昔、名古屋の旅行社にラクロスの選手だった女性がいました。彼女と会うまでラクロスとは良く知りませんでした。それはクロスと呼ばれる先に網の付いたスティックを用いて、直径6cm・重さ150gの硬質ゴム 製のボールを奪い合い、相手陣のゴールに入れることで得点を競う、漢字を当てて棒 網球と表記されるそうです。
J1が出来る前、ワールドカップとは、それ程出るのに大変なものだと知りませんでした。そのワールドカップに出るために頑張っていると言っていました。当時はまだ日本にラクロスをやるチームが少なく、そもそもそんなマイナーな競技をするのは日本代表になりやすいからだと言っていました。
ラクロスを知るより前に、私よりも少し若くて、普通の学生が23歳になって突然、ラクロスをやった彼女と同じようにオリンピックを目指した人がいました。世の中面白いユニークな人がいるもので‘スローカーブを、もう一球’(山際淳司 著)の中で‘たった一人のオリンピック’として書かれています。皆さん読んでいるとは思えないので紹介したいと思います。
時はモントリオール オリンピック迄1年半、普通の男が、まだ間に合うと冗談ではなく思ったそうです。選手にもなっていない人が‘まだ1年半’とは考えられないです。
勿論、出るからには団体競技では無くマイナーな競技を探しました。ヨット、アーチェリー、自転車これは選手層が厚いからと、そして思いついたのが、ボートでした。高校の時に、ボート部があって都内に8校しかないこと、それに手、腕より足が大事だと聞いていたのです。足ならサッカーをやっていたので自信があったそうです。
「図解ローリング」と言う本一冊が頼りという状態で、自分の手持ちのものを売って、ボートを買うことから始めました。しかし、ボートはナカナカでき上がらず、協会の人が1艘100万円もするボートを貸してくれたのです。そして、コースをちょっと漕いだだけで3回転覆、カヌーと違って1度転覆するとその場で起こせなく、岸まで押していったということです。
そうあるべきと思いますが、協会の人は、ボートが壊されなかったかと、そればかり気にしていたそうです。こんなので普通の人がオリンピックに出られるのか、自分で考えてボートの改造に取り掛かったのでした。
やっぱり才能があったのか翌年、‘お花見レガッタ’で初優勝、しかし協会は種目違いをモントリオールに送りました。彼は諦めずに、次のモスクワを目指すことになったのです。
その年の、9月の佐賀国体で優勝したのを皮切りに、11月全日本選手権も制しほぼ2年間で18連勝を飾ることになってのです。どこにも所属していないので、コーチ無し、そしてアルバイトでどうにかやっていきました。そして、とうとうモスクワのオリンピック選手に選ばれました。その大会に日本が参加しなかった事はご存知の通りです。
23歳になってから誰の為にやる訳でなく、自分の為だけに目標に向かう、それがカナッタ(実際は日本はオリンピックに不参加)と言うところに何かロマンがあると思いましたので紹介しました。
オリンピックは無理でも、‘何かをやらなくては’と、年とは関係無く考えるだけでもいいではありませんか?
J1が出来る前、ワールドカップとは、それ程出るのに大変なものだと知りませんでした。そのワールドカップに出るために頑張っていると言っていました。当時はまだ日本にラクロスをやるチームが少なく、そもそもそんなマイナーな競技をするのは日本代表になりやすいからだと言っていました。
ラクロスを知るより前に、私よりも少し若くて、普通の学生が23歳になって突然、ラクロスをやった彼女と同じようにオリンピックを目指した人がいました。世の中面白いユニークな人がいるもので‘スローカーブを、もう一球’(山際淳司 著)の中で‘たった一人のオリンピック’として書かれています。皆さん読んでいるとは思えないので紹介したいと思います。
時はモントリオール オリンピック迄1年半、普通の男が、まだ間に合うと冗談ではなく思ったそうです。選手にもなっていない人が‘まだ1年半’とは考えられないです。
勿論、出るからには団体競技では無くマイナーな競技を探しました。ヨット、アーチェリー、自転車これは選手層が厚いからと、そして思いついたのが、ボートでした。高校の時に、ボート部があって都内に8校しかないこと、それに手、腕より足が大事だと聞いていたのです。足ならサッカーをやっていたので自信があったそうです。
「図解ローリング」と言う本一冊が頼りという状態で、自分の手持ちのものを売って、ボートを買うことから始めました。しかし、ボートはナカナカでき上がらず、協会の人が1艘100万円もするボートを貸してくれたのです。そして、コースをちょっと漕いだだけで3回転覆、カヌーと違って1度転覆するとその場で起こせなく、岸まで押していったということです。
そうあるべきと思いますが、協会の人は、ボートが壊されなかったかと、そればかり気にしていたそうです。こんなので普通の人がオリンピックに出られるのか、自分で考えてボートの改造に取り掛かったのでした。
やっぱり才能があったのか翌年、‘お花見レガッタ’で初優勝、しかし協会は種目違いをモントリオールに送りました。彼は諦めずに、次のモスクワを目指すことになったのです。
その年の、9月の佐賀国体で優勝したのを皮切りに、11月全日本選手権も制しほぼ2年間で18連勝を飾ることになってのです。どこにも所属していないので、コーチ無し、そしてアルバイトでどうにかやっていきました。そして、とうとうモスクワのオリンピック選手に選ばれました。その大会に日本が参加しなかった事はご存知の通りです。
23歳になってから誰の為にやる訳でなく、自分の為だけに目標に向かう、それがカナッタ(実際は日本はオリンピックに不参加)と言うところに何かロマンがあると思いましたので紹介しました。
オリンピックは無理でも、‘何かをやらなくては’と、年とは関係無く考えるだけでもいいではありませんか?