旅、思いで思い出し           何も知らずに旅にでた!

昔ズート昔、旅をした。何も知らない私が、若かった,若いだけだった!
半世紀前の事....

391 昔こんな事あんな事

2014-11-29 04:53:05 | 思い出日記
   尺・坪・升・貫を定義して1958年(昭和33)までメートル法と併用されていたのです。情けないですが、調べて分かりましたが、皆さんもご存知ない人が多かったのでは、なんでも自分と一緒にして済みません。

 今、普通の使っているメートルを使っていなかった時が戦後まであったのは殆ど忘れる位です。でも普通に坪は未だに使っています。不思議の思ったのは、確か、貫は使っていた事を忘れている程、過去のものとなりました。寸は使っていなかったと思いますが、5寸釘、そして一寸先はいつでも闇はを未だに使っている現状です。

 今はどの家庭にもある体重計ですが、少なくとも私の周りには風呂屋にしかありませんでした。現在の様に小型、デジタルでは無くて、立って計ると目の前に大きな時計の様になっていて、乗ると小刻みに揺れていました。小学生の低学年の頃、体重が何貫何匁と言ってたと思います。

 昔人間と言えますが、思うと懐かしいものです。でも昔の年寄りがその変更に慣れて行くのが大変だったと思います。現在使う事事態、差別用古語になると思いますが、100貫デブとか言ってた事を思い出しました。又、今でこそ、大きな目を持った女性を美しいと思うようになったのですが、出目金とか言っていた事もありました。時代で価値観は変わっていきます。こんな差別用語をみんな使っていたのです。

 アメリカはマイル、ヤード、ガロンを使って世界基準は世界一の国では関係ありません。でも考えて見れば水泳や陸上競技もメートルを使っているのに不思議にアメリカから文句は出ないです。

 小国日本は国際基準に従ってメートルやリットルにキッチリ変えて良かったと思います。日本だから直ぐ(かどうか分からないですが)できたのだと思います。ただ、 その成り立ちや云われを教えてもらったら良かったと思います。教えてもらっても忘れたかも知れませんが、雑学が豊富になります。
 少なくともクイズ番組の答えに苦労しなくなと思いませんが、尺貫にはそれなりの日本人としては知っておきたいものです。‘一寸の虫にも五分の魂’こんな諺もいずれ使われなくなってしまうかもね。

 映画でも翻訳本でも、そのままフィートなんかそのまま使っていますが、訳ならメートルに直さ無いのは片手落ちではないでしょうか?1万フィート上空と云われて直ぐ分かる人はいても、やっぱりメーター翻訳した方がわかりと映画の字幕を見る度に思うのです。

 お酒は未だに1升、5合とか言って吟醸酒になっていますが、酒の話をすると昔の様に、1級2級3級と言った方が分り易いと思うのです。現在我が家で、酒屋では無く、殆どスーパーで買う酒は、持ち運びが便利な紙パックに入って、2リットル入りになっています。それでも1升酒の方が飲んだ気がします。

 尺貫で思い出す事が多くあります。
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390 人生の四季

2014-11-22 04:54:40 | 思い出日記
 1965年迄生きた、哲学者‘ブーバー’は「年を取っていることは、始めると言う事の意味を忘れていなければ素晴らしいことである」と言っています。
 
 『人生の四季に生きる』で日野原重明さんは、老いの生き方として、「脳を上手に使うコツは、不愉快なことや、心配なことに脳を使う事をできるだけ避けて、積極的に生きる為に脳を十分に使う事です。新しい事で脳を使うたびに新しい神経伝達路が形成されるのだそうです。この伝達路が沢山形成された人ほど能率的に脳を使うことができる訳です。
 使わないから衰える脳と、使うから新しく開発されつ脳てとが年をとった老人の頭の中には交錯しているのです。ここで積極的な気持ちを持ち直して生活行動を選択すれば、もう少し若さをとり戻して生きていける人もあるのではないか。
 自分に印象的だった本の内容を友人に伝達する事はは感性を分つという結果を生み、友人との間に関係が保たてると私は思います。積極てきな行動を選択することをお勧めしたい。」と言う訳で、この場を通じて色々現在読んでいる中で皆さんに引用したことを伝えています。

 向田邦子さんは「自分の世界とは無縁の本、難しくてサッパリわからない本を、読むのも頭脳の細胞活性化の為にいいのではないかと思います。」と言っています。私は難しく無い本を、無差別に図書館で借りて読んでますが、頭脳の活性化に役立っているかどうか、未だ分かりません。
 シナリオ作家として彼女の作品としては、数々のヒットTV番組「寺内貫太郎一家」「阿修羅のごとく」等々あります。81年に台湾で航空事故で亡くなられたのは知っていましたが、今回初めて「眠る盃」というエッセイ集を読み感動しました。
 その中で『小学校の5年の時、さして深い考えもなく、誰に薦められた訳でもなく、全く偶然にしたこの1冊は極上の香り高い「ほんもの」でした。この事を私はとても幸せに思っています。』吾輩は猫であるを読んでの感想です。

 私は現在読んでいる本は偶々どれも良い本ですが、小学校の時に読んだ本で記憶に残る「ほんもの」と言える本は考えつか無いです。私とここらあたりが違うのでしょうね。

 老いとは関係無いと思っている人は幸せです、私もそうでした。未だにそうです。しかし50歳になった時、あとは早いです、50歳後半から加速的な月日の流れになってしまいます。マツコデラックスは同じ1年でも、30歳を越えた1年は早く感じると言い、例えば6歳の子の1年は、今まで生きた6分の1で、60歳の人は60分の1で、同じ1年でも年と共にその感じ方が極端に違うと言っていました。

 ただの太ったおかまで無く、マツコデラックスの表現力の素晴らしさを感じました。現在テレビに良く出ている理由が分ったように思いました。
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389 京都の湯川さん (🙇操作ミスで土曜に更新してると思っていました)

2014-11-15 05:00:40 | 思い出日記
 世の中不思議な縁があるもので、「夏目漱石」が明治40年に胃潰瘍を患って、湯川胃腸病院に入院しています。その時の病院が湯川秀樹さんが養子先のお父さんの病院でした。その話は、「夏目漱石」の「行人」という本になっているとの話です。湯川さんは養子で、もともと小川と言う性で、お父さんも養子だったとの事、養子縁組が普通に行われていたようです。

 結婚して暫くして大阪から京都に京阪電車で通ったそうです。電車も今の様に真っすぐ走って無くて、まだ人力車が交通の手段の時に、私電車が走っていた事に先ず驚きます。

 余談ばっかりですが、生まれる前のこと、京都駅で我が家の名字を言うだけで、タクシーは我が家へ行ったそうです。でも、今となっては本当か嘘か確かめようがありませんので、昔のことは言ったもの勝ち、お許し下さい。

 当時は海外旅行は大変だと思っていましたが、第一次世界大戦後は、ドイツのインフレで、円貨が大変値打ちのあった時期もあって、私費留学は珍しく無かったそうです。思うと、欧州に行ってる画家も行っていたのが分かりますす。現在の様な、そんな時代もあったようです。

 私の行った時も、画家の人が一緒に船に乗って欧州に行って、その時でも、西欧の絵を描くだけでかなりの儲けになり、沢山の絵を描くと言ってました。その方に、ウィーンに着いた時に荷物を預け方、京都では見た事も無かったコイン式で分からないで、その使い方を教えて貰った事を思い出します。ただ、後で隣のボックスにお金を入れていたことを思い出しました。そのお金、鍵はどうやっていたか今疑問です。その時は多分、ロッカーが開いてビックリしたと思います。良い時代でした。

 話はそれましたが、何でも文章にして残しておくべきだなと思いました。勿論、こうやって歴史に残る人が書くと、私のように読む人間がいてその時代を知る事もあると思うので、当時の生活資料としても得難いものとなります。

 もともと、湯川博士の本を読みたくて、又、読もうというものでなく偶々読んだ所、そう言えば京都大学出身だと思い京都の町を書いてあったので興味を得て読んだのでした。

 京言葉と云うと、とりあえずのんびりした言葉と、今なら思います。特に男性は言葉の終わりに‘け’例えば、「行きましょうか」を「行こけ」等と言う様に、『け』を付けている人、京言葉でありませんのでご存じおき下さい。昔、京都弁を知っているという人が「京言葉を私知っている、「け」を付けるのでしょう』といましたので、そう言ったので付け加えておきます。

 私が良く使った言葉‘ほっこり’疲れた時、ほっとする時、お風呂に入り‘あーあ、ほっこりしたわ’、テレビで良くつかっている全国的には和んだ等とはちょっと違います。いろいろなこと本を読んで思い出します。
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388 京都の湯川 秀樹 さん

2014-11-08 04:10:37 | 思い出日記
 近くて遠い我が故郷、僅か電車で40分なのにナカナカ行けない日々を送っています。「‘旅人’ある物理学者の回想」と言う湯川秀樹さんの自伝本を読んで、京都を故郷とする自分で良かったと思いました。この本に書かれている事は、彼の生きた時代の京の町を知る上で別の意味で貴重だと思います。

 東京麻布に明治40年に生まれ、僅か1歳2ヶ月の時に京都に来て、50歳に この‘旅人’この本を書いています。その中で、嬉しい事に馴染み深く知っている地名が沢山出て来ました。当時の人口30万人とは、さぞ美しかったに違い無いと思います。京大が創設されて12年、明治でさえ、まったく想像を越えています。

 1970年頃に新丸太町通りができて、そしてバイトで工事中で進入禁止の新丸太町を車を走らせ、センターラインも無く電柱だけの美しい田んぼの青さ、新丸太町の向こうに北山の山並みが見えていたのが無くなりました。その間には沢山の住宅ができました。その美しさは表現できないものでしたが、その時と比べ物にならないほど人口30万都市の魅力は計り知れなかったと思います。

 まだ物理学者を志す前、現在の私に似てあらゆる本を読んでそうです。良く似ている、好き嫌いが多かった事も良く似ています。済みません、つい比べて、暇を見つけては図書館の本を読んでいる自分と違い、小学生が家にある本は何でも、時には難しいツルゲーネフやトルストイ等外国の書物も読んだそうです。この辺がちょっと?違います。

 その頃は、市内でかぶと虫が捕れたというではないですか、クワガタを「源氏」、なにも角が無いのが「坊主」これは私の時代と変わりが無いです。私の頃は、大文字山まで取りに行か無くては駄目で、貰ったものですが、同じ様に木箱に入れて砂糖水で飼って、箱から出して相撲をとらせたり、紙で作った車を引かせたり、同じ様な遊びをしていたのも嬉しいです。メンコもした、ただ違うのが土で汚れたと書いていますが、私の場合、地面が舗装した所でしたというのと大分?違うようです。
 車が多くなって出来なくなったですが、地面が舗装していないと出来ない石当てという遊びです。土のある、ろおじ(路地)で釘さしも良くやりました。子供は何も無い所で遊ぶ方法を考える天才でした。

 5つか6つの時に、祖父が漢籍の素読を始めたという事です。その辺りから既に天と地。小学校の自分の席の横に座った人等、実に記憶が良く、当時唯一の盛り場だった新京極に祖父に良く連れて貰ったそうです。

 何度か引っ越しをしている。最終的に大阪に、私は大阪の豊中これで苦労しています。清浄華院で良く遊んだとか友達家族が今の重要文化財‘本禅寺’の境内に借家をして住んでいたとか、良い時代でした。ノーベル賞を貰った人と、同じ町に住めた事を有難く面白く読みました。
 
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387 振り返ると ...

2014-11-01 02:11:22 | 思い出日記
 「旅 思いで思い出し」で自分の為と学生時代に行った欧州、アメリカの体験談を書き始めました。当初、世界一周を終えたらこのブログを閉じるつもりだったのです。伝えたい両親もいない、しかし、多くの人に読まれて終わらず続けて書いています。その時の話を再度http://kitashimizu.cocolog-nifty.com/blog/ で整理していまが、もう少しで終わります。再度読んで、そこで又、忘れてしまっていた名前や他の事も多くあり驚いています。しかし、いずれにしても懐かしい思い出です。

始めた当時に、面白そうなので暇つぶしに場外馬券売り場のバイトを毎週、土日に競馬の開催日に警備員として応募しました。勤める梅田の北の場外馬券場は新しく建てられたものでした。競馬は公的な為、元警察官が来て1週間のみっちり研修があり厳しく教育されました。教官は大声で本格的に怖いおじさんで、そこで助かった事に知り合いの日X旅行の人も来ていました。しかし、研修が終わると同時にその人は辞めてしまった程、厳しい教育でした。やめた人は研修費取りっぱなし、やっぱり良いバイトでした。
出来たての新たな馬券売り場を見学させて貰いましたが、防犯カメラを隠しカメラと言って笑われた事を思い出します。凄く恵まれたアルバイトで、勤めを暫くやると、月に7-8回土日にしか行かないのに、有難い事に有給休暇をくれました。現在はありません。

 競馬をやった事がなく又やろうと思いませんが、立って、そして見廻っているだけで良いと思った警備だけではなかったのです。メインは馬券を買う機械の使い方を、初めての人に教えてあげるというものでした。競馬をやった事が無い私は機械の操作が苦手、というより3連ちゃん等とか言う競馬が良く分らないのに誤魔化しで良くやっていたと思います。
 そこで、なんでもお気軽ですから、質問がある様な人には出来うる限り近づかない様にしていました。研修の時は、分かっていても、そんな事はそれ程関係無いと思い、それが応えて苦労した事がありました。

 そこで勤務している時、一番の高額配当は、大穴で約1、700万円があったったカップルがいて別室へ案内されました。やっぱり素人の方が穴狙い、狙って無くても当たるものです。毎週7時前から来ている人達が並んで待っていました。オープンと同時にエスカレ-ターに皆、突進と言うパターンでした。

 そこで、びろうな話になりますが、同僚の私より年上の方が、公衆トイレに行って一番先に小便をし始めて一番最後に出て行くと言われていました。勢いが無くなり、年を取るとそのようになるとの話ですが、トイレに行く度に思い出し未だ良く覚えています。それも、総ていい思い出になりました。
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