かりました。


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529 一日の始まり(毎週土曜日に更改しています)

2017-07-22 04:53:11 | ブログ
 アラサー、アラホー、そしてAGF、つまりAround age Forty、いやfiftyと先輩に言っていたか、マダマダだと思っていましたが、自分の年を忘れています。それらの言葉は早くも死語になったのかメディアにもあまり出てこないようになりました。

 知り合いと言っても若い人ですが、お母さんが脳梗塞で倒れて、直ぐに救急車で運ばれ処置が良かったので、丈夫だったという事です。その後、「お母さんは70才になりました。」「いい年されているんですね。」と言ってから、自分の年を考えると恥ずかしながらビックリしました。

 夜は、遅くとも9時に寝ています。その時間になると眠くなって起きていられない、習慣とは恐ろしいと思いました。そして朝4時に目覚まし無しに起きるのが、日課になっています。仕事が早いのでそうなっていますが、毎朝、ゆっくり朝食を、この時間にブログを書かなくてはと思っています。
 
 6時17分の阪急電車で施設へ、そして体温と血圧を計るのが第一の仕事です。部屋に行くと、「もう、そんな時間。北さんが来ると朝が来たと分かる」と言われていた方も亡くなりました。亡くなる数日前に棺おけからミンナ笑っている夢を見たと言われたのが忘れられないです。

 「良く寝られた、寝すぎた」と毎日言われるは、北朝鮮からイムジン河を渡って戦火の中逃げ帰った95才の方です。こんな方もいるのかと思う人、東京が戦火が激しくなったので北朝鮮へ疎開した人。その後、身一つで逃げ帰った二人に会っていただきました。昔話に花が咲いたのは去年の事でした。この二人が共に入院された後、退院されて車椅子の生活をされています。二人とも同じフロアーに居られるので、懐かしい話もあると思い一緒にお話でも思いましたが、以前会った事をすっかり忘れておられました。しかし、後に、耳が遠いと後に分かり安心しました。
 
 何時も自分の体温、血圧をカレンダーにその日のデータを書いていた人も、1ヵ月で退院してきたらベットで寝たきりです。朝、怒鳴っていた方も、最近はその元気も無く大人しくされています。その次の日に、怒った事も忘れてしまわれるので、半面助かります。これ以外にも、まだまだ元気にされている方もいますから、老々介護になるまで頑張るつもりです。

 それが終わると、9時から草刈りが大変なマンションの管理人です。月曜、木曜日夜は 卓球にと忙しくしています。そんな私もアラシ-で、Sixtyで無く、Seventyも近くなりました。楽していた、ツケが廻って来たのか、今になって本当、良く働きます。この年迄、働ける事に感謝しています。
 
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528 京都嫌い(毎週土曜日に更改しています)

2017-07-14 05:55:38 | ブログ
 「京都嫌い」は井上章一さんが書いた、ベストセラーだったそうです。何時もの如く遅れて読みました。嵯峨生まれの京都日本文化センター教授の井上さんは、建築学の演習を兼ね烏丸通り西、新町通り角を過ぎた所にある「杉本家」に訪問しました。そこで井上さんが嵯峨出身と知ると、「昔、あのあたりにいるお百姓さんがよう肥えをくみにきてくれたんや」と言われたそうです。この事があって、右京区花園そして宇治市在住の井上さんはずっと洛外に住んできた経験が京都嫌いを書く事になったのです。
 
 初めこの話を読んで井上さん気持ちが良く分かり気の毒に思いましたが、よくよく考えると、これを言われたのは悪気があっての事では無いと思います。京都も交通網が発達しして、自動車でかなりの所は2-30分あれば、ほとんど何処へでも行けます。狭い所で何も悪気があって言ったこの言葉ではありません。

 特に狭い地域を京と言う人がいるのも京都ならではの事です。子供の頃、我が家にお米を持って来るおばさんを、加茂のおばさんと呼んでいました。今は、北区でそれなりに開けていますが、何故か配給米表なるものを見た記憶があって、美味しいとその頃、闇米と言ったかどうか知らないですが我が家は美味しく頂きました。昔、伏見在の人は、京都に行くといっていました。市から区になったのも日本で唯一だと本で読んだ覚えがあります。高校に行くまで京都駅の南側は田んぼと思っていました。世間知らずで、伏見区があるなど考えもしなかったです。

 その杉本家に行ってきました。築140年、意外に新しい杉本家を訪れた時、靴をぬいでそして受付に上がった時に、同行者のストッキングがいけないと言われました。どうしてですかと聞くと、ストッキングは素足ですから、断っていると言われました。そこで売っているのが、2種類の短足靴下でピンクと空色のそんなものはそこでしか履けない趣味の悪いものでした。表見ただけで、見学は止めました。

英国女王が御所に行かれた時に、知っているかな、初めて人前で靴を脱がれたと話題になりました。その時に足元を流石に見ませんでしたが、畳の上をスリッパを履いてなど考えられないです。それ以上に訳も分からないルールがあるのが「杉本家」でした。昔の人が、全て裸足で無かったのでしょうか、杉本家は御所以上と言えます。見学は止める事にしました。

 昔、御所の建物の中で、英国女王が泊まった横にある御所職員が作ったテニスコートで、知り合いがいたので2-3度プレイした事があります。今どうなっているのでしょうか、大らかな時代でした。いい時を生きて来たなと思います。
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527 日野原重明さん(毎週土曜日に更改しています)

2017-07-08 04:17:46 | ブログ
 1年前に「103歳になってわかったこと 人生は一人でも面白い」篠田 桃紅さんの事を取り上げました。ついこの前書いたのに、もう一年経ったかと時の経つのを早く感じます。この1年に何をできたかな...、考えます。

 同じ100歳を越えて元気で健康な日野原重明さん、この方を書くのは躊躇(!(^^)!何度も済みません。次は変換に頼らず、書けるように頑張ります)していました。というのも日野原重明さんはかなりお年で、1911年生まれで、皆の目標になるお年なっています。京都帝大医学部卒業1974年から聖路加看護大学学長をされた方です。先日、新聞記事に「ホイットフィールド・ジョン万次郎友好記念館開設の会」を設立されました。ホイットフィールドは万次郎にとって大恩ある船長の家で、競売に出されていまいたが直ぐに見に行った後に作ったとその会で、8,000万円の募金を集めたという事です。100歳を過ぎて、その行動力、その健康で元気なのに安心しました。

 腰が軽いというか、100歳を越えて現地まで見に行くだけでも大変な事なのに、その家屋を修復、記念館を開設して、その保守管理費迄心配するなど偉い人は考えることがとんでもなく私の想像を超えています。2009年に記念館は完成、その5月7日を現地で「HINOHARA DAY」と読んでいるそうですす。凄いです。

 日野原さんは、「老いと死の受容」という本を1987年に初版を出版されました。その時に既に76才、それまでにも多数の著書(女の一生と健康、性の選択、死をどう生き抜いたか等々)があります。駅の階段を1つ飛ばして行くのは今も続けているんでしょうか?今でもそんな事をしていたら、鉄人を越えてお化けでしょう。老いても若々しく生きる、どうすれば生きがいのある充実したものにできるかという事を考えさせてくれます。どれもこれも人生の教訓、目標の塊です、読むと赤線を引くところばかりです。

 私の周りにいる人は、80才を過ぎて元気に車を自分で運転、神戸大阪を往復してくる人がいるかと思うと、介護が必要な方で、サッキ食べたのに食事まだと言う人や、何をしたらいいのと私に聞いたり、ベットで寝たきりの人もいたりです。人それぞれ違う違うのですが違いすぎると思います。みんなが日野原さんや篠田さんのように生きられたら一番幸せになると思います。

 少し述べるつもりの日野原重明さんを今回は??、できれば機会を見つけモット述べるようにしたいと思っています。
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526 生まれたら(毎週土曜日に更改しています)

2017-07-01 05:53:28 | ブログ
 今され何ですが、生まれたら、その日から死に向かって一直線。ある本で、「小さい頃、自分もいつか死ぬんだとひどくおびえ夜中に目を覚まして死とはどういう事なんだろうと考えた。」こんな事、本当に子供が考えるのか❓勿論、そんな事、真面に考える事は無い幼年期を送ったのですが、事実に違いないのです。
 人間、何時かは確実、100%間違いなく死ぬという事を考えたら、もう少し人生を大事に生きなくては、今ある自分に感謝もしなくてはならないです。今になってやっとそこにたどり着いた自分です。

 ただ、その限りある人生の終わりが決まっていたらと考えます。その日に合わして日程、ハタマタ人生設計を考える?そうはいかない所に人生の楽しみや苦しみが生まれて来るのです。仮に苦しみがあっても先が読めたら自殺という最悪の事を選ばなくても良いという人もいたと感じます。

 お話したことですが、少し考えが変わって来たので今少し。バイト先のマンションで通いで入居者の運転手を弟のように可愛がっていました。その方と私が年が同じで話が合い気楽に親しくしていました。ある日、その人が余命2ヶ月と言われたと住人の方に聞き、早速お見舞いに行来ました。
 そこで何を見舞いに持って行ったらいいかと聞くと、冗談ポク、気楽にアダルト本がいいと本人が言っていたというのです。流石にそれは、アイドル本を持っていきました。八畳程の部屋に、ベットが四つカーテンで区切ってありました。そこで本当に気楽に退屈そうに寝ていました。部屋が椅子も無いので部屋の外へ出て話しました。
 本人は常日頃と変わらず元気で二か月後に死が待ち受けているとは信じられない思いでした。丁度二ヶ月経った頃に死の2時間程前に治療室に入り、あっけなく亡くなったと後で聞いたのです。その後、付き合いの無い弟がお骨引き取って行ったという事です。大型バイクが唯一の財産だったとの話でした。本人に確かめようが無いですが、悩んでいたかも分かりません。しかし、見た目に、こんなに気楽に亡くなる方も居られるんです。

 良く思うのが、山城新伍の亡くなった時です。誰にも会わない、弟さんが看取ったという事でした。その時は、気の毒にと思っていました。テレビの出始めた時は「白馬童子」そして、テレビのバラエティー番組にも「チョメチョメ」等とおどけていた人の死というものの淋しさを感じたものです。しかし、しかし考え替えて、それら映画やテレビのイメージを大切にした心意気を感じるのです。

 誰にでもある死は、一様ではありません。100あったら100の死に方、考えさせられます。
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