旅、思いで思い出し           何も知らずに旅にでた!

昔ズート昔、旅をした。何も知らない私が、若かった,若いだけだった!
半世紀前の事....

260 シアトル

2012-07-28 05:22:42 | 散策
 イチローが去ったシアトルには ボーイングとかスターバックスの本社等があります。レンタカーを利用して今でも空港からダウンタウン迄の道筋を覚えています。モノレールがありスペースニードルはタワーで多くの映画にも出て来て、日本にまだ100円ショップが無かった当時、シアトルの町で今なら100円以下になる1ダラーショップでの買い物を楽しみました。

1988年頃のシアトルから始まる日本人少林寺拳法家が中心になる‘炎 流れる彼方’を読みました。有名なパイク プレイス マーケットは生鮮野菜や魚を飛ばしながら売る店があったりして、その時期に行っているのに、本の中で、マーケットの前が昔からの淫売街とは知らされなかったのでした。

 ‘炎 流れる彼方’題名で選ぶなら先ず本を読まなかったと思います。船戸与一が著者だから読んだので、しかし実際題名からハードボイルドな内容であるとは気が付かないでした。前半がボクサーの話で、後半でブラックパンサーも出て、ハードボイルドで最後に撃ちあい等、暇を過ごすには面白く書けています。
 
映画でもこの本でも、年中雨が多いと言っていますが何度も行って自慢になりますが、晴れ男の私は傘を持っていった事がありません。シアトルは数々の映画の舞台となっていますが、トムハンクスの出ている、確かレメイク版‘めぐり会い’?と思います。一時期、必死になって東京シアトルの便を売りまくったものでした。 

少し市心から離れた所にあるツインピークスはその当時評判のドラマであって、途中の景色を楽しみながら行きました。道路の一番左の車線は、確か2人乗り以上と言う事でラッシュ時も空いていた事を思い出しました。ここも営業の為に良かれと、旅行社の人達を連れて行き、皆とポーズを取った写真が現地の新聞に載った思い出があります。

 一度はワシントン州、オレゴン州と車で南へ、ラングロワまで行きました。改めて地図で見ると、凄く遠いのに驚きますが、若かったのでしょう、車で行きました。何処か分らないと思いますので、もう少しでカリフォルニア州なると言う田舎、どちらかと言うと道路沿いの村でした。村と言っても集落では無くて、何軒かがあるだけと言う所、そこにアメリカ人のご夫婦が住んでおられます。日本におられる時に大変世話になりました。現在92歳になられますが、元気に過ごしておられます。

 田舎ですから郵便物を自分で郵便局に取りに行くと言うのは、読んだ本でもありました。今になって疑問なのが家に日本の深いお風呂があった事でした。当時は日本好きなのだと思っただけでしたが、どうやって米国に持ち込んだか聞くのを忘れました。色々後になって疑問点が見つかりますが、日本には3-40年住んでおられたから、日本の良さを忘れられないのでしょう。川には大きな鮭が沢山泳いでいて流石ワシントン州だと思いました。

 地図はレンターカーの所で貰ったもので、帰りは海岸線沿いに車を走らして、殆ど忘れてしまいましたが、とても綺麗な海岸の景色が頭の中に残っています。
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259 おおさかピース 軍票・神の子たち

2012-07-21 05:24:54 | 思い出日記
 大阪ピース迄行く為に、再びJR森ノ宮駅で降りました。サクラクレパスの美術館があるのを思い出して探しましたが、今日も見つけられずに結局1駅歩いて諦めました。それならと昼ごはんを食べる所をと思い駅の周辺を探したのですが、興味あるような適当なお店がそれも見つけられませんでした。計画無しの事は今後止める事にします。
 
 そもそもおおさかピースに行くのは、前回来た時に各国の軍票を展示していたので、ビルマの軍票を寄贈しに行くのと、映画‘神の子達’を見に行く為でした。

 軍票とは、日本が戦争に際して主として占領地で軍の俸給・給与の支払いに用いる為、政府または軍が発行する特殊通貨であったそうです。第二次世界大戦中に 東南アジアを占領した戦争末期になると各地の日本占領軍が 軍票の濫発を行ったため猛烈なインフレーションに陥り、経済的混乱を引き起こしたそうです。

 私が手にした軍票の多くは、現地では少しでも汚れていると受け取ってもらえなかった為に、ビルマで手に入れたお札はどれも綺麗なままでした。それに反して、私が行った40年程前に使われていた現地のお札は、触るのもはばかれる汚いものになっていました。

 先ず受付に行こうとしていたら、その手前のビルで事務所があったのですが、昼過ぎなのに暗がりの中でやっていない雰囲気でした。中を覗くと人が出てきて、入って椅子に座ると汗が出て来ました。しばらく話しをしていて、話し相手が上司に電気を点けて良いですかと聞きやっと電気を点けました。徹底した節電で頭が下がる思いでした。そこで京都128ビルマ会に付いて行った事等、殆ど忘れていましたが、渡す時にどうして手に入れたか大まかな話しを聞かれました。

 そして‘神の子たち’を見る為に施設の入場料金250円を払い、椅子がけですが入口で座布団を取りかなり広い会場に入りました。映画は日本人が撮ったものでマニラ市の第二の‘スモ-キ-マウンテン’と呼ばれているパヤタスのゴミを生活の糧にしている人々を追ったものでした。
 大量のゴミの山の中を漁って、日々の糧としている人たちをドキュメントとして撮っている映画でした。映画ですから匂いはしませんが、見るのもおぞましい光景がありましたが、テレビが唯一世界と接し、ただ服装は別段普通の様子でした。

 ゴミ山が崩れてかなり大量の生き埋め者が出て、そこが閉鎖になり殆どの人が他の所に移転しました。そこに残った家族を中心に映して行ったのでした。ある家族の子供は、頭が異常に大きくなり、又、子供が生まれて来ても未熟児であったりして死んで行くのでした。新しいゴミが来なくて食べるものも買えず、隣の人に借りるのも断られ仲間内から物を取ると言う事迄やって生活して行く悲惨な話でした。

 何故か数年前に、日本のホームレス夫婦が高速の下で国道と思われる所で生活しているドキュメントが思い出されました。最後にその家族達の笑顔の光景、解決策は無く袋小路に入って行く話でした。
 
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258 大津 Ⅱ

2012-07-14 05:17:18 | 思い出日記
 三井寺の晩鐘(一回300円)を聞き、仁王門があり入口に来て、私にとって出口となりますが、昼食予定の‘開運’を探しました。
 地図に書いてもらったのに、その場所をなかなか見つけられずに歩きまわっていると、薄汚れた白い看板がお寺の門の脇にあったのでした。その門を入った右手にやっと見つけた店はのんびりしていて、床几で座って待っていました。シバラクしてやっと注文を取りに来て、絵馬で一杯のお店で美味しく開運そばを頂きました。

 大津にゆかりのある文化財や資料も展示してある歴史博物会が、近くにあり行く事にしました、外観と玄関のアプローチが佐倉市にある国立歴史民族博物館に似て、何故か懐かしく成田にいた頃を思い出しました。

 展示物の中で大津であったからと知りませんでしたが、その名も大津事件は1891年(明治24年)5月11日に大日本帝国を訪問中のロシア帝国皇太子・ニコライが、大津市で警備にあたっていた警察官・津田三蔵に突然斬りつけられ負傷した時に、死刑にならないで司法の独立を守った事が記述されていました。以前は気にしていなかったですが、この時程司法の独立を守るのが大変だったと思いました。大津絵も沢山ありましたが、現代絵画と書画の特別展示をゆっくりと一通り鑑賞できました。

 ここの2階は全面ガラス張りで、ここから見る琵琶湖と沢山のヨット、近江富士は、美しくて心なごませるものでした。受付前では滋賀県を紹介する映画をやっていました。
 小さい頃、夏休みに家のお手伝さんの家に遊びに行ったのが北小松でした。その当時は、本当に湖の水も美しくて田舎に来たと感じましたが、今思うと どうしようもない面倒な子供(私)を預かって迷惑な話だったと思います。昼は虫とり、夜は皆がワラジを作っていた事、高級だった鶏を一匹つぶして塩で炊いたのを骨までしゃぶった事が凄く美味しかった事を懐かしく思い出します。

 長柄神社と鳥居があり、そして江戸時代にお土産として流行、現在でも買える大津絵の店がありました。しばらく行くと、アーケードがあり長柄、菱谷町、ナカマチと人通りの少ない商店街がズート長く続いて電車通り迄歩きました。浜大津駅前で、抹茶入りきな粉がたっぷりの三井寺力餅をお土産に買いました。

 大津港の近くに浜大津アーカスがあり、飲食店と映画館の複合アミューズスポットになっていました。湖の駅が中にあって、食べた事が無い、匂いが凄い言う鮒ずしが売っていたので、今日の土産に買いました。そこで得た地図で再び歩き、テレビでも紹介されたレトロな歯科医院と街並みを見学しました。

 大津の人の集まると言うか他に行く所がないのか、なぎさ公園には2-5のグループが何組も別々に綺麗に着飾った服を着て青空の下、赤色、銀髪、青色等信じられない頭髪をした若者が集まっていて、自分たちの自身の写真と撮っていました。

 後ろでは、結婚式のカップルが鐘をならしていました。そのホテルで、高校の同窓会があるので丁度、約束の時間も来たのでそこに入りました。
 

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257 大津 Ⅰ 三井寺

2012-07-07 04:43:17 | 思い出日記
  京都三条から私にとって初めての地下鉄市営東西線に乗り、浜大津経由で三井寺迄行って来ました。電車は、座席が左に1席、右に2席と小さいもので、地上に出ると、昔のままの寂れた駅があり、人2人が並んで通るのも危ないと言うようなホームがありました。良く整備された地下部分と地上部分のギャプが大きくて、何故か景色も昭和にタイムスリップした様な気分になりました。
 小さく電車を作ったのは 路面を走ってやっと分ったような気がしました。浜大津で乗り換える時に、駅員さんが親切に対応、久々と言うよりも忘れていた、滅多に無いのんびりとした日曜日の雰囲気の電車に乗りました。

 三井寺駅では、今では珍しくなった駅員さんが改札手前に出て切符を受け取っていました。出ると直ぐに疏水の水路を見る事ができ、山に登って行くので川の上流になると勘違いしますが、そのまま下流に行くとトンネルになりました。その上から見た疏水が緑に囲まれ、なんとも言えず美しかったです。

 歴史的風土特別保存地域になっている所にあった三尾神社を見学、室町時代に建てられたと言う建物は如何にも歴史を重ねてきた感じがしました。そこに神社内神社として安産、受験、交通安全と色々あり、ここにも日本人はこうやって宗教と言うものに接していくのが理解できた様な気がしました。
 そこを過ぎると三井寺があり、受付で入場料500円を払って、受付の人にお昼予定の‘開運’と言う蕎麦屋の場所を確認しました。親切に、頂いた地図に丁寧にその場所を書いてくれました。そこはのんびりした別世界で、京都から逢坂山を越すだけで、人がとても温かく感じられました。

 右手に1655年建立の西国薬師霊場48番札所となっている水観寺。古く長い石階段を上がると、西国札所巡りの白装束のグループの人達がいて、14番札所の観音堂の朱印をもらっていました。表に出て土産物屋さんで、気軽に気候の話しかけられ、本当に心穏やかになりました。

 展望台に行き、琵琶湖を望む素晴らしい景色に感動。同じ敷地内に、ガラス張りの中に1752年に建立された、百体観音像が入ったお堂もありました。

 そこを離れて暫く行くと、左奥、門の後ろに1601年に家康に寄進された三重塔等があり、石橋を超えると一切経蔵がありました。経を納める30cmばかりの箱が縦横に大きな八角輪蔵回転式になって、それを覆う屋根の上に、さらに建物の屋根があり、なかなかもって見ごたえがありました。
 出て、左上を見ると、誰も行かない柵で囲われた大きな建物がありました。興味をそそられて行くと、何故か広い柵の中で優雅に孔雀が5‐6羽休んでいました。説明によると、孔雀明王は世の中の心身わたる諸毒を除くとする、仏教に関係するらしいそうです。

 元に戻り、弁慶が実際に引いたと言う大きな‘引き摺り鐘’、今も水が湧いている天智、天武、持統3天皇が産湯に使った閼伽井屋という泉もありました。金堂には数々の仏像が並んであり、そのお堂1周に数々の仏像が鎮座していました。其れだけでも拝観料の500円の価値があると思いました。

(400字以上をカットして書きなおして、これで大体1300字です、原稿用紙3枚分1200字前後がコラムの制限字数で読みやすくなると言う事です。これからはそれを目安にします。)
 

 
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