旅、思いで思い出し           何も知らずに旅にでた!

昔ズート昔、旅をした。何も知らない私が、若かった,若いだけだった!
半世紀前の事....

161 歩き

2010-07-31 19:46:51 | 日記
初めてのアメリカで覚えている事は、ニューオリンズからテキサス州ダラスに行き(申し訳無いですが、途中の事は思い出せません。綺麗さっぱり忘れています。)、先ずビックリした事が、公衆電話がどれもプッシュフォンであった事でした。

 今や皆が携帯ですから、その驚きを知るのが難しいですが、その時はまだまだ日本が遅れていて、その頃は日本の社会ではプシュフォンが一般でない時に、総ての公衆電話が全部それになっていたのには驚いた訳です。これまでのアメリカの都市では気が着きませんでした。

取りあえずアメリカは進んでいると思いました。何を言っているのかと、今思うとそんな事は遠い昔の事と思うでしょうが、その時の驚きは想像以上でした。勿論、欧州ではプッシュフォン見かけませんでした。未開の国から初めて文明に触れた気持ちでした。

 同じ電話のファクスにしても、初めて見たのがマックウィンの映画で‘Get Away’確かシカゴから犯人の写真を電話で送ったのを見て驚いたのを思い出します。凄いと思う、この感覚は分からないと思いますが、映画の内容よりも良く覚えています。こんな時代だから、ホンダもアメリカ人が作った車だと信じられているはずでした。
 
 それと、どの人が警察官かと思うほど色々な制服着た人が、みんな腰に拳銃をさげていたのにも驚いた訳です。ガードマンの様な人迄、その時思ったのは、今まで、銃を人前でそんなに簡単に持っているのには出会った事が無かったので新鮮?でした。

 それとトイレですが、デンマークで一度に2人使えるトイレ、オランダで水を出すバーが見つからない、イタリアで足元みんな流れるトイレ、ソ連では紙が流れるかなと思うほど硬い紙等を経験してきましたが、ここでは足が届かないと言う物で、座るとつま先立ちになると言う、まあ大きな人ばかりでありました。未だに、日本で同じ様な高いトイレを家に設置しようとしてもありませんでした。
トイレの会社に勤めている人がいたら会社に構造よりも、背が高い人に合うトイレを水洗(推薦)したら受けると思います。今や日本人も背だけは高くなって、これはパテント料下さいm(_ _)m。

 ダラスから北へ上り、何故アマリロに行ったのか分からないですが、多分ルート上この道を選んだのでしょう、同じTexas州 ですが雪が積もっていてその町を歩いたのを覚えています。
大体アメリカの町を歩くのが間違っていたのでした。しかし、歩く以外に移動の方法が無かったので仕方ありませんでした。車無しで、どれだけアメリカを知る事ができたか分かりませんが取あえず、良く歩いたと思います。
 アメリカでは歩いて何分なんて言葉は無いのです。誰に聞いても、何処でも歩いて20分。つまりアメリカ人が考えているのが、車で5分だから歩いて20分である。今になって、この聞き方が間違っていると言うか、この言い方は無いと思うのです。5分もアメリカで車を走らせたら??何処までいけます。殆どのアメリカ人は歩かない事が分かったのです。何時も最低で40分は歩きました。

その町でスキーのブーツを買う為に歩いてスポーツショップを探し歩いたのでした。馬鹿ですね田舎の方が安く買えると思って、探していたのでした。結局、目的のラングのブーツを買いました。
 ところでラングはアメリカ製ですよね?
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160 クリスマス

2010-07-24 19:38:34 | 日記
 お世話になったMrs.シモノウのご両親の家は、映画TVで見るアメリカの普通の家で、前に芝生があって確か平屋であったと思います。そのアメリカの一般の普通の家で、一番印象に残っている事が、普通の家を繰り返しましたが、なんと拳銃を見せてくれた事です。 

 そのピストルがごく普通にある押入れの中の、私も手が届く所にあったのです。兎に角、ただただビックリの当たり前の事でようでした。今までの人生で初めてピストルを身近に見ました。
(その後も、アメリカは何度も行っていますが、拳銃を見せて貰ったのはその時だけです。)

欧州(勿論日本)では考えられないでした。本当に無造作にピストルを見せてくれました。アメリカを感じた瞬間でした。(今思い出しましたが、小学生の時に二条城に自衛隊がやって来て、本物の大砲やライフルを触らしてくれた事があって、兄がそれでけがをした事を誇らしげに言っていた事がありました。思い出、色々とあります。思い出さなくては!)取りあえず、そんな家でした。
 
その家でのクリスマスは日本の正月に似ていると言うのか、Mrs.シモノウの家がまさにその通り親戚中が一同に集まってお祝いすると言うものでした。(しかし、クリスチャンの家に来て全く教会に行った覚えがありません。忘れたのか、本当に行っていないのか?分かりません。)

 時間と行く場所を決めてない、きままな旅(一応東から西)ですから、どうしてこうなったか忘れてしまって知りませんが、その集まりの親戚のお宅に泊まることになったのでした。
親戚から、次の親戚へとエスコート付きでバトンタッチ、車で送って貰いました。つまり渡り泊まりになったのでした。私はついています、めぐり会う人皆に有難う。しかし、またまた人任せでした。 本当に私は身軽で、気楽で、厚かましくて、今思うと良くそんな事ができたなと思います。その中で、覚えているのが、McCombと言う所です。
 ちょうどラジオで、McCombと言う所が、Deep South として笑い話で紹介されていたので良く覚えています。このラジオ番組が無かったら何処に行ったのかもしれません。
 ルイジアナから55線をミシシピー州に入った所でした。(今、地図で何処にあるか分かりました。実際こんな所に行ったのは今回知りました。マッコンブと其れだけ覚えていました。)

町は小さく、そこの、お婆さんにホンダは日本で作っているけど、アメリカの車と自信を持って断言して言われたのでした。
その自信に押されて、言い返せなかったのです。多分アメ車?その時、車だったかバイクだったか忘れましたが、こんないい車は日本人が作れるはずが無いと言う事でした。思わずそうかと思うほど自信を持って言われました。この時期は、そうやって、日本車が出て行った初めの頃だったのでした。 

 もう一ヶ所覚えているのは、若い夫婦の家で、連れて行って貰ったのが、レコーディングする所でした。ゴールデンレコードが何枚もあり、スタジオの中も見せて貰ったのでした。
 そこで、日本人は太った人がいないねと言われて、私の大兄は、貴方と同じ位太っていると言って、そこの皆に笑われた事を思い出します。
 私は、日本人でも大きいと思ったのですが、その大兄の4倍も大きいのがアメリカ人の言う大きい人でした。今まで、そんな大きな人間を見ていなかったですが、これからの旅で実感する事になりました。

 どうも、印象ある事は覚えていますが、見事にかなりの所を忘れて、これだけお世話になった人達には申し訳なく思っています。

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159 ニューオーリンズ 名誉市民

2010-07-17 06:21:22 | 日記
 ニューオーリンズ最初の夜は大変良く眠れました、今までで生涯で一番良く寝たと思います。そして目覚め最高と思われるほどシモノウさんの家で寝られた事を思い出しました。このアメリカで色々あって疲れていたのでしょう、とにかく安心できる自分の知っている家に着いて自分の家以上に最高に良く眠れました。

 ニューオリンズの領事館でパスポートの再発行を依頼した後、観光に出掛けたのでした。パスポートはその後、無事に手に入りましたが、青のボールペンでサインする等実に好い加減でした。と言う訳でパスポートの発行地はニューオーリンズとなった訳でした。

 町にはかなり大きめのフェリーで行きましたが、乗ったのは覚えていますが、自分一人で毎日乗って町迄行ったのを覚えています。フェリーの乗り場等、どうしても思い出せません。どうも、もの忘れが多いです。
 町は珍しいものが一杯でしたが、多くの場合シモノウさんの案内付きでした。その中で忘れ得ない食べ物が、四角いドーナツ(大阪の江坂でその後、販売ベニエが買える様になった)が確か教会の斜め前、フレンチクォターの入り口にあったと思います、ポボーイ(poor boyバゲットで貧しい子供が、昔食べていたと言うサンドウィチ)そして、牡蠣、特別に日本でその英語を覚えた曰くづきの物、取り合えず嫌いでオイスターは英語で最初に覚えた食べもの、それ程嫌いでした。

 今なら一杯食べたのに、何でもトライしたのですが、これだけは頂けなかったです。好き嫌いが激しかったので残念でした。この旅行に出て、取り合えず嫌いと言えなく無くなったはずなのに食べられませんでした。(考えて見ると今は好きで食べられるチーズも嫌いだったし、一杯嫌いなものが沢山あったのでした。)今は、食べられずに、損をしたと思っています。私の標準語と同じで、自分では話しているつもりなのに?!

 これ程牡蠣が嫌いでも、なんと名誉市民になれたのでした。名誉市民になったのは、何にも、パスポートが盗られてニューオリンズで交付する訳ではありません(そう信じている人がいます)。勿論、市長のサイン等が入った本物でした。

本当を申せば、Mrs.シモノウのお母さんが名誉市民章を発行する市役所に勤務していたのでした。お母さんが市民の鍵は幾ついるかと聞かれて、兄姉が私を入れて4人ですから4つ下さいと遠慮がちに言って貰った事を思い出します。今なら10は必要と言ったのにその時は可愛かったと思います。

 そんな訳で本当の名誉市民です。ラスベガスで美空ひばりさんが名誉市民になったのは、それから1年の後であった事を報告しておきます。
 ひばりさんはこの旅行の前迄、大嫌いでしたが、今は大好きです。都はるみも嫌いでしたが、京都会館に今は亡き姉とはるみを聞きに行って、おじさんがはるみはるみと大声を出していた事思い出します。最近のはるみは好きでないです。ちあき なおみが良い、いつものように幕が開き、お母さんが好きでした。矢切の渡しが細川に取られたけれど、彼女の方が素晴らしい。

 話しを戻して、やっぱり、外国にいると日本を第3者として見るから、やっぱり趣味も変わるものですね。いろいろ日本的な物が分かり、好きになるのですね。
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158 How do you do?

2010-07-10 20:24:23 | 日記
 ワシントンを一応観光してからニューオリンズ迄、またまたバスで行きました。アメリカでのヒッチハイクは、さすがに危なくてできませんでした、というより日本にいる時から考えていました。

 ちょうど、クリスマスシーズンと言う事で、乗った夜行バスは超満員でした。一人私の斜め前の人が、自分の前の人がリクライニングしようとしてその人が6フィ-ト以上あって背が高いのでその断りを入れていた事を思い出します。特別背の高い人がバスに乗るにはスペースが十分無かったのでした。

  日本のバスだったら乗れないし、日本人の倍以上程ある重い人はどうしたのでしょうか? (今、カルチャーショックを受けるのはアメリカでどの店でも女性の肌着を売っている所でパンティがぶら下げてあるのを見て、私の両足が片方に入るのを見てショックを受け、それをはけそうな女性が常に後ろにいる時でした。日本人も最近大柄化していますが、異常に米国人は大きいです。デンークの人も大きいですが、大きさが違います)

その途中の事、着いてからの事、何も覚えていません。ただ、知人のMrs.シモノウの実家に厚かましくも(その時は厚かましいと思っていなかったです)いつもの如くお世話になりました。

シモノウさんは京都で私が日本語を教えていて、教会に音楽を教えに来たのですが、京都弁と知らずに私が話す言葉を標準語として教えていましたから、ご本人は今思うと迷惑だったけれど、私の京都弁を習った事は、良かったと思います?
  私はこの旅行で標準語を覚えた(つもり)のですので、その時は、一般に通じる京都弁を習えたのですから、今(現在は標準語を話す?)では話せない言葉ですから、良かったとすべきでした。
ただ、教師としてアルバイト料を頂いたのが、申し訳ないと思っています(滅茶します)。
 北白川通りを少し入った、比叡山に抜ける右手にありましたが、京都の外れと私は思っていましたが(狭い地球感でした)、今は、銀閣寺等比較的に街中ですが、さすがアメリカ人で、素晴らしい家に住んでいました。
 帰ってから、日本語を国際学校で職業として教えるつもりで面接まで行った事を思い出します。ただ、当時は説明を受けて教師で食べていけないと分かり残念ながら止めました。

 その家のお父さんですが、まるっきりの南部訛りのきつい米語を話す人でした。毎朝顔を会わす度にHow do you do? と言うのではありませんか。昨日あった所なのに忘れたと思っていましたが流石に何日も言われるとHow are you?と聞いていると分かったのでした。それ以外に言うのがゆっくりしていて、京都の私が言うのも可笑しいですが、例えば、ハウ(2秒あけて)ドユ(2秒あけて)ドウ この様な言い方でした。
 これが、冬とは言え車の中は眠くなるほど暖かくて、そこでyesと言われると眠さを誘う言葉で、いぁー(暫くして) いぁー と言う言葉が耳に残っています。

 これはロンドンで見た、オオカルカッタのミュジカルで米国南部の場面で、ロッキングチェアで如何にもだるそうに いぁー いぁー と言っていたのと同じでした。それが、良く分かり本当に驚くほどノンビリしていたのでした。

 着くと先ず、早速日本領事館に、パスポートの再発行をしに行かなければなりませんでした。

 
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157 怖いアメリカ

2010-07-03 09:01:54 | 日記
 ニューヨークからワシントン迄、バスで行きました。その時、生まれて初めてトイレ付きであった為に、前の方の席に座っていたのですが 勿論どんなものか利用したのでした。 

 当時は日本のバスにトイレ付きのは無かったと思いますが、何しろ就学旅行以外に京都を出た事がありませんので、限られた情報しか無かったです。多分無かったです。 

 私の席は3列目位で、客は少なくて、そこやあそこに総てで、私も入れて5人程でガラガラでした。暫くして早速一番後ろにあるトイレを使いました。当然ながら、今思えば少し狭めだけど、普通のトイレでした。

 ワシントンに着き、YMCAにチェックインしようとパスポートを探して見ると無いのでした。常に身から離さないつもりで、バッグインバッグと言うか、ポッシェトと言うべき小さなショルダーをカバンの中に入れて(このショルダーにも良いバックが好きでした)、チャックをせずに緊急用にご丁寧にもパスポートと300ドル(当時10万円程)入れていたのを、バスでトイレに立った間に盗られたでした。

 我ながらなんと間の抜けた事をした事やら、アメリカを怖さを思い知らされて、欧州では無いアメリカの洗礼を受けたのでした。しかし、パスポートは諦め切れ無かったでした。

 常に気を付けていたのですが、僅か4人しかいないバスで一番近い人で私の3列後ろでした。それも、女性でしたから軽い気持ちで安心していたのでした。今まで行った国々の入出国のスタンプも思い出と、何もかも盗られたのでショックは計り知れないのでした。幸い、他の現金は別に持っていたのですが、自分の間抜けさに憤懣と何もやる気が起きなかったのでした。緊急の金がこんな風に使うとは、夢にも思わなかったでした。

 ここまで、長い間旅を続けていて、一応旅のベテランと思っていた自分が情け無いと途方にくれたのでした。

 幸いにYMCAのおばさんが親切な人で、警察を呼んでくれて対応したのですが、もうどうし様もありません。調書を取られましたが、パスポートだけでも捨ててくれたらと淡い考えを持ちました。

 親切にも、そのおばさんは困ったらここに電話するようにと自分の名前を書いてくれました。その時は、親切な人とだけ思っていましたが、今思うと、如何に落ち込んでいたか分かります。

 結局、当然な事ですが、パスポートは出て来なかったのでした。取りあえず、京都でお世話になった人のいる、そして日本領事館のあるニューオーリンズへ行く事にしました。
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