旅、思いで思い出し           何も知らずに旅にでた!

昔ズート昔、旅をした。何も知らない私が、若かった,若いだけだった!
半世紀前の事....

848 コペンで警察に?(次回更新予定 2月18日 第3土曜日)

2023-02-11 07:59:25 | 

 「アマチュアスポーツ界での暴力!」未だにニュースに! 亡き長兄は立命館高校時代に甲子園にショートで!未だテレビが我が家にない小学生低学年の時、ラジオに耳を寄せ!時に神棚と仏壇に一生懸命拝んでいた母の姿を思い出します。その後、監督としても甲子園に!(上司に許しを得、観戦に(^^)/) しかし昔人間の兄は、後に部員を平手で⁉監督を辞めてしまう事に!でも兄の葬式には何人もの元部員が泣いていました。現在、暴力で話題になる監督が選手だった時に、自身が体罰を受けたのか?その時の感情が多くあったと思います。いずれにせよ良くない事です。全く偶然にも不思議にも来月このブログの公開日前の17日が兄の命日との知らせ!そんな兄が存命中の半世紀前のコペンでは...

9月28日 火曜日/ カステンの「グッモン!」おはよう、と言う声に飛び起きたのです‼が、眠かったので再び寝る事にしました。(信じられない事が多くありますので(._.)自分の事と違うのではと本当に気楽にしていました。)
 ビザ申請に警察に行く予定で、午前中はオフィスに行く必要も無く勉強!(ボーダンハーズデイ→ヤハデゴッツ!How are you!I am fine. 多分、今でも言えるのでデンマーク語を?)
 マリアンも今回は一緒に警察へ同行して、一緒に公共の施設で無給で勉強していると説明しました。以前にも説明した滞在理由を何も分かってくれず、一向にらちが開かないので仕方が無く諦める事に...
 帰ってオルフに説明した所、ベントが助けてくれるはずだから「アドバイスを求めれば良い」と!彼は忙しくしていましたが説明すると、方々に電話で問い合わせ!明日に出直す事になったのです。
 近寄り難い融通の利かない人だと思っていたベントですが、本当は頼りになる優しい人でした。勿論、彼以外の全ての人達の温かい手助け親切に感謝一杯でした。(書いて行くと名から思い出す事も多くあり、信じられない程お世話になりました)
 夜にTVで大島渚の「少年」を!これは日本の当たり屋の家族の物語で、少し暗く難し過ぎでカステン、ステェファンは早々と部屋に戻りました。今なら日本も良く紹介されて特別な話と分かるんですが、半世紀前の話です。

 当時は固定相場制1ドル360円!余り知られていない東の端の国から来て、幸いにも受け入れられたと思います。何も知らず出たとこ勝負!現地で会った日本人皆がこの調子で、私にとっては幸せな時代でした。

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847 施設訪問 (次回更新予定日 2月4日 第一土曜日)

2023-01-21 04:21:41 | 

連休に岐阜迄スキーに!文庫本を2冊持って滑っている姿をお酒をゆっくり飲みながら楽しむ予定(^_-)-☆孫の👀 取り敢えずスキーを!早く長~いゴンドラ、四人乗りリフト等々で若い頃を思い出す滑りを颯爽に❕ 昔取った杵柄とは言え自分自身驚き!(^^)!  動画/写真が無いのが🤣 調子に乗ってギャプで転倒((+_+))後頭部を打ちパトロール員に「大丈夫ですか?⇔大丈夫で~す!」と答えたものの初めての転倒で起き上がるのに暫く苦労を(-"-)が、雪で頭を冷やし懲りづにその後も滑り続けました。心配した一週間後も筋肉痛無し😊少し年を考え無くては⁉昔々山の無いデンマークでは...

9月27日/曇り→一時→小雨 今日は他の施設を見学予定。朝7時30分に起きて何時に出発か?しかしリーダーヤンがいない.(前日に聞け😞)(何故か)仕方無く掃除のおばさんを手伝い、それを終わって部屋のドアを開けて勉強していましたが、見知らぬ沢山の見学者、下に降りて行くとベントが彼らに着いて行くように!
 総勢30人程のグループ、スタッフの何人かが一緒にバスに乗り張り切って出発。初めに訪れたのは昼食する所で直ぐに休憩でした。(最高のスケジュールではありませんか⁈)
 直ぐに食事!凄く美味しく、そしてビール⁈マリアンに借金して飲む事にしました。(昼からビールとは驚き!)スベントがスピリットの40度の酒のシングルをおごってくれました。更に驚いたのは彼と彼の友人は立て続けに3-4杯も!顔が赤くなった状態で施設見学をするとは!全く酒に強い人たちに驚き、又、凄く楽しい人たちでした。やっとスタート!初めは子供の為のペンションを訪れ、それからアパートを見学、その値段の高さにビックリ。(値段もメモしておくべきでした。残念!)
 それから一時間以上の討論会がありましたが、デンマーク語が分からない私にとっては過酷な耐久レース。長時間の退屈に耐えられる自分に進歩が見られた位で何も得るものがありませんでした。
 夜になっても討論会は続き、又、誘われました。何も言わずに、ただ聞いているだけ。今までの人生で無かった事、全く分からない言葉をズート聞く事に慣れてきました。流石に苦痛でくたびれました。こんな人間を施設に入れるとは良い時代で幸運でした。

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812 八月の雨(次回8月7日 第一土曜日 更新予定日)

2021-07-17 05:04:54 | 

 学生頃に配達のバイトの途中、お母さん(正しくはおばさん)しかいないのに休む為に良く友人宅に、そのモダンな家が火事で全ての思い出が消えたと!我が家も取り壊しマンションになって他人のモノに...何年も前にその町内の地蔵盆へ、昔と同じ様に子供たちが集まっている所で「私の苗字を! 知らないですか?」管理している女性が「兄が甲子園に監督として出ていた事は聞いた事がある!」。私が小学校低学年、母が仏壇の前で一生懸命拝んでいた甲子園の選手としては?知っているはずが無い!向かいの家でテレビで今は亡き兄の選手姿を見た後、おやかまさんどした(おさがわセしました!)。この旅の帰国時に、電車通りを我が家へ、角を曲がった時に急に背が伸びた?勘違いで、単に京の家の軒が低いだけでした。故郷は遠きに...その時から半世紀以上も経ちました。時は早い待ってくれない...では、 

 8月9日 曇り後雨一時曇り:今日は手紙が二通届いたのですが、我が家からのは残念ながらありませんでした。昨日焼き飯を日本人が作って沢山食べたので、今日はコックが作ってくれたのです。でも、昨日のにはかないませんでした。
 夜はデンマーク人スタッフのエッテと話す機会が!菊池氏に彼女を譲るという事で!別に自分のものでもないのに、勝手な事を..)

 私は二人のドイツ人を捕まえて個人レッスンに、生徒は沖村氏と私。今日はドイツ語の勉強を熱心にしました。キッチンに2人を誘い、勉強を始めましたが、沖村氏の娘は非常に厳しくてきついので手を焼いていました。暫くレッスンを受けていると、Mrマスタ-がキッチンに人を入れてはいけないとお叱りで、早々にレッスンを止めました。(習った事を忘れています。全く話せません。)
 しかし、どう言う訳かMR.とMRS.マスターがシェリー酒を持って来て飲んだのです。その続きで焼き飯を食べようとしたら、沖村氏がシェリー酒をこぼしてしまって台無しに...

8月10日 雨:夏、真っ盛りに今日も雨、北欧はどうも夏に雨が多いようで肌寒い日が続きました。ヒッチハイクの時には天気が良かったのに、気が滅入ります。
 ベントが昨日薬(マリファナ)を飲んだと、どんな状態か聞きたがったのに語ろうともしませんでした。思い過ごしか⁈一日中、ベントの目がぼやけて見えました。オーナー夫妻が出かけて一日で帰る予定が二日となり、我々は有難く感謝しました。今日はユースに不法侵入、そしてタダ泊まりする人を追い出して鍵を掛けました。所が、宿泊者から余計な事をしたとのクレイムがあって、その対応の為、一苦労させられたのです。今日は一日、散々な仏滅でした。

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811 コペンで焼き飯 (次回7月17日 第三土曜日 更新予定) 

2021-07-03 02:03:06 | 

 バイトを通して今までと違う様々な人と出会い、その人達から得る事が多くありました。警備員として場外馬券購入の仕方、ビラ配りの大変さ、施設での高齢者への気配り、マンション管理員で定年後の人達の生活、見る事が無かったゴミ収集者の大変な仕事を知り「有難う御座います」と声を掛け、親しくしている収集員に「ワクチン接種を彼らに優先的に..」と市にメールで送ったと伝えると「有難い!」。そんな事とは関係無い若さ一杯の50年前のデンマークへ...

 8月8日 晴れ後雲、風強し:午前中仕事が比較的に早く終わったので、篠原氏のチャーハン作りを手伝う事に!みんなに大盛り、大満足で久々にとても美味しく懐かしく頂きました。
 夜にテレビで「明日に向かって撃て」を見られる事が分かり、一番好きな映画である為に、そわそわしながら一生懸命仕事をしたのでした。しかしメーキングであった為に、他の連中はあまり面白く無かったようです。勿論、私にとっては大満足でした(宣伝として楽屋裏であるべきメーキングシーンを今は先に見せるのにはガッカリしています)。
 今日も又、みんなでデンマーク語の勉強をしました。ドイツ語よりはメモを取り熱心に勉強を、今でも大切に取ってあります(10年前にはあったけど?遠い昔になりました。)。
 8月9日 曇り後雨一時曇り:毎日ポストを確認していて、今日は手紙が2通届いた。しかし、残念ながら家からの連絡はありませんでした。昨日焼き飯を日本人が作って沢山食べたので、今日はコックが作ってくれたのです。でも篠原氏が作った物にはかないませんでした。
 夜は、わりと暇が多くて、デンマーク人スタッフのエッテと良く話す機会が増えました。この前の件もあり菊池氏の方に彼女は譲るという事で、私は2枚目半の役をこなす事になりました。
 そこで2人のドイツ娘を捕まえて個人レッスンに。参加者は私と沖村氏でした。そうなんです、今日はドイツ語の勉強を熱心にしました。キッチンに2人を誘い、勉強を始めましたが、沖村氏の娘は非常に厳しいので手を焼いている様でした。暫くレッスンを受けていると、MR.マスタ-がキッチンに人を入れてはいけないとお叱りで、そうそうにレッスンを止めました。
 しかし、どう言う訳か MR.とMRS.マスターがシェリー酒を持って来て飲んだのです。その続きで焼き飯を食べようとしたら、沖村氏がシェリー酒をこぼしてしまって、台無しにしてしまったのでした。
 本日も無事に大したことも無く一日を終わりました。いつまで続くか、この日記?

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469 100歳前の篠田桃紅とビートルズ (毎週土曜日に更改しています)

2016-05-28 04:42:51 | 
 面白い話を見つけました。それは1966年、ビートルズが武道館公演のために来日した時のことでした。宿泊した東京ヒルトンホテルの貴賓室に「103歳で分からなこと」を書いた篠田桃紅さんの絵が飾られていました。『無題』と題されたその作品に感動したジョン・レノンが「これは誰が描いたんだ」と支配人に聞いたことから、彼女のところへ連絡があった。篠田桃紅さんはその時の様子をきっぷのよいしゃべりで、
「これは誰が描いたんだ”と支配人に聞いて、支配人が教えたわけよ。電話がかかってきた」「“とにかくその筆屋さんを教えてあげるから、行って筆を買いなさい”って、そう言ったの」

「それで、…あの連中は、そこで筆をいろいろ見せてもらって、すっかり有頂天になっちゃってね、そこで紙を広げてもらって、みんなで描いて遊んでんの」「それがテレビジョンに映りましたの。それを私は家で見てました」 その後、ビートルズは筆を買って持ち帰ったそうです。

 芸術家の篠田さんにすれば、どんなん気でその電話を受けたか知りようがないですが興味深い話です。又、東京ヒルトンホテルの貴賓室の趣味の良さが良く分かります。夢ですが、そこに泊まりたくなりました。

 価値観は、時代によって移り変わるものだとも書いています。100年も生きていると、あらゆるものが時代と共に移り変わり、100年間でも、その変わりようは激しく、いったい、この世に、人類とともにその価値が失われないものはあるのだろうか、と考えさせられると書いています。文学、芸術などありますが、未来永劫、人類が愛するのかというと、それもまた良くわかりません。
私の生まれる100年前には侍が刀を腰に徳川幕府の時代、その100年超を生きた人がいます。大昔でもありません。今や50年でも激しく変わっています。

 彼女が全人類がその価値を認めざるを得ないものは無いでしょうか。ある人は母と言いました。母がいるから、人は生まれ、母性に見もまれて育つ。未来永劫、人類が存続する限り、尊い価値である事に変わりありません。
  
 自分自身は母親で無い一生独身であったけれど、結婚する以外の選択肢を持たない明治生まれの母親を持つ彼女が、自らに由って生きて行く道を選んだとき、やりたいようにやりなさいと言ってくれたのは、お母さんと述べています。

 淋しいですが、父親というものは、どうなるのでしょう...やっぱり母親が一番のようです。人間103歳で、まだまだ分かる事があるんです。とりあえず、100歳を目指します。
 
 

 
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467 京言葉 (毎週土曜日に更改しています)

2016-05-14 05:26:17 | 
大阪に住み始めて4-5年だったと思いますから30年数年前、大阪豊中から電話で京都高島屋に駐車場があるかを問い合わせたところ「ほん、ねきにあります」と答えられました。長らく聞いていなかった言葉で、それ以降も聞かない「直ぐ、近所にあります」と意味で、殆どの方は分からないかも知れないです。京都を出た事が無い、京都が世界と、私と同じように日本中全て、つまり共通語として通じると思っていたのです、素晴らしいです。

 初めて京ことばを自分が話すのを分かったのは、大阪万博のガーナ館でバイトをしていた時でした。仕事に疲れて「ほっこりしたなー」と言った時の事でした。同じバイト仲間の大阪の人達が、???と、それどういう意味という顔でした。疲れた時に、ゆっくりと「ほっこりしたなぁー」字で書くのが難しいですが、「ああ、疲れたな」という意味です。その時迄、それが京ことばとは知らなかったです。しかし、その時のショックは忘れられないです。

 それから1年して、フランクフルトからストックホルムに乗る予定のスチーデントフライトがキャンセルされた時に失意落胆してユースホステルに泊まりました。その時あった日本人が、ヒッチハイクのやり方を教えてくれたんです。つまり、インターの近くで紙に何処へ行きたいか書いて立っているという、当時はワラをもすがるつもりで有り難たかったです。 日本を出る前、ヒッチハイクでの旅行とは考えていなかったですが、その後多くの旅行がそれになったのでした。

 そこでゆっくりと間延びした話をする日本人に会いました。その人がうちの家から「ほんねきのひと」でした。その時に、つい最近、つまり日本出てから10日程前迄、自分も彼みたいに話していたに違いないと思いました。
 その時の第二ショックは人生を変えました。それ以来、自分の言葉が変わったと、自分自身で感じています。今や立派な標準語を話すと思っていますが、それからン十年して、成田で私を「関西弁」を話す人を探した人がいました。進歩の度合いがン十年立っているのに、やっと京から関西になったのでした。

 私の母親迄、一般に語尾に「どす」を、例えば、「そう、どす」の様に言っていましたが、今や玄人さんしか、余り使っているとは思えないです。先日、殺虫剤のCMを見て全く使ってない言葉、「ぼっかぶり」と言う言葉が正しいか心配になってネットで調べたらありました。ゴキブリの事ですが、大阪でもそう呼ばれているそうです。しかし、お婆さんしか使っていないと紹介されていました。その説明に、私もその年かと、がく然としました。

 何れにしても、生まれ育った所の言葉は大切にしたいものです。しかし、淋しい事ですが、今となっては似非(エセ)京ことばを話すだけとなりました。




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462 時代小説と歴史小説 (毎週土曜日に更改しています)

2016-04-09 04:36:39 | 
  恥ずかしながら、どうしても、知らない事が一杯あり、このフレーズこれからも良く出て来ると思います。人生を振り返って思い直すといっぱい過ちが多いと思ってください。
 
 この年まで、時代小説と歴史小説と2つあったのを知らなかったこと。それどころか、その違いがあったのをまったく考えていなかったです。本を良く見ると裏表紙の物語の説明に時代小説と書いてあるのに気が付きました。

  今まで何ともなく沢山、面白く本を読んでいましたが、時代小説と歴史小説の2つの種類の違いを全く意識せずにきました。時代小説は流れゆく歴史の中に、実在した人物や架空の人間を結びつけて物語を創作していく小説であり、歴史小説は歴史という事実の積み重ねの中で、実際に生きていた登場人物を描く物語であったのです。最近は時代、それと歴史小説ともにハマっています。どちらかと言えば、気軽に読める時代小説を好んで読んでいます。

 歴史上に名を残す人達はそれなりに文献も残っていると思いますが、その他の人やその生活を映し出すのはわずかに残った家財道具や今に残る家から想像するよりありません。時代小説は本当にあった様に、当時の生活がそのようにあったかの如く面白く書かれています。

 ただ、驚くのはドラマや映画になった時に、着るものが新しすぎて、下ろし立てのような着物を長屋の子供まで着ているのを見て落胆することが殆どです。現在のように摂取する油ものが少なかったとはいえ、私の子供時代も洗濯自体大変な重労働であったと想像できます。それにしても着物が綺麗すぎる。

 宇宙から日本列島が明るいのが分かりますが、それに比べて北朝鮮の暗さが分かります。戦前、又、その前の電気が無かった暗さは計り知れないです。時代小説を読むにしたがって、我々にはその暗闇は想像できない暗さだったと思います。

 芸者の顔におしろい(白粉)を塗るのは、お座敷で夜、行灯でも顔がハッキリ見えるようにしていたらしいのです。今でも寒い冬をせんべい布団で、まだ布団があるだけマシな暮らしていたとは昔の人は強く無ければ生きていけなかったと想像します。

 私の子供の頃はせんべい布団とは言わないですが、畳の上に布団。今のように毛布を2枚とは考えられない、足元に確か黒の陶器の中に豆炭を入れていたと思います。その様なものがあったか不確かですが、よく火事が起きなかったと思います。毛布無く、暖房無くて、布団も薄く、昔の人は良く冬を越せたなと思う様になっています。栄養状態だけでなく、長生きできなかったはずです。
 
 
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