旅、思いで思い出し           何も知らずに旅にでた!

昔ズート昔、旅をした。何も知らない私が、若かった,若いだけだった!
半世紀前の事....

495 高齢者(毎週土曜日に更改しています)

2016-11-26 04:03:27 | ブログ
 他人事では無くなった高齢化社会、このブログを読んでいている方達も人も順次その社会に入っていく人が多くなって来ます。これは1年前にこのブログで書いたこと事です。間違いなくもうそのなかにどっぷり入っている方、そうです、なろうと頑張らなくても生きているだけで誰でも達成、高齢者になれます。

 95歳で現役の美容師がニュースで元気良く、姿勢良くやっていました。そのTVの番組を所々をバイト先で体温を計りながら見ていました。

 日本の高齢者は、米国、ドイツ、スウェーデンの60歳以上の男女を対象にした意識調査で、友達付き合いが少ないとその傾向が明らかになったそうです。困ったときに家族以外で助け合える親しい友人は、「いいえ」回答が日本が断トツ25.9%で高く、ドイツ17.1%、米国11.9%、スウェーデン8.9%。近所の人と「病気の時に助け合う」割合は、最も高いドイツが31.9%、日本は最下位の5.9%。老後の備えを50歳まで「何もしていない」回答が私も含み日本が42.7%、次いでドイツ26.1%。現在の貯蓄や資産が老後の備えとしえ「足りない」のも日本がダントツの一番で57.0%、2位の米国が24.9%となるそうです。

 弊社の元役員は、趣味を生かして、日本では不可能な平日はダラスの路面電車の運転、週末はサンフランシスコ郊外の牧場で過ごています。このように退職後をオウ歌している方もいます。こんな風には絶対に行かないけれど、老後の備えはきっちりとした方が良いと私が私が思います。でも、今の生活もいいです。

 幸せであれば、どんな暮らし、どうでも良いのですが、他人に不快感、そして迷惑かける人がいます。一人で「もうどうでも良くなった」と言うと事で、部屋は忽ちゴミだらけとなると問題が多いです。
 これは、「ミニマリスト」を目指せば問題は解決です。しかしゴミ屋敷は認知機能の低下や精神面の変調なので生活や行動を管理できなる「セルフネグレクト」が背景にあるケースが多いとされています。その数の高齢者は最大約1万2千いるとされています。

 セルフネグレクトになった主なきっかけは、認知症、物忘れ、精神疾患が全体の28.3%、それに続き、親しい人との死別が27.5%、家族、地域からの孤立が25.4%となっています。そうならないように日々努力しています。
 
 元気だけではダメです、健康に、この高齢社会入る事にしましょう。ところで、以前この欄で紹介した103才の方は、最近の新聞に載っていましたが、93歳の産婆さんや、彼女を含めたさん(産)ばば、今どうしているのでしょう...あのように仕事ができれば幸せです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

494 代行!(毎週土曜日に更改しています)

2016-11-19 05:00:27 | ブログ
 人間は代わりは利くんだ!本当に代わりは本当にあるんでしょうか、やっぱり寂しいけれどあるものです。アップルでもスティーブ・ジョブズ氏が辞めて亡くなって心配??したけれど、結果的に会社自体は上手くやってます。

 10年以上親より長く生きていると、今までどんな立場の人の代わりはあるものと知りました。その人しかできないと思ったら、とんでも無い、あるものです。会社組織が大きくなれば成る程そういうものだと思います。そうで無ければ会社というのが成り立たなく会社自体が潰れることになります。

 紳助さんがテレビ界で牛耳っていた時、この人がいなくなったらTV番組はどうなるだろうか?と人は考えましたが、今頃、気楽に人生を楽しんでいるでしょう。それより古く欽ちゃんが一週間毎日TVに出た時も、そして今や名前も不確かなベッキーはゲスの極みだけ有名になり、時代はそれでも流れて行くものです。TⅤは、代わりはいくらでも、次から次へと誰でもありそうです。しかし、テレビの時代も終ったと私は考えています。つまり見なくなりました。

 代わりの無いもの、大事な人との別れがあります。それが両親、今や極端に少なくなった兄弟姉妹、愛する人、友でも、自分の方が先に死ぬかも知れないですが(まだまだと思っています(^^♪))いつかは別れはあるものです。今まで、考えもしなかった事ですが、年と共にその別れは増えていきます。悲しい事ですが、これは長い時が悲しみを和らげてくれます。私の場合、先が短くなりました。

 20歳歳を超えた頃、学生の時に海外にいる時、父親を亡くしました。死ぬ前に会え無かった事を悔いています。その事を言った母は、帰って暫くして、直ぐに母親入院、そして10ヶ月後に亡くなりました。死に目に会え無い悲しさ、会える悲しさ、しかし母親は脳血管障害で意識はなかったでした。こんな悲しい事も43年、時も過ぎて、悲しみを和らげてくれたのでした。今、考えるとハワイから帰って来たその日、一番幸せな時に倒れたと思っています。

 生まれた所は代わりの無いものと言えます。でも、いつまでも変わらないと思っていたら、ある日、訪れると我が家は無くなって、浦島太郎のように自分を知っている人は誰もいない寂しい思いをしました。ついこの前迄あった景色が無くなったのです。それが一瞬にして火事、地震、水害等の災害で跡形もなくなる場合もありますから、皆さんも思い出だけで済ました方が良さそうです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

493 末弟(毎週土曜日に更改しています)

2016-11-12 04:59:17 | ブログ
 30年以上前に、今ではどのような訓練をしたか受けたか忘れましたが、事故現場に行って活動することを習いました。殆ど忘れていますが、ただ一つ覚えているのが、その時に被災者に対して目線合わせる事でした。

 以前に言ったことですが、淡路大震災の時に、陛下が神戸にお見舞いに行かれた時も体育館で座っている人に、その方迄腰を落として目線を合わせられた事に感動しました。私は、習ったように、現在、お年寄り相手にベットまで膝を折って一人ずつ体温・血圧を計るようにしています。私のような一般人にとっても大変な事です。昨今、しんどいんのでやめていますが付け焼き刃でできることではありません。
 ところが先の震災の時も同じように陛下がされているのを拝見して、同じ80才代の人を介護施設で見ている身で、良くできるなと感心させられます。普通ではできない事です。もう定年を十分に過ぎています。天皇定年制あるべきだと思います。

 そればかりで無く三笠宮崇仁さまが亡くなられて、色々な経歴が紹介されています。大本営参謀に務められて、又、後方で気楽にやられていたのだと思っていました。そして上手く生き延びたな、戦犯にもならず等、不謹慎な考えを抱いていました。

 1943年から一年間、「支那派遣軍総司令」の参謀として南京に駐在され部内の将校に対する研究科の資料として書かれたことがあったのです。一般幕僚が大胆な発言をするのが難しいので、皇族である自分があえて発言されたのです。支那派遣軍は日中戦争の本質の認識や、解決への努力が足りないと指摘。満州事変、支那事変の主な原因と責任は日本現地軍にあると言われていたのです。
 軍の「略奪、強姦、良民の殺傷、放火等」中国への無理解やこれらの残虐行為に幻滅し、軍の参謀の立場にありながら反省を求める内部文書を纏められたのでした。つまり戦後なってから、戦争の罪悪性について言われたのでは無く、皇族でも当時の前線で言えない事を記録として重要な戦後をつなぐ役割を果たされたのです。

 そして戦後、現憲法の戦争法案条項を高く評価、2月11日の建国の日を戦前の「紀元節」を歴史的根拠がないと批判されたそうです。キリスト教と共産主義という二大潮流がどう成立したかを知ろうとして西洋史を学び、古代オリエント史に行きついたそうです。私ならその入り口で諦めるのに、飾り物だと思った東京芸術大学の客員教授も真面目な講義だと思います。
  
「御心」が勝手に語られ、まつりあげられた皇室が戦争の原動力になったと今信じます。亡くなるまで知らなかった..末弟と言う言葉が死語になる世の中、100歳精一杯生き抜かれたと思います。合掌

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

492 ボローニャから (毎週土曜日に更改しています)

2016-11-05 06:03:44 | ブログ
 東本願寺近くに外国からの人が殆どだという旅館「京らく」に、ボローニャから約四半期も前の友がやって来ました。イタリアの人がビックリすると言うパスタ等をゆでる場合、鍋底に入れれば湯こぼれがないと言うものをお土産に会いに行きました。それと外国の人の靴下を海外にはないと勝手に思い、5本指の靴下が面白く珍しいと思い100均で買ったものを渡しました。

 広島へ行って来た所だったので心配したけれど、今日一日歩き廻るので出発前に歩くのは大丈夫という事でした。タクシーで東山五条迄、大谷廟を、早速靴を脱いで、本堂の中に入りました。

 茶碗坂を清水寺迄上がる時の坂のきびさに、これから先が思いやられました。音羽の滝、そして殆ど観光客がいない、清水寺全景を見るのに最適のスポット、子安の塔に行きました。縁結びの神さまの地社神社に行くまで一歩通行の中を皆と反対方向に進みました。裏口で切符を舞台に上がりました。正面から入るとすぐ左にある一寸先も見えない真っ暗闇を手探りで歩いて進む胎内めぐり「随求堂(ずいくどう)」100円(税込)隠れた観光スポットです。これはお勧めです。

 参道をお店にある数々の試食品をいつものように薦め、お腹一杯になり、三年坂から八坂の塔へ。そこで塔の中で写真を撮りました。八坂庚申堂(やさかこうしんどう)の本堂前に三猿、門の屋根の上にも三猿と珍しいところを見せました。寧々の道で一休み後、知恩院の三門の上に天下の盗賊「石川五右衛門」が「絶景かな、絶景かな」と身徳を切ったことでも有名ですが、三年坂、三猿、三門、私の3のコースです。

 祇園神社から、子供の頃、どの町内にも格子戸、その雰囲気を残した新橋道。その子供の頃、家の前に珍しく観光に来ていた人に説明していた事が、応仁の乱の時、治安が乱れ格子戸と言うものができたと言っていた事を思い出します。テレビで良く見る白川のたつみ橋で結婚式を終えたカップルと写真を撮り、四条通りを、まだお店の開店には早い先斗町へと行きました。河原町通りを六角迄、新京極DAISOで買い物、勿論5本指靴下を買いました。お寺と言うに仏像を別にしてこの地域には珍しい古くショボイ一般家屋を見て、京都のキッチン錦道りでビールでひと時。

 薦められた珍竹淋とBarSibaでお好み焼きを予定してましたが、5時から京都駅近くのいつも友達と行っている高級ポイ、実際は安い「和利舘」で。イタリア人は日本人より日本人らしくワイン、瓶入りソース、2種類の大きいチーズ等。重いものばかり私の為に持って来てくれました。それと孫には服まで、夢みたいな日を過ごしました。今のところ夢ですが、フィレンツオーラへいつか行きたい。


 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする