「筍(タケノコ)医者」これから育って藪になろうという腕が悪いとの段階にさえいたっていない医者、面白い!
昔々その昔だったら小学生6年で盲腸で完全に死んでいました。その何年か前、兄も同じ盲腸で少しの違いで麻酔する事なく手術。時は流れ、そんな馬鹿な、本当かな? 兄は赤穂の討ち入りの日が誕生日、全員が腹切りとは...作り話のような本当の話です。(関係ないですが、マッサン婦人の誕生日も12月14日)
旅行会社の方が添乗員としてハワイの帰国便の中で腹痛、到着後、救急車で結果的に盲腸で膿が肺まで回って緊急入院。お見舞いに行きました。伊丹空港近くで病院が古く部屋も狭く、一層、気の毒に思いました。退院後、「見舞いに来てくれる人みんな、驚いた顔...」と言われました。その後、見舞い行ったら、重病な時程、明るく心掛けています。しかし長兄に最後にあった時は声も出なくて、会った後、涙がこぼれそうでした。
白黒テレビで「あの人に会いたい「古今亭志ん生」」、驚かされたのは、73才で立派な年寄りでした。もう直ぐあんな風に見えるのかとがっくり。1月12日に亡くなった「追悼 梅原 猛」を見て、古代、アイヌ研究、最終的にスーパー歌舞伎を立ち上げた、日本の哲学者、学会の風雲児と迄言われた人を長兄がどうして?何故、あんなに気楽に親しくあの人の事を話していたのか、ずーっと疑問に思っていました。
どう考えても長兄と彼、哲学者とは結び着かなかったです。番組の中で、他の人なら流して見た、子供の頃、野球将棋と云うものを熱心にやっている姿を見て、梅原さんが野球に興味を持っていたと確信しました。70年 立命館大学文学部教授を学生運動で辞職される迄、野球部の顧問であったかと思うのです。その時、兄はキャプテン、そして助監督をやっていましたから、一つ謎が解けました。
腹切りの兄ですが、最近読んでいた本の中で落研(落語研究会=最近は、これを書かないと分からない人もいるので!)の話が出てきて、大学で落研を立ち上げたと言っていた事を思い出しました。小学生の頃、剣道の道具を芝居に使うと家に持って帰った事があって、凄いと遊んだ覚えがあります。同じ頃、忘れる事のでき無い図工の宿題で顔の彫刻を代わりに彫って、まるで他人事ですが、素晴らしいものでした。
大人しく何を言っても許してくれる兄でした。でも考えてみると、全然私の思いと違う活発な兄であると気づいた次第です。毎日顔を合わしていてもの程度。遅いですが、兄弟でも僅かな時間一緒にいただけのことに気づきました。それでも何時でも兄は兄です。一人っ子が増えてこの感覚、分からなくなって行くのが淋しいです。昭和が益々遠くなってしまいます。
マンボズボン、ラッパ、だぶだぶ、細身ズボン等、それぞれの時代の流行りを知り、戦争知らずの昭和生まれで本当に良かったです。
昔々その昔だったら小学生6年で盲腸で完全に死んでいました。その何年か前、兄も同じ盲腸で少しの違いで麻酔する事なく手術。時は流れ、そんな馬鹿な、本当かな? 兄は赤穂の討ち入りの日が誕生日、全員が腹切りとは...作り話のような本当の話です。(関係ないですが、マッサン婦人の誕生日も12月14日)
旅行会社の方が添乗員としてハワイの帰国便の中で腹痛、到着後、救急車で結果的に盲腸で膿が肺まで回って緊急入院。お見舞いに行きました。伊丹空港近くで病院が古く部屋も狭く、一層、気の毒に思いました。退院後、「見舞いに来てくれる人みんな、驚いた顔...」と言われました。その後、見舞い行ったら、重病な時程、明るく心掛けています。しかし長兄に最後にあった時は声も出なくて、会った後、涙がこぼれそうでした。
白黒テレビで「あの人に会いたい「古今亭志ん生」」、驚かされたのは、73才で立派な年寄りでした。もう直ぐあんな風に見えるのかとがっくり。1月12日に亡くなった「追悼 梅原 猛」を見て、古代、アイヌ研究、最終的にスーパー歌舞伎を立ち上げた、日本の哲学者、学会の風雲児と迄言われた人を長兄がどうして?何故、あんなに気楽に親しくあの人の事を話していたのか、ずーっと疑問に思っていました。
どう考えても長兄と彼、哲学者とは結び着かなかったです。番組の中で、他の人なら流して見た、子供の頃、野球将棋と云うものを熱心にやっている姿を見て、梅原さんが野球に興味を持っていたと確信しました。70年 立命館大学文学部教授を学生運動で辞職される迄、野球部の顧問であったかと思うのです。その時、兄はキャプテン、そして助監督をやっていましたから、一つ謎が解けました。
腹切りの兄ですが、最近読んでいた本の中で落研(落語研究会=最近は、これを書かないと分からない人もいるので!)の話が出てきて、大学で落研を立ち上げたと言っていた事を思い出しました。小学生の頃、剣道の道具を芝居に使うと家に持って帰った事があって、凄いと遊んだ覚えがあります。同じ頃、忘れる事のでき無い図工の宿題で顔の彫刻を代わりに彫って、まるで他人事ですが、素晴らしいものでした。
大人しく何を言っても許してくれる兄でした。でも考えてみると、全然私の思いと違う活発な兄であると気づいた次第です。毎日顔を合わしていてもの程度。遅いですが、兄弟でも僅かな時間一緒にいただけのことに気づきました。それでも何時でも兄は兄です。一人っ子が増えてこの感覚、分からなくなって行くのが淋しいです。昭和が益々遠くなってしまいます。
マンボズボン、ラッパ、だぶだぶ、細身ズボン等、それぞれの時代の流行りを知り、戦争知らずの昭和生まれで本当に良かったです。