旅、思いで思い出し           何も知らずに旅にでた!

昔ズート昔、旅をした。何も知らない私が、若かった,若いだけだった!
半世紀前の事....

156 ニューヨーク へ

2010-06-26 21:00:06 | 日記
  40年前と言うと、色々な事を忘れているものですが(最近は今起きた事も忘れるのです、それを考えると昔の事は確かです。)、これはロングブーツを履いていたので多分スペインの後、勿論一人旅で、スイスのベルンの町を歩いていた時の事です。

 驚いたのですが、観光バスから私の高校の先生が降りて来たのでした。パリのオペラ座前で 約束したのに、会えない人もいるのにとんでも無い偶然でした。勿論、ヨーロッパに私が行っているのは知っているはずないのでした。
 静かな一角、カフェテリアでコーヒーを驕って貰ったのですが、パリ祭の日にパリにいるから、自分の部屋にもぐり込まないかといわれたのでしたが、残念な事に遠慮したのでした。
 先生が、’マダム シルブプレ’ と言っていたのを思い出します。今、思うのですが、先生、高額なのに良く行ったなと思い、又、パリ祭見たかったと思いますが、その時の判断で行かな かったのですが、パリがそんなに近く思っていたのでした。今なら確実に行くのに...
その当時は、隣国のパリに行くのを隣町に行くように感じていたとは、驚きです。
 
 12月に そのヨーロッパを後にして、ヒースロー空港でウィスキーのLong Johnを買ってニューヨーク
へ飛びました。何時もロンドンの映画館でLong Johnの宣伝フィルムを見ていたので、美味しそうなので、どうせならと思い買ったのですが、不味くてプラスチックの味がしたのを覚えています。(デンマークにいた時は、ドイツに行った時に良くコニャクを買ってもらいました。)

 アメリカは泊るのに、欧州のユースが少ない無いのでYMCAが一番安いと思いました。それが、ニューヨークでは高層ビルにあった為に、エスカレータに一人で乗った時にナカナカ止まらない
ので強盗でも来たら大変と身構えました。幸いと言うか当然、何も無かったのでした。考えてみれば、こんな高いビルのエスカレータに乗ったのは初めてであったが為に、エスカレータの中の監視カメラにも物騒さが伝わってきました。(当時は欧州にはナカナカ見られ無い物でした)
 
 ニューヨークでは、相変わらずの貧乏旅行が続き、国際連合ビルでコーヒーにミルクを一杯入れて飲んだ思い出がありました。アメリカに来ればやっぱりコーヒーでした。ロンドンでは、殆どTEAを飲んでいた為に、コーヒーこれが、通じなかったのでした。
 コーヒー(ヒー)と言う時は、コヒー下唇を噛まなければ通じないと言う事を忘れていて日本語(京都弁)でコオヒーと言っていた事に気づく迄、随分コオヒーを連発していました。(後で、飛行機に乗った時に、ホーク(ホオク)も通じなくて、同じ間違いをしていた事を思い出したのでした。

 こんな、他民族の国でイントネーションの少しの違いで通じ無いのは驚きで、会社に勤めてから飛行機でシャブリーを注文した同僚が、何故かシャンパンを黙って何度も飲んでいました。ちなみにシャブ リーとリーにアクセントをつけて強く言うと通じるようです。

 初めてのニューヨークは、大きなピッザそれと風がきつくて歩くのもままならない程で、試しに後ろにもたれらる位で、倒れることもできない程でした。

 摩天楼間の台風の様な風は、凄いものだと思いました。
 
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155 話 Au-Pair 英国

2010-06-19 14:43:30 | 日記
 再び英国ですが、夏休みの3週間だけ、Au-Pair(ワーキングホリディ:英国で家事手伝いながら英語勉強)をエリザ(デンマークでお世話になったミセス.クヌード)がやらないかと言われました。
彼女の娘がAu-Pairをやった家と言う事で、親切な家だから問い合わすからどうだと言われ、今、考えてみると何でもやるから、その場の仕事を経験の為にやると思っていたのですがその時々に人の意見に従って何事も判断していたようです。
 上手い具合に廻り会う人が素晴らしい良い人ばかりで幸せでした。ちょっと違いますが時の流れに身を任せが、上手くいっていた様に思いました。そこでAu-Pairの存在を初めて知りました。

 余談が多いですが、Queens Englishか、Kings Englishと言うか、どちらか英語の先生に尋ねた所、ただ単に English と言うのが正しいと言う事でした。 米語(AmericanはAmerican)で別物と言うことでした。と言う訳でAu-PairはEnglishです。
 
 その家は、ケンブリッジの医者家族の家でご夫婦と6つの男の子、4つの女の子がいる家で、ちょっと町のはずれにある素敵な古い家で家事を手伝いながら、一応英語を学びました。
 中々素晴らしい家で、外側はそんな風に見えないですが、台所にはデスポザブルが付いている家で、とてもモダンでした。庭も広くて、芝生で無く背丈程の高さの花が咲いて、そこの屋根裏部屋が私の部屋でした。 

 その当時の事は、ここで、3週間過ごした筈なのですが余り覚えていないのです。印象に残っていることは、夕食時に日本から韓国まで泳いで渡った人がいるかと言われ事でした。
又、下の女の子がませた子で、一度は‘このドレスはどう’と私に聞いて来たのですが勿論、綺麗と言ったのですが、答えは‘当然、私の一番好きなドレスなの’が答えだったのですが、その時は、若かったので、何を生意気な事を言っているのだと思ったのです。

 夫婦で出かけた時があったので、料理ができるかと言ったので焼き飯を作ることにしたのですが、それを見て、これだけかと聞かれた事を思いだします。今考えるともう少し何か考えれは良かった。

 男の子はまるっきり覚えていませんが、裸になった時に割礼をしていたので、話に聞いたこの家はユダヤ人かと思いました。それ位印象がありません。
 それと、猫が台所のシンクに糞をしたのをデスポザブルで処理したこと等、いい思い出はありません。

 忘れた事が殆どですが、毎日歩いて行くケンブリッジは映画で見るとおりの町でした。広い芝生で、素晴らしい景色で、観光には一度は行って見るといい所です。

 それと対比のオクッスフォードですが、一度、キャティと行った事を思い出します。観光バスで行った為に、町の中心部に大きな古い建物の間に着いた為にケンブリッジと大きく違いました。
何故か、キャティドライバーにチップを払うのを見て、こんな時に払うのであるかと感心したことのみ覚えています。初めてチップを払うのを見た瞬間でした。 
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154 フィレンツオーラ イタリア

2010-06-12 20:17:58 | 日記
 フィレンツオーラ、世界の中で一番行きたい所です。2-3度行こうと思ってアンナに何度か電話を掛けました。毎回何かがあって、予定が取り消しになり、一番最近には電話を入れようと思った日に、何と脳梗塞で倒れていけなかったのでした。世界中の町で、ああ行きたい、そんな素晴らしい町です。
 40年経ってイメージばかりが先行しますが、確か城壁で囲まれて町だと今日まで思っていましたが、今その自信は無いです。しかし、町は確か10分もあれば通り過ぎる小さな町でした。

 ホテルはバス停から近い広場にあり、ここに10日間程いることになったのですが、広い部屋に彼女が尋ねて来たのははっきり覚えています。

 彼女は父親がいなくて、お母さん、お姉さんと住んでいました、家で食事をした時でした。イタリアと言えばスパゲティを食べた時でした。少しツルとやってしまいました。ツルツルでは無くツルと音を出しただけでした。ところが、皆に見られました、気づいたのでした。
 勿論、スパゲティを食べる時は、音を出してはいけない事は知っていたのでしたが、そんなに音がしたかなと思ったのでした。
 そこで、日本ではヌウドルを食べる時は音を出して食べると説明しました。そうするとアンナが日本ではこう食べるのと言う具合に、スパゲティを食べるのに音をズルズルと音をだして食べるのでした。もう参ったとしか言い様が無かったのでした。

 それに比べて、お姉さんはと言うと、大人しい人で、その行動に感動したことがあります。目が殆ど見えない同年輩の友達がいて、彼と皆でよく話したりしていました。彼はにわかに目が悪くなったと言う事で勉強を個人レッスンで聞いて勉強をしていました。
 ある時、女性がどんなものか知りたいという話になって、それなら自分を触っても良いという事になったのでした。身体を触られる、胸を触らしている彼女が凄い人だなあと感じて、本当に崇高で素晴らしい人でした。

 そんな、姉妹プラス友達で色んな所へ行きました。この町で古い家に連れて行ってもらった時に、そこの女主人が陶器のいいのをよってくれました。それは、日本に持って帰って、兄にお土産として渡しました。 

 また、ある時は、映画で見るような、両側に葡萄畑の美しい道を行った町で、日本からワザワザ来たのだからと、一般の人が入れない図書館に鍵を開けて入れてくれました。
 その後、確かカプチーノだったと思いますが、広場でみんなそろって飲んだ事を思い出します。
 
 車にギュギュ詰めで、レストラン迄近くの町まで行きました。イタリアのフルコースでした、初めに、軽くハムが出て来て3つ目にスパゲティが出てきましたが、スパゲティは前菜と知っていたので、少なめに盛ってもらったのですが、それから5番目、最後にウサギと牛肉がでてきたのには驚かされました。イタリア人は本当に良く食べました。
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153  フィレンツオーラ へ

2010-06-05 10:38:21 | 日記
 キングスクロスを離れてウェストハムスッテッド(グレードは大分キングスクロスより上がった)に初めて引越ししました。
 タミちゃん(欧州に来る時に一緒でした)の多分、友人(本人?)が住んでいたので薦められて住むことになったのでした。
 バスとトイレは相変わらずに共用でした。しかし、ワンランクアップしての生活で、安くて、始めてのロンドン一人部屋での快適生活でした。

 タミちゃんはイギリスでフラワーアレンジメントを勉強する為に来ていて、その後も色々アドヴァイスしてくれて良い友達でした。会いたいと思いますが、今も何処かでその仕事をしていると思います。
(どなたかご存知でしたら知らせて下さい。)
 皆、お金が無かったのか、全く知らないただ彼女の友人と言うだけで、名前をツトムと言いましたが、一晩泊めたことがあります。一つのベッドしかないので、彼に床の上で寝てもらいましたが、私のオーバーコートを掛け布団にして寝ました。(若い時は名前も覚えているのにビックリ)夜露をしのげるだけで感謝してもらいました(と思っています)。そして、皆それが、当たり前の生活を送っていました。

 イタリア人のお姉さん一行がロンドン見物に来たのもその頃でした。私の友人のアンナにお姉さん(アンジェラ)とその友が訪れてきました。
 アンナは全くのイタリア人で、将来大阪のおばはんになる、そんな人でした。料理は上手で彼女の作ったピザは、生地が厚手でそれは美味しいものでした。これがピザだと思っていたけので、ニューヨークでみた大きな薄いピザにはビックリしたものです。

 その彼女日本が、良いと言うのでした、何故かと言うと床に食べ物を落としても土になるか豚の餌になると思っていたのでした。何を言ってるのか分かりませんでしたが、良く考えて見ると、彼女は日本と東南アジアが一緒だとの認識で、高床式住宅であって、床は畳みを粗い竹の様なものを考えていた様なのです。日本に関しての知識はその程度でした。

 ウィンザーに行った時は、そのガード守衛を見て、日本人がいるというではありませんか?どう見てもニュジィランドから来たと思われる色の浅黒い色い人を指して、日本人と言いました。そう信じていました。その彼は今でも不思議に良く覚えています。

 妹と違いお姉さんは大人しい人で、ロンドンで見た強烈でセクシャルなミュジカル’オオカルカッタの舞台を見て驚いたそんな人でした(私も驚いた)。凄く落ち着いて素晴らしい人でした。その町フィレンツオーラを訪ねて行った事がありました。
 
 フィレンツェの小さなホテルに泊って、直ぐにフロントに住所を見せて、どう行ったらいいかと聞きました。
 その住所ならヴェニスに違いないと言うではありませんか。ヴェニス?そんな筈は無いと思いましたが、住所の中にC´この様な書き方をするので間違い無いとの答えでした。 もう一度良く見せると、フィレンツオーラならここからバスに乗って行く必要があると教えてくれました。初めてフィレンツオーラがフィレンツェと違うと分かったのでした。 言われた通り路線バスで行きました。

 そもそもフィレンツオーラとは、フィレンツェ、フローレンスの現地言葉だと思っていたのでした。全く違うのは、アンナが日本を東南アジアの国と間違っていたのと、余り変わらないと思ったのでした。

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読んでくれている人へ! m(_ _)m 付き合ってくれて感謝します。ここしばらく仕事で今日は一月ぶりの休みと言う生活を送っている為に、このブログも週に1回しかアップできません。
メモも何も無しに書いていますので記憶は当てにならないけど、昨日の事より確かです
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