旅、思いで思い出し           何も知らずに旅にでた!

昔ズート昔、旅をした。何も知らない私が、若かった,若いだけだった!
半世紀前の事....

378 ‘たった一人のオリンピック’          (毎週土曜日更新)

2014-08-30 04:54:37 | 日記
 昔、名古屋の旅行社にラクロスの選手だった女性がいました。彼女と会うまでラクロスとは良く知りませんでした。それはクロスと呼ばれる先に網の付いたスティックを用いて、直径6cm・重さ150gの硬質ゴム 製のボールを奪い合い、相手陣のゴールに入れることで得点を競う、漢字を当てて棒 網球と表記されるそうです。

 J1が出来る前、ワールドカップとは、それ程出るのに大変なものだと知りませんでした。そのワールドカップに出るために頑張っていると言っていました。当時はまだ日本にラクロスをやるチームが少なく、そもそもそんなマイナーな競技をするのは日本代表になりやすいからだと言っていました。
 
 ラクロスを知るより前に、私よりも少し若くて、普通の学生が23歳になって突然、ラクロスをやった彼女と同じようにオリンピックを目指した人がいました。世の中面白いユニークな人がいるもので‘スローカーブを、もう一球’(山際淳司 著)の中で‘たった一人のオリンピック’として書かれています。皆さん読んでいるとは思えないので紹介したいと思います。

時はモントリオール オリンピック迄1年半、普通の男が、まだ間に合うと冗談ではなく思ったそうです。選手にもなっていない人が‘まだ1年半’とは考えられないです。

 勿論、出るからには団体競技では無くマイナーな競技を探しました。ヨット、アーチェリー、自転車これは選手層が厚いからと、そして思いついたのが、ボートでした。高校の時に、ボート部があって都内に8校しかないこと、それに手、腕より足が大事だと聞いていたのです。足ならサッカーをやっていたので自信があったそうです。

 「図解ローリング」と言う本一冊が頼りという状態で、自分の手持ちのものを売って、ボートを買うことから始めました。しかし、ボートはナカナカでき上がらず、協会の人が1艘100万円もするボートを貸してくれたのです。そして、コースをちょっと漕いだだけで3回転覆、カヌーと違って1度転覆するとその場で起こせなく、岸まで押していったということです。
 そうあるべきと思いますが、協会の人は、ボートが壊されなかったかと、そればかり気にしていたそうです。こんなので普通の人がオリンピックに出られるのか、自分で考えてボートの改造に取り掛かったのでした。

 やっぱり才能があったのか翌年、‘お花見レガッタ’で初優勝、しかし協会は種目違いをモントリオールに送りました。彼は諦めずに、次のモスクワを目指すことになったのです。

 その年の、9月の佐賀国体で優勝したのを皮切りに、11月全日本選手権も制しほぼ2年間で18連勝を飾ることになってのです。どこにも所属していないので、コーチ無し、そしてアルバイトでどうにかやっていきました。そして、とうとうモスクワのオリンピック選手に選ばれました。その大会に日本が参加しなかった事はご存知の通りです。

 23歳になってから誰の為にやる訳でなく、自分の為だけに目標に向かう、それがカナッタ(実際は日本はオリンピックに不参加)と言うところに何かロマンがあると思いましたので紹介しました。

 オリンピックは無理でも、‘何かをやらなくては’と、年とは関係無く考えるだけでもいいではありませんか?
 
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377 大阪商店街  (毎週土曜日更新)

2014-08-23 04:39:08 | 思い出日記
 蕎麦といえば神田の「砂場」、そこで一度はやった見たかった通人の如く、それも小説や映画で見たように昼からお酒を銚子いれて一人飲んでいた懐かしい事を思い出します。でも東京のものと思っていたら大阪に起源がありました。佃煮も大阪の佃からと大阪からのものが東京にも意外に多くあります。

 大阪でさえもそうで、なんでも東京になっています。成田に住んだ時、地方の事にあまり感心が無かったでした。そして、オリンピックが東京で開催ニュースを見ていて、これ以上人口が増えて世界のアスリーストが集まって、仮に関東に大震災が起きたらどうなるかと心配になって来ました。心配しても仕方なく、ますます東京1局集中が進んで、地方の町が無くなるということに、政治家はもっと対策をとるべきだと思うのです。

 大阪も南海トラフで梅田が水浸しになるといってテレビ等で騒がしいですが、大阪フロント、アベノはるかす等、益々大きな建物ができてます。そうなると震災は他人事、戦後30年程で、現在世界有数の国にになった経済力で震災が起きて大丈夫なんでしょうか、大変心配します。

 そんな中、少し前になりますが(どれ位前か、聞かないように少しです)久々に日本一長い天満橋商店街を通って「大阪はまちがほんまにおもしろい」茶谷 孝治さん口演に顔を出してきました。
 口演は長崎の町で成功した町歩きと比較して、10人程の人と廻る「大阪さんぽ」を紹介、これほど歩くのに良い町は無いと言うものでした。その中で江戸と上方を比較して、大江戸は侍と僧侶で大半を占めたという事で、侍の町といえます。大阪は天領であって、侍は少なく町人の町として比較的に自由に展開してきたそうです。
  
 唯一毎週見ている大阪ニューステン、水曜日の街角トレジャーに出てきますが、どの商店街もシャッターで閉じられた店が多くなっています。ここで改めて天満商店街を通って、人の多さにビックリしました。今どきの商店街というと、どこも寂れているのに、ここは別世界、そのような事は関係無いかの如く人、人がいっぱいでした。その中で中国人と思われる団体観光客、良くこんな場所を中国の観光客の為に見つけて観光コースにしたなと思います。そのアイデア、商魂に驚かされます。

 当日口演に誘った方は、年齢から言うと学生の頃というと、かれこれ今から55年以上程前になりますが、もっと人が多かったと、この混雑状態で無かったと聞きました。裏通りも歩き、大阪を十分に満喫しました。繁華街梅田までも1,2駅と近いのに、どこから人が来るのやら、商店街もやりようにやったら成功するのですが、とりあえず人の多さに圧倒されました。
 
 口演後、その日の下見充分の安い居酒屋で一杯飲みましたが、女性客が多いのに驚きました。驚く事ばかりで、まして親子づれもいてまだ早いのにお店は混雑していました。
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376 思い出 -大兄

2014-08-16 03:41:09 | 思い出日記
 兄はアマチア野球界ではちょっと有名でした。高校、大学の野球部のキャプテンをしていて、審判資格も取っていました。そして野球部員わずか15名の立命館高校の監督として甲子園にも連れて行きました。一年間の野球部のクラブ活動費が学校から僅か60万円と破格に安いクラブでした。ボールを買う金も無く、自分で買ったゴルフボールを練習に使っていたと言っていました。
時代の流れもあったけれど、我が家を手放さざるを得なかったのは、野球道楽のせいと諦めています。自分のやりたいことをやった、家族にも愛された兄は幸せだったと思います。

 私がまだ野球のやも分からない時に、兄自身が甲子園に行って、母が一生懸命に仏壇の前で祈っていた事を思い出します。後から聞いたのですが、ランナーを進塁させる為に1塁手のタッチをさけてキャッチャに向けて逆走したと言っていました。野球は良く知る兄で、当時は新鮮なプレイだったと思います。まさに記録に残らない好プレイと言えます。復帰前の沖縄に船で全国高校生野球チームの一員として行き、広島でプレイして鉄人と言われた衣笠選手も挨拶しました。その兄も部員を殴ったと新聞に載って、それが理由で野球を止めたと後で親戚の人から聞きました。

 当時、当然家にテレビがありませんでしたから、小学校の低学年だったと思いますが、兄の甲子園での戦いを向かいの家でテレビを見た光景を覚えています。当時、その家族は誰も行っていない欧州旅行をしたり、その家一軒だけ水洗トイレを使っていたことは前にこの場で言いましたが、考えてみれば、その家は超、金持ちでした。
 ある銀行に勤めていた高校の友人が、その家に預金をお願いしにいって断られた後、向かいに住む私と友達だと言うと、直ぐに口座を開いてくれたそうです。同窓会で会った時に、その友人が私の名を出して悪かったと謝ってきました。

 父親に連れられて兄の出ている大学野球を見に行ったのが、何処か分からないですが、土手で囲まれた御所みたいな所を、その光景だけ良く覚えています。我が家の社会人野球グループでサードを守って、他の人は覚えていないけど一人華麗なプレイしていた事、何でもその光景の一部だけで、殆ど記憶にありません。

 学生時代、新車のワーゲン シロッコをタワシで洗って傷だらけにした時も、怒らなかった兄。殆ど、昔の思い出はフラッシュバックというか、私の場合写真の切れ端程度のものしか頭に残っていないのです。その兄もいなくなり、世の中、移り変わりが凄く速いです。

 火事で総てのものが無くなった友人がいますが、燃えて無くなった物は仕方ないと最近になって思います。生き残って命あっての珠ものです。そして懐かしい思い出はこうして心に残るものです。それも総て一代限りで終わりです。

 私の場合、死んでしまったら邪魔になるものが総てです。今日も片付けをしなくては...
 
 
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375 一期一会 Ⅱ -8月15日

2014-08-09 04:04:36 | 思い出日記
 It is called‘once-in-a-lifetime chance’一期一会がⅡとは、意味が分かっていないと思わないで下さい。チャンスは一度だけ、毎日とか今さっき会っていた人と、もう二度と会わなくなってしまう。一回きり、年とともに、そんな人が沢山いるのを意識し始めて、その意味合いが切実になってきました。

 遠くにいて死に目に会えず、やっと一年して、お骨納めの日に骨になった父親に会いました。父親の死を遠く離れたところで聞いたのが一番悲しかったです。母が、半年後に亡くなるとは思っていませんから、帰ってから直ぐに母に‘お父さんに一番会いたかった’と言った事を未だに非常に悔いています。

 母の死は、鮮烈に覚えています。本人は意識無く脳死状態で、家族が生命維持装置の電源を切って下さいと言い、暖かな手を握っていると、数秒で冷たくなってしまったのが最後でした。本当に一秒即座、人間生きている時と死が、その時程強烈に分かる事を知りました。2人とも最後の言葉を聞かずに亡くなってしまったのでした。

 そして姉さんの時は、入院中に見舞いに行って‘頑張るんやで’と言った時に、うなずいたのが最後の別れになりました。

 兄の入院中、もう二度と会うことは無いと分かっていました。悲しすぎて、泣いてはいけないと思い、何かを話さ無ければと思いました。その場は2人きりでしたから、結局、早めに義姉さんが来てくれて助かってのです。そして、それが最後の別れになりました。
 葬儀と納骨の時の兄の孫達のはしゃぎ方を見て、私の父親の納骨の時の写真に写る彼らの親(甥)達に見せました。その姿が、甥たちが丁度同じ年頃といい、全くあの時と同じだと思いました。あれだけお祖父さん(父)に可愛がって貰ったのにマルッキリ覚えていなっかたのでした。そんなもんだと思いました。

 4者4様で死に方には色々ありましたが、過ぎ行く時は残酷で、今は悲しかった事を忘れて良い思い出ばかり思うようになってきました。長らく病気患いしていた兄は、今でも生きているようです。特に、いやでしたが、小学校の参観日に大学生であった兄が学生服で来たり、布団に入ってインディアン襲撃の話をしてくれた事、庭の雀を空気銃で、料理上手な兄に美味しく焼き鳥を食べさせてくれて事、署名サインと野球のサインの仕方を教えてくれた事等を色々思い出します。
 
 色々な別れがありますが、まさに、これからは毎日、毎時‘一期一会’です。結局、私にとっては最後の言葉を交わしても、交わさなくても、同じ事でした。自分が死に臨んでその立場になって見なければ、最終的にその気持ちは分からないということになります。多分、同じ事だと思っています。

 考える事無く死んでしまう、そんな突然死、その方が自分にとっては幸せかも知れないです。8月15日は父親の誕生日、色々と思い出しました。
  
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374 ファミレス - 若い貴方も...

2014-08-02 03:01:30 | 日記
 「遠くの身内より、近くの他人」その言葉が無くなってしまい、遠くにも近くにも身内がいない、一人住まいの人が増えてきたのです。ますます近くの他人を頼らなくてはならないです。身寄りの無い高齢者が世にあふれ、家族がいない時代が直ぐそこにやってきています。
familylessつまりファミレスとは家族がいない、子供も孫もいないと言う事ですが、外国はどうか知らないですが、日本人は上手く面白く言葉を創ると思います。

 そんな事に感心や驚いていられないのが、今や4人に1人が65歳以上と言う時代になりました。長寿世界1を誇っていたら、そのことが問題になっています。戦前なら高齢になる前に亡くなってたのに、70年頃から高齢化、介護が問題化したそうです。政治家は将来人口が減る事は、経済力が弱くなるから、少子化を心配しています。それはそれです、我々にとっては直ぐあるファミレス社会は大問題になってきました。

 責任の無い時代の20年30年先の事を想定して、直ぐ先に結果が直ぐ結果がでる問題を後回しにする日本の政治家が沢山出てきいます。原発でも代替を3年前に今の現状を想定して、電力不足をどうするか議論すれば、新しいものに取り掛かっていたと考えます。結果が出る前、何年かは辛抱しようと思うのですが、憲法の解釈の方が先になります。その場シノギの日本人は、毎年、夏を冬を越せれば良いと、我々のエコ対策に頼らなくてはいけなくなるのです。長くなり愚痴になりますから止めます。

 家族制度があった時代、その老齢者の長男の嫁に総てを押し付けて世間も当然と思っていました。介護保険ができましたが、それも当てにできずに家族に一定の負担を強いています。ところが夫婦共働きが多くあり、7割の老人が昼間一人で過ごしているそうです。介護離職もやむなくなってきています。

 健康寿命と平均寿命の差は約10年、多くの人が人生の10年間はだれかの支えが必要です。それをどう乗り切るか、どう面倒見るかと言う事が、大問題になってきているといえます。

 今の50代の人は少子化と独身化の最先端にいます。50歳代の男性の5人に1人、女性の9人に1人が未婚だと評論家の樋口恵子さんは警笛をならしています。だから、働けるうちは働かないと駄目なのです。

 日本は介護休業制度の対象を親族の一部と限っていますが、福祉国家であるスウェーデンは友人でも介護を受ける人の承認があれば認められ、80%の所得保障もあると言う事です。まさに「近くの他人」です。この法律ができて、素晴らしくなったら良いのですが、日本の場合、これを悪用する人間が出て来るのが確実です。まず、その心配前に何かをしなくてはいけないです。
 
 隣の人がどんな人間かも分からない「近くの他人」もあてにできない現状があります。日々の生活に追われている私は、日本の政治家と同じように、30年先(多分、確実に死んでいます)の事を考える余裕がありません。
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