旅、思いで思い出し           何も知らずに旅にでた!

昔ズート昔、旅をした。何も知らない私が、若かった,若いだけだった!
半世紀前の事....

113 施設の人々 

2010-01-29 19:49:08 | 日記
11月15日 曇り 一時 小雨

 昨夜遅くまで飲んだ為、良く眠れなかったのです。朝早くから目が覚めていて、スベントが皆を起こしに行く足音が聞こえた。

 6時だと言うのにエンスやクヌッドが朝食を取っていたのでした、いつも9時迄寝ている自分が凄く恥かしかったのでした。みんな、早くから働きにでるのを、遅いですが初めて知りました。

 暫らく、キッチンのリンダを手伝った後、部屋に帰り篠原氏の手紙や今までの手紙をまとめて日本に返す手続きをしたのでした。全てで、9クローネかかったのでした。

 今日こそ、これから先の事が分かるはずなので、ヤンの所に聞きに行ったのでした。しかし彼は後からと言ったきり取りあわなかったのです。彼とはこの件で、どうも話づらくて私から言いにくくなるばかりでした。向こうから、何か避けているようにも思えたのでした。

 仕方無く、オフィスで待っていると、ゲァットが入って来たのでした。彼は少し顔色が悪く興奮している様子でした。てっきり交通事故でも起こしたのかと思いましたが、窃盗で捕まったと言うではありませんか。彼は私が好きな少年の一人で、気にいっていたのに残念でありました。
 私がここを去る間際にこの様な事をなすのが、淋しく悲しい気持ちが一杯でした。14日間の収監が待っていると言うのでした。仕方が無い事ですが、その様な人間がいたとは思いたく無かったです。

 尚も待っていると、30分待つ予定が1時間以上待って、やっとヤンが言ってくれた事がクヌードサンが他の所を見つけてくれたと言うのでした。
それなら、もっと早く言ってくれて良さそうなもので、彼が何もしていないのでした。

 これで、何も決まらないなら、土屋氏のユースに世話になって方向を決めるつもりだったので、別段に何の心配もしていなかったのです。ただ、早く言ってもらいたかったです。

 夜はデンマーク語の学校にいったのですが、授業は相変わらずで、いつもの様に終わり、これなら来なくても問題無いと思ったのです。

 帰る時に、バスに乗っていると偶然にイリックに会いました。降りてから、彼の得意のいつもの様に車の話をしたのでした。
 

112 ユースでの日 

2010-01-28 21:23:38 | 日記
11月15日 晴れ

 マリアンの飛んでも無い不必要な音で目が覚めました。皆で朝食を食べているのが、分かったけれど行くのは面倒なので止めたのです。(気楽な研修生でした)

しかし、ディッテが来ているので下に降りて行くと、私の為に特別に朝食を作ってくれました。それどころか、早めの昼食も作ってくれた為に、彼女等と一緒に食べたのですが、お腹が一杯で食べられなかったのでした。友達の所に行くと言うと、お弁当迄作ってくれたのでした。

 急いで出た為に、篠原氏への手紙を忘れてしまっていたのを気付かずに出てしまったのでした。ユースの部屋に着くと、そうとう汚れた所で沖村氏が一緒懸命折り紙を折っていました。マスターに会って、彼が今日は皆を家に招待したが、一緒に来るかと行ったのでした。勿論私に異存はあるはずが無いので、皆と一緒に行くと言ったのでした。

 その後、折り紙を売りに出したのを手伝いましたが、さっぱり売れませんでした。今日は老人ホームの団体が来ていて、売るのも大変申し訳ない気がしたのでした。自分が福祉関係を勉強しているのに、こんな事をやっていいのかと思いました。

 その後、マスターの家に呼ばれていたので、7時30分にみんなでタクシー2台に分乗して出かける事にしたのでした。マスターの家は、思った家と違いアパートでしたが、凄く美しく飾り付けしてあってナカナカ良い部屋であったのでした。

 私は、身体の調子が良く無かったので、初め飲むのを躊躇したいたけれど、時間が経つと関係無くなって飲んだのでした。そこで、長崎君?と討論になり英語でやりあってのでした。他の連中の中には、女の子に迫っている者がいたりして和やかに時間は過ぎて12時過ぎになってバスに乗るべくバス停迄行ったでした。

 他の連中とは別れて、これだけ酔っても、酔っているかも知れないが、ただでバスに乗リ結局部屋には1時近くに帰ったのでした。

 今なら、そんな事できそうにありませんが、一人で見知らぬ土地でそんなに遅い時間にバスに乗るとは、信じられない事でした。まして、知らない所で自分一人で行動するとは、大胆でした。

111 不安 

2010-01-27 19:47:31 | 日記
11月13日 曇り 後 雨 

 朝、私の当番であるパンを買いにいかなくて良いと言うので、オフィスに誰がいるかと思って見に行ったのでした。

 マリアンがいて、暫らく話していましたが、今日は手紙が来てないと思っていた所、直ぐに写真と分かる包みが着いたのでした。今日は来ないと諦めていたのに、本当に嬉しかったのです。
毎日、京都からの手紙が大変楽しみになっていたのでした。包はやはり写真で、良く撮れていて凄く嬉しく思ったのでした。
(今の様に、海外に行く時に持ち出し枠の外貨を気にしない時代で無く、1回の持ち出し枠は確か1,200ドル(私の海外に出る計画の時は、僅か500ドルだった。)と限られていた為に極力、京都の家に頼っていたので、写真の現像もそう言う訳で頼んでいたのでした。)

 夜はディッテを久々に手伝いました。そのお礼に、又果物を貰ったのでした。クヌードサン宅へ行こうとしたら、ベントが帰って来たのでした。少し話そうと思ったけれど、彼は冷たく相手をしたのでした。その代わり、ウラが少し話してくれたが、除けもの扱いには参ったのでした。
 この時に、みんな人の事で、自分は関係無いと私に関わり無いと言う感じがしたのでした。

 そして、雨の降る寒い中を出かけたのでした。そんな中、クヌードサン宅では、大変暖かく迎えられたのでした。特に、何も決まらない時に人の温かさを感じたのでした。
 久々の英語を、話した気分で、エリザは自分の紹介した施設が駄目だった事を、済まないと謝ったのでした。ここでも、精一杯の事をやってくれて感謝以外の何物でもありませんでした。

 それ以後は、日本語についての質問があったりして、息子のサンも入って色々聞かれました。その中で、‘ざじずぜぞ’Z の発音がデンマーク語の中に無いのか、‘チュ’になってしまうので、例えばマツダ(MAZDA)はマチュダ、シチズンはシチチュンとかシミズはシミチュになって良く聞き直されたのでした。どう言っても、通じない話して行く内に何か馬鹿にされたような
気分になりました。
 どうにもイライラして、自分の将来が決まらないと、他人を悪く思うようでありました。

 

110 次の所? 

2010-01-26 20:31:06 | 日記
11月12日 晴れ   (金曜日)

 朝からヤンを待っていたが、ヤンはナカナカ来なかったので、事情をカイに言うと、彼は昼過ぎに来ると言うのでガッカリしていたら、カイが次の所へ直接電話を掛けてくれたのでした。

 その結果は、非常に残念ながら‘NO’であったのでした。そこで、カイは他の施設にも方々へ電話をしてくれたのです。しかし、何処も答えは一緒でありました。

 ヤンが来て、その事を話したが、彼の態度は非常に冷たく感じました。ただ、忙しく仕事をしたのでした。(今、考えれば当然の事ですが、当時はヒドク感じたのでした。)彼は私の事を会議にのせて、結局、後1週間ここにいられる事になったのでした。ヤンは月曜に再び手助けすると、全くの事務的に答えたのでした。

 夜になって、この先どうなるか分からない中、居候する事も考えながらユースに行くと、マスター
とミセスに歓迎されたのでした。
さらなる驚きは、沖村氏もいたので昔話に花が咲いたのでした。昔と言ってもつい最近の事ですが
取りあえず花が咲いたのでした。

 マスターがどうも着ている服のせいか、ちょっと見ない間に老けて見えたのです。バンコ(ビンゴ)と言う老人のゲームに参加して(食堂が一杯でした)、一生懸命やっていたのでした。
 
 その後、部屋で少しアルコールを飲んで話していると、楽しい夏に戻った感じがしたのでした。帰る時に、エドがキタと読んで手紙を渡してくれたのでした。それは、篠原氏からの手紙で、中には薬も入っていたのでした。薬は直ぐ土屋氏が持って行きましたが、手紙は嬉しくて有難かったのでした。

109 皆ワイワイ 

2010-01-25 21:55:07 | 日記
11月11日 晴れ

 余りにも延び延びになってしまった今後の行き先について、ここまで延び過ぎて悪いという気持ちは弱まったものの、やはり気まずい感じがするのでした。今日も電話を待ったが、何も返事が来ないのはやはり明日迄待つ様があるのでした。人任せの人生で今の所どうしようもなかったのでした。
 ここの施設の人は、考えてみれば私の先の事等関係無いのに、本当に良くやってくれていると思いました。

 昼は少し勉強をして、買い物にも行きました。カステェンが、私がここを出ると言うのでやたらと部屋に入って来るのでした。私が渡した京都の住所を無くしてしまって、又欲しいとか、物をいい加減に扱って、全く大事にしない態度にはホトホト呆れてしまうのでした。その態度は前から腹がたっていました。しかし、それと関係無く色々なものを見せてくれるのは、私を気にいってるからだと思いました。
 夜に、アンネッテと話す機会ができたので、昨日食事にいかなかった事を詫びました。彼女は、ここに対する不満を色々言ってくれたのです。彼女はここに住んでいる事を友達に恥かしくて言えないと言う事で、旧友は全て去ってしまったので、淋しいらしいのでした。私にとっては悩みを言ってくれたことは嬉しかったのでした。

 新人レイサが入って来て、3人でビールを飲みに行く事になったのです。ビール代はおごってもらったのです。(考えてみると、考えなくても、未成年にビールを飲ますとは、ましておごらすとは信じられない事をやっていたのです。余談ですが、ビール(小ビン)を相手につぐと言う習慣が無い為にそれをやるとまず、返杯する事がありません。又、ビックリしたのは、タバコを1本相手に与えると10円とかを支払うのでした。40年たった日本でもその様子が見られる事になる程、タバコ代が高くなってきました。それ程、当時のデンマークではタバコ代が高かったのです。)

 途中で、イリックも入って来て、暫らくするとカステェンも来て大変盛り上がっていると、最後にマリアンとヤンも来て、こんなにみんなが来てくれるとは思わなかったのでした。
(マリアン、ヤンも公認でみんながビールを飲むとは昔は大らかと言うか、ビールはアルコールと思って無かったのでしょうか、その辺は忘れてしまいました。私も彼らの事を子供と思っていなかった。)

 イリックが車の話ばかりするのを、アンネッテがキスで口を塞いだのです。しかし、その後も車の話を続けたのは面白かったのでした。アンネッテが時々、淋しくなって、その行動が分らなかったけれど、疑問点が少し分かったのでした。

番外 Ⅳ

2010-01-22 07:03:52 | 日記
 やっと無事に彼を送って新大阪迄、車で送って行きました。途中で千里のヤマダ電機によってSDカードを買いました。 4ギガのカードを持っていたのですが、多少写真を取り過ぎた為に不安になって買ったものです。高いビルや陳列台のサンプルを熱心に写真に撮っていました。
 丁度今日で1週間が過ぎましたが、人ごとながら、これからの旅行は大変だろうなと思います。

 私の旅行で一番思い出に残っているものに、チボリがあります。チボリはチボリでもデンマークのチボリではありません。
 ローマ郊外にある、‘兼高かおるの世界の旅’と言うテレビ番組で紹介されたチボリです。貧乏旅行でなんで調べたか分かりませんが、路線バスに乗って確か40分程行った所にあります。今なら行くのをためらったと思いますが、若いと何処でも行けるものと今思います。
 そこは、いろんな、噴水が自然を利用して噴き出しているもので、テレビで見たのと同じだと胸をわくわくさせながら見たのでした。テレビで見たとこに来られた、この時の感激は今でも忘れません。
 兼高かおるさんとは、この後、10年程してパンナムで御一緒した事があります。残念ながら、ただ、同飛行機に乗っただけですが、日に焼けた姿を除いて、その時と変わりませんでした。

 パンナムで思い出しましたが、テレサテンが2重パスポートで日本中の非難を浴びて日本から出なくてはならない事がありました。私が出発間際に飛行機を少し離れた所で座って待っていると、梨本さんや他のレポーターが沢山追いかけて、彼女は走って飛行機の中に逃げ込んだのです。飛行機に乗ってからでも見られると思ってゆっくりしていました。
 所が、その後が、凄い事になったのです。全てのレポーターが私の方へ一直線です。私にでは無く隣に座った少し疲れ果てた女性に質問したのでした。どうやら、マネジャーだったらしいのです。
 私は彼女のファンでしたが、彼女はその当時はすでに有名にも関わらずエコノミークラスに乗ったので機内で会う事は無かったのでした。

 それから、昨日の続きになりますが、ボルドーからサンセバスチャンのヒッチハイクですが、途中に車を乗り継いだのですが、友人の家にどうにか到着したのでした。
いろいろな所に連れて行ってくれましたが、何処か不明ですが、海岸沿いのネズミの形の小山がありそこでのレストランに入った時の事です。
 バスク人(私の友人もバスク人です)のみが入れるレストランに入れてもらって食べた焼き魚が美味しくて美味しくて忘れない味でした。
考えてみれば、魚を焼くと言う一番シンプルな食べ方で食べた事が無いのでした。日本は、なんて素晴らしい国だと思いました。

 この続きは、又、別の機会に言って行こうとも考えています。 

番外 Ⅲ

2010-01-21 09:05:11 | 日記
お疲れ様です。

 昨日は嵐山を見物して来ましたが、スイス人のマキシム君が今日去ります。今日は三宮で友人と会うと言う事です。

 私も彼の様に、旅をしたかと思っています。私の場合は何も知らずに旅をして、彼以下の情報を元に旅を続けていたと思います。モット情報を得れば効率良く回れたのですが、残念です。

 彼は日本縦断、神戸、広島、九州(温泉を楽しみたいとの事)、そして天橋立から船に乗って北海道へ東北を経て東京へ行くと言う壮大な旅行を1ヶ月と少しで完結するらしいです。

 JRの切符が3週間で4万5千円と言うので、天橋立から船で行くのを止めて方が良いのではとアドヴァイスしました。幾らか払とJRパスはエクステンドできるので、そうするらしいのですが日本て狭いなと感じました。
 彼はスイスで国が狭いですので、日本の広さが分かっていますが、JRの切符さえ安ければ今は交通手段が整っているので、短期間に彼の様に旅する事が可能なんですね。

 私もヨーロッパにいた時に、色々旅にでました。その一つを紹介すると、一度はアムステルダムを夜行列車で通過する時に、ファストクラスのコンパートメントで横になって寝ていると、3人掛けの席で男性が親切にも私の足を延ばして寝させてくれました。そうして、私の足に手を掛け顔をお尻に付けてくるではありませんか。
 若い時分ですから、冷やかしのつもりでほおっておくと、ますます図に乗って顔を付けてくるので足で払った事がありました。今なら、危ないからそんな事はできませんが、何でも好きにやっていました。

 又、パリからボルドーを経由して、友人のいるサンセバスチヤンへ行く際は、ボルドー迄列車でそこから、ヒッチハイクで行こうとボルドーまで列車行きました。しかし、スイスの村位に思ったボルドーが大変大きな町で、朝の4時30分に列車が着いたので人もまばらでその人たちを捕まえては行き方を聞くうちに、サンセバスチヤンは何処ですかつまり、ウエラ デレクションデ サンセバスチヤンとのフランス語を勉強した事を思い出したのでした。

 未だに彼はお休みです、彼を起こしに行きますので、9時です、失礼します。

番外 Ⅱ

2010-01-20 08:39:28 | 日記
おはようございます。

 スイス人のマキシムとどうにか会う事ができました。と言うのも、新大阪の待ち合わせが上手くいかずに結局1時間程駅構内を走り回る事になったのです。
 勿論、構内アナウンスで呼びかけましたが、後で聞くと指定された待ち合わせ場所が分からなかったと言う事でした。それなら、JRの職員に聞いて欲しかった。
 アナウンスはインフォメーションデスクのオジサンが必死になって言ってくれたものでした。

 それから、大阪を案内しました。まず、心斎橋通りから戎橋と大阪の人の多い所を案内、そして北の3番街の川の流れる地下街と大阪らしき所を歩き、我が家のある豊中迄帰りました。夜はトマト鍋と、外国風らしきものを食してこの日は終わりました。

 翌町、阪急で京都まで行き、烏丸で降りて錦通りを歩きお店の珍しいもの(外国の人に取って)試食を楽しみながら、四条河原町から先斗町を見て、祇園へ歩いて行きました。
 祇園の一力を左に、東大路に出てから八坂の塔を正面に清水寺迄、そこで、私も初めての胎内を巡る確か隋求道(確かでなし)、古いお堂ですが、清水の入り口左側にありましたがそこを探索しました。古いお堂を、真っ暗の中を歩くと言うものです。
 1寸先は闇と言いますが、本当に前が見えない状態で左側にある数珠を頼りに歩くと言うもので、目が慣れていないと思い一度目を閉じましたが、その効果は無く回りの気配も分からないと言う状態でした。そして、暗闇の中に突然光に照らされた石が見え、それに触って希望を言うとかなうものでした。まあ、初めての経験で面白かったです。
 清水を見学の後、3年坂2年坂をへて、ねねの道、このコースが私の知る限り新しくなって良なったので一番京都で好きなコースです。いつも行くコースです。
 私の娘が高校になる迄、清水の舞台を音羽の滝と間違って、清水の舞台から飛び降りるのをこんな低い所から飛び降りても知れていると思っていたのでした。私が墓参り帰りに、いつも舞台の下を歩いて通過して、清水さんにお参りした事が無かった為でした。余談の余談です。

 ラストサムライを見たと言うので、知恩院のファストシーンに出た石の階段を見せて、本堂の中を見学しました。
 八坂さんを過ぎて、辰巳大明神から元吉町の京都を今でも感じる地域を回って、さすがにお腹が空いたので、川端通りの洒落たモダンな喫茶で遅めの昼食としました。
 本人は時差ぼけで、お腹が空いていないと食べなかったのですがオムライスとスパゲッティを注文しました。この方が、向いていたのか小皿で分け合って食べた所殆ど食べてくれました。

 それから、外人専用のツアーが無いかと京都駅迄、バスで移動しました。京都駅の案内は不親切で、構内のとツアーインフォメイションの場所をいい加減教えてくれたのでした。
 取りあえず、ツアーは日本のものしか見つからず、今度は大阪の海遊館に行く事になったのです。海遊館も初めて行きましたが、ジンベイざめも見られて上手い水族館の陳列に納得しました。

 合計2日間で約5万歩歩きましたので、未だにマキシム君お休みです。9時になったら起こしに行きます。
  

105 新しい仕事 

2010-01-16 21:00:44 | 日記
11月8日 月曜 曇り 後 晴れ

 今日はクヌードサンの手紙を携えて、新しい施設に行く予定でしたが、エリザ(Mrs)が最終的に車で送ってくれる事でクヌードサン宅迄行かなければならなかったのでした。昨日寝るのが遅くて9時少し前に起きる事になったのでした。

 あわてて飛び起きて、取りあえず身支度もいい加減に、下に降りて行ったのでした。そのせいで色々な物を忘れて下に降りたのでした。

 丁度、上手い具合にカイに会った為、新しい施設を見に行って来る事を告げたのでした。あわてていた為に、何処かで10クローネを落としてしまったのでした。悪い事が続かない事を祈るより仕方が無かったのでした。

 約束の時間に少し遅れてエリザ(Mrs)の所に着くと、彼女はまだ朝食を終わっていなくて、ちょうど間に合ったのでした。施設まで、彼女の車で、11時前に身体障害者の施設を訪れました。

 その施設ですが、外見よりはかなり大きくてオフィスを探さなくてはいけない無かったのでした。そこで話を聞くと、今週の金曜日までここにいられるかどうか分からないのです。少し遅いので、辛かったがどうしようも無かったのでした。

 エリザのゆっくりゆっくりした自動車の運転で、帰らなければならなかった。街中迄かなり距離があったが、ここで働く事になれば大変な郊外に住む事となるのです。 美しい施設と抜群の環境、しかしもう少しコペンに住みたいと思ったのでした。

 昼食に少し遅れて着いたが、ディッテは明日ここを出て行くと思っている様でした。そこで、カイに説明して、彼は分かってくれたようでした。

 夜は久々にデンマーク語学校に行った、初めは嫌でしょうがなかったけれど、勝手な思いですが、やはりこのクラスもお終いと思うと、みんなとの別れに、又来たいと思ったのでした。

 帰りの夜風は、ことの他寒く感じたのでした。

104 これから 

2010-01-14 21:45:54 | 日記
11月6日 晴れ(月間違いです)

朝、起きずらかったけども、いざ起きてみると調子は次第に回復しているように思えてきた。ここも後少し、昼過ぎにクヌードサン宅へこの今の状態を告げないといけないので出かける事にしたのでした。

 土曜日なので、エリザ(MRS.)と息子がいたので、色々話をしたのでした。勿論折り紙をあげましたが、その折り方も教えましたが興味を持ってくれました。
息子のマーチィンは凄く興味を持って折り方を幾通りか熱心にマスターしてくれました。 彼の折ったものは綺麗で様になっていたのでした。この様にしてくれると渡しがいがあるというものであったのでした。

 エリザには、これから先の事も相談したのでした。すると彼女が友達の施設で働けるかも知れないので、紹介状を書いてくれると言うではありませんか。
 早速彼女の紹介状を持って、今日は土曜で、月曜の朝に行く事にしたのでした。何処までも、親切な彼女の好意に感謝の言葉もありませんでした。
 
 考えてみれば、初めてあったのは、ユースの前で部屋が無く途方に暮れていた時にたまたま会った彼女の旦那様でありました。その時は、彼の事を優しいと言うよりもその優しさに変な不安を抱いたのでした。 その一家にデンマークでの数々の生活を教えてもらうとは、夢にも思いませんでした。みんなが、優しくしてくれて、本当に私は幸福な人間と思いました。
 人生、最悪はこれ以上下に落ちる心配がいらないと言う事で、下に落ちれは今は最悪で無い事を喜ぶべきと私の人生訓ができたように思いました。

 しかし、どうなるか分からない今、最悪のケースに陥った場合、ユースの土屋氏を頼るしか無いと思いました。

 その後、チャプリンの映画を見せてくれましたが、少し疲れていたので早く帰る事にしたのでした。
 
 帰ってから、ディッテにこの事を告げようと家迄行きましたが、探すのに苦労してかなり疲れてしまったのでした。しかし、彼女は不在で仕方無く帰ったのでした。

103 別れを告げる 

2010-01-13 18:55:11 | 日記
11月5日 曇り 時々 雨

 いよいよここを去る事を、考えねばいけないですが、今日も調子が余り良く無いです。これは、余りにも長く、きっとノイローゼに違い無いと思うようになって来たのでした。勉強もしないで、最後は病気の日が続いたけれどいよいよお別れです。
 良い人達に会えてデンマークの一部を知る事ができたのが、本当に良かったと思ったのでした。まだまだ、できうるだけモット多くの事を知らなければならないと感じたのでした。

 ミーティングで、みんなが集まった時にここを去る事を言おうと、それで時間を貰おうとヤンにあらかじめ言ったのでした。ミーティングがかなり延びて簡単に言う事にしたのです。途中でディッテが何か言ってくれると思ったけれど何も言ってくれませんでした。淋しさだけが残りました。

 ベントにウラに別れを言いに来るように言われたのでした。8時過ぎにベントと話していると、ウラがちょっと酔いが回って、いい気分で帰って来たのでした。
 聞くと、自分の意見が通り仕事が上手くいったとの事で、かなり儲かる事ができるので十分良い気分でした。二人はいつもの如く、熱烈なキッスを繰り返したのですが、全く嫌みはありませんでした。

 酔った勢いも手伝い、色々な裏話を聞けました。例えば、ウラがヤンと仲が悪くて嫌いだった事、彼女は彼の事を激しくののしったのでした。それ以外にも、少しセクシャルな話をしていたのですが、最終的に私を除けて2人で話していました。そんな中、ウラは余りに高揚したのか、デンマーク語で話した事を申し訳無いと謝ったのでした。それから、2人は私に分かるように英語で話したのでした。

 私もこの2人みたいに、外国の人の前では日本人同士でも少なくとも英語で話すよう心がけようと感じたのでした。全く見習うようにしよう。

101 調子は良し 

2010-01-11 20:55:42 | 日記
10月2日 曇り

 昨日と全く調子は同じで、どうにか直さねばならないと、気ばかりが焦っていました。今日はヤンに、朝は寝ていなさいと言われ、ベッドに入ったままであったのでした。

 昼過ぎに土屋氏が来るのを楽しみに待っていたのでした。そうこうするうちに、彼が来て、沖村氏等の手紙を見せてくれたりして、折り紙も教えてくれたのです。
 仕事があるので、彼はしばらくすると帰ったのですが、教えてもらった折り紙を折って時間を過ごしたのでした。

 その後、折ったのを何人かにあげて喜んでもらいました。しかし、ウラに競馬を誘われましたが、今日は残念ながら断り、そのまま、夜はおとなしく折り紙を折って寝ました。

10月3日 晴れ

 珍しく調子よく起きました。今までの病気がうその様に、何日ぶりかと言う朝日を浴びて誠に気持ち良い目覚めでした。

 薬を貰いに下へ行くと、ディッテがいてボーダンハードディ(気分はどう)と聞いてくれたので、ヤハデゴッツ(良いです)と以前と違い本当に気分は良かったのでした。

 ディッテがスベントを読んで薬を出してくれたのですが、目が二重になっているのを見てかなり心配してくれたのでした。彼女の優しさを又感じたのでした。

 久々に窓を開けると、音楽も聞こえて来てすこぶる調子が良かったのです。今日は医者にいけると思っていましたが、明日の朝である事が分かりガッカリしたのでした。

 風呂に長く入ってないのと、毎日、沢山汗をかくので顔に吹き出物が出来てしまいました。
 ただ、目ばかりが本当に疲れますが、身体の痛みが取れたのは有難かったのでした。
 

100 続く病気 

2010-01-10 21:53:14 | 日記
10月31日 曇り

 7時に目が覚めたけれど、うつらうつらして、目覚ましで目が覚めたのでした。取りあえずキッチンに降りてディッテに朝の挨拶した。

 スベェントを含んでの朝食は久々であったと言うより、ほとんど朝食を食べる事が無かったと言った方が良いのかも知れません。

 今日は、デンマーク語を勉強しようとTV室でウィリーに教わったのです。そして、ディッテに親切に病院に再度行くように言われたのでした

 夜は、ペアが部屋へ優しく夕食を誘いに来てくれたので、下迄食べに行ったのでした。

 この日は、食事は良く取れました。しかし、ベント、ウラとトリルが何かもめ事があるらしく、話あっていたが私に取ってはわずらわしいだけで寝る事にしたのでした。

10月1日 晴れ のち 曇り

 まったく調子が悪くて、医者嫌いと言っていられない状態で、久々に来ていたヤンに病気の事を告げて病院に行きたいと言いました。
 しかし、医者が休暇中で水曜日迄休みというではありませんか、もうどうしようも無いと諦めるより仕方が無かったのでした。取りあえず薬だけもらったのでした。

 何時までも、こんな調子でディッテに悪いと思っていると夕食をヤンが持って来てくれたのでした。礼を言うと、ディッテが私が非常に悪いとものすごいケンマクで行ったと言うではありませんか。それを聞き私は涙が出て来るほど嬉しくなりました。 私は彼女の優しさに、心から感謝すると同時に、大好きでした。

 できれば、彼女の為になにかできればと思ったのでした。

 

99 不安 

2010-01-09 21:43:25 | 日記
10月30日 曇り

 起きずらかったけど、どうにかオフィスに行ったのですが、余りに沢山の人がいて折り鶴を渡す事ができずにオフィスの中をうろうろしていたのでした。
糊を貸してくれた、又、素敵なウラに、台付きの素敵な鶴を作ったのですが渡す事ができずに、仕方無くパンを買いに行きました。

 帰ってきたら、ペアが卓球のラケットを持っているのではありませんか、実は私、卓球なら多少自信があったのでした。食後、クヌッドとペアの2人を相手に卓球をやってみたのですが、2人とも上手でかなり上手くて私と同等以上なので驚いたのでした。何でも私が一番と思っていたけど違いました。京都人は京都以外知らないので自分達は何でもナンバー1と思う所があるのです。

 少し疲れたので、部屋に帰って、荷物の整理をしていて、インスタントラーメンがどうしても食べたくなりました。そこで、ディッテに頼んで卵を貰ったのです。そこで、ラーメンを少しあげると美味しいと言ったので、もっとあげようと思ったけれど、
もういらない様でした。

 箸を使う人を見るのが初めてであろうし、そもそも、彼女等は、どうしても海苔を紙と思っている人達です。今の様に日本食が一般に知られている時と、東洋の外れから来ている人間(私)が出したラーメンをよくぞ食べてくれました。と言う訳で余り驚きませんでした。

 又、話が外れますが、デンマークでどうしても食べられなかったのが、紐(ひも)みたいなお菓子でしたがビニールの味がしてとても不味いものを思い出したのでした。

 しかし、突然に気分が悪くなってきたのでした、この先どうなるのか分からないの、この調子で知った場所を離れるのは、心配で仕方なかったのでした。

 

98 長引く風邪 

2010-01-09 06:15:52 | 日記
10月28日 晴れ

 またまた、調子が良く無くて風邪は治っていないようでした。まず、キッチンに行って今日は風邪なので、手伝えない事を伝えたのです。
 ちょうど、みんなで丁度コーヒーを飲んでいる所だったので、リンダに伝えて、折り鶴をあげたのでした。今日はディッテが休みで、取りあえずパンを買いに行く事だけはしたのでした。

 こんなに長く風邪をひくのは初めてで、ヤンも病気で他の施設の移るのも中断して延期になってしまったのです。今日聞くとマリアンも病気で休んでいると言う。

 部屋に帰って、折り鶴を作って時間を過ごしたのでした。みんなに作ると約束したのが、今日は最後迄、仕上げる事にしたのでした。

 凄く大型の鶴もTV室用に作ったが、直ぐに潰されるでしょうが、わりと上手く作れたのでした。銀紙で作ったのはわりと良くできていて、全部で20も作ったのでした。これで、私がいた事がみんなの頭の中に残ってくれたら嬉しいのですが、終わり近くに
こんなに長く病気になっているとは、非常に残念でした。

10月29日 晴れ

 初めて10時迄ベッドにいました。起きてオフィスに行くと、今日は何も来ていないと思っていた手紙が来ていたのでした。 行きの船で一緒の娘で、こちらの手紙に返事を直ぐに書いてくれたものでした。全く早く着いて驚いたのでした。

 ベントが何か作ってくれと言うので、折り紙を折り掛けたら、他の事で余計に時間がかかってしまいました。その為、キッチンに降りて行くのが遅れてしまったのでした。ディッテにパンを買いに行くと伝えたのであった。

 昼の会議は人数が少ないので、カイの部屋で行われたので、私は部屋に帰る事にしました。

 夜にデンマーク語を教えてもらおうと、ステファンに近づこうとすると、マリアンが教えてくれる事になったのでした。