旅、思いで思い出し           何も知らずに旅にでた!

昔ズート昔、旅をした。何も知らない私が、若かった,若いだけだった!
半世紀前の事....

469 100歳前の篠田桃紅とビートルズ (毎週土曜日に更改しています)

2016-05-28 04:42:51 | 
 面白い話を見つけました。それは1966年、ビートルズが武道館公演のために来日した時のことでした。宿泊した東京ヒルトンホテルの貴賓室に「103歳で分からなこと」を書いた篠田桃紅さんの絵が飾られていました。『無題』と題されたその作品に感動したジョン・レノンが「これは誰が描いたんだ」と支配人に聞いたことから、彼女のところへ連絡があった。篠田桃紅さんはその時の様子をきっぷのよいしゃべりで、
「これは誰が描いたんだ”と支配人に聞いて、支配人が教えたわけよ。電話がかかってきた」「“とにかくその筆屋さんを教えてあげるから、行って筆を買いなさい”って、そう言ったの」

「それで、…あの連中は、そこで筆をいろいろ見せてもらって、すっかり有頂天になっちゃってね、そこで紙を広げてもらって、みんなで描いて遊んでんの」「それがテレビジョンに映りましたの。それを私は家で見てました」 その後、ビートルズは筆を買って持ち帰ったそうです。

 芸術家の篠田さんにすれば、どんなん気でその電話を受けたか知りようがないですが興味深い話です。又、東京ヒルトンホテルの貴賓室の趣味の良さが良く分かります。夢ですが、そこに泊まりたくなりました。

 価値観は、時代によって移り変わるものだとも書いています。100年も生きていると、あらゆるものが時代と共に移り変わり、100年間でも、その変わりようは激しく、いったい、この世に、人類とともにその価値が失われないものはあるのだろうか、と考えさせられると書いています。文学、芸術などありますが、未来永劫、人類が愛するのかというと、それもまた良くわかりません。
私の生まれる100年前には侍が刀を腰に徳川幕府の時代、その100年超を生きた人がいます。大昔でもありません。今や50年でも激しく変わっています。

 彼女が全人類がその価値を認めざるを得ないものは無いでしょうか。ある人は母と言いました。母がいるから、人は生まれ、母性に見もまれて育つ。未来永劫、人類が存続する限り、尊い価値である事に変わりありません。
  
 自分自身は母親で無い一生独身であったけれど、結婚する以外の選択肢を持たない明治生まれの母親を持つ彼女が、自らに由って生きて行く道を選んだとき、やりたいようにやりなさいと言ってくれたのは、お母さんと述べています。

 淋しいですが、父親というものは、どうなるのでしょう...やっぱり母親が一番のようです。人間103歳で、まだまだ分かる事があるんです。とりあえず、100歳を目指します。
 
 

 
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468 様々な人 (毎週土曜日に更改しています)

2016-05-21 04:50:37 | 高齢者
 「80歳で若々しい感性の人間もいれば、その半分の年で人生を捨てている奴もいる、どんなに若くたって素晴らしい人間もいるし、年ばっかり重ねてずる賢いだけってやつもいる。日本人は、どうしてこう年齢とか、銘柄にこだわるかね」本当にそう思います。

 本の中で池波正太郎は「ああ一日も早く死にたい、死んでしまいたい。などと暇さえあれば口に出す爺様や婆様が道を歩いていて、向うから暴れ馬が飛んできたりすると、お助けえと大声を張り上げ逃げたりする。人間だからである。」老人介護の現状を知って、尚更その考え方をもっともだと思う様になりました。

 少し違いますが、不思議な縁で、その方の家族を知っているので親しくなりました。脱臼で何度か救急車で運ばれて、その痛さに、いつ死んでもいいと言ってました。
 ある日、食事を「いつ死んでもいいと自分で死ぬと言っていたのに完食、オカシイね!」と明るく言っていた事を思い出します。韓流大好きで翻訳無しでビデオを見ている大変大きな腕で血圧を測るのが難く、太って凄く足がむくんでいました。以前大阪に来ている曾孫に会ったことがありますが、2歳でも、その方にそっくり、よく似て大きく愛想抜群の子でした。そのひ孫が東京から次に会うのを楽しみに最後と決めていました。そのひ孫と会ってから先日、亡くなりました。合掌

 そうかと思うと、体温が常に37度を超えていましたが、本人には平熱が高い方もおられるから心配しないようにして下さいと言っていました。それ以外はお婆さんというよりオバサンと言った方が合っているようなおとなしい方でした。「最近足がむくんで来るのです」と相談を受けて、足を動かしていますか等と聞いたりしていました。休みの明けの日、名簿の名前が消してあるので、スタッフに聞くと亡くなったと言うのでした。どう考えても分からない程、簡単に亡くなられました。合掌

 部屋にいるとコケて危ないから、食堂で皆が見やすい所にいる方がいます。車椅子でスタッフを見つけては、いつも車椅子から常に立ち上がって「あのーもしもし」とか、「先生、先生」声を掛けてくるのです。先日、私の名札を覚えて、私を向かずに他のスタッフに何度も声掛けていました。ある日、アルバイトをやりたいから雑誌を見せて欲しいと要望されました。本人の持っていた週刊新潮を渡しました。私もバイトですと言っても分からない困った方です。

 認知症の人、こんな方にならないようにどうすれば良いのでしょうか?自分はそうはならないと言えますが、今の所、考えが及びつかないです。
 




 



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467 京言葉 (毎週土曜日に更改しています)

2016-05-14 05:26:17 | 
大阪に住み始めて4-5年だったと思いますから30年数年前、大阪豊中から電話で京都高島屋に駐車場があるかを問い合わせたところ「ほん、ねきにあります」と答えられました。長らく聞いていなかった言葉で、それ以降も聞かない「直ぐ、近所にあります」と意味で、殆どの方は分からないかも知れないです。京都を出た事が無い、京都が世界と、私と同じように日本中全て、つまり共通語として通じると思っていたのです、素晴らしいです。

 初めて京ことばを自分が話すのを分かったのは、大阪万博のガーナ館でバイトをしていた時でした。仕事に疲れて「ほっこりしたなー」と言った時の事でした。同じバイト仲間の大阪の人達が、???と、それどういう意味という顔でした。疲れた時に、ゆっくりと「ほっこりしたなぁー」字で書くのが難しいですが、「ああ、疲れたな」という意味です。その時迄、それが京ことばとは知らなかったです。しかし、その時のショックは忘れられないです。

 それから1年して、フランクフルトからストックホルムに乗る予定のスチーデントフライトがキャンセルされた時に失意落胆してユースホステルに泊まりました。その時あった日本人が、ヒッチハイクのやり方を教えてくれたんです。つまり、インターの近くで紙に何処へ行きたいか書いて立っているという、当時はワラをもすがるつもりで有り難たかったです。 日本を出る前、ヒッチハイクでの旅行とは考えていなかったですが、その後多くの旅行がそれになったのでした。

 そこでゆっくりと間延びした話をする日本人に会いました。その人がうちの家から「ほんねきのひと」でした。その時に、つい最近、つまり日本出てから10日程前迄、自分も彼みたいに話していたに違いないと思いました。
 その時の第二ショックは人生を変えました。それ以来、自分の言葉が変わったと、自分自身で感じています。今や立派な標準語を話すと思っていますが、それからン十年して、成田で私を「関西弁」を話す人を探した人がいました。進歩の度合いがン十年立っているのに、やっと京から関西になったのでした。

 私の母親迄、一般に語尾に「どす」を、例えば、「そう、どす」の様に言っていましたが、今や玄人さんしか、余り使っているとは思えないです。先日、殺虫剤のCMを見て全く使ってない言葉、「ぼっかぶり」と言う言葉が正しいか心配になってネットで調べたらありました。ゴキブリの事ですが、大阪でもそう呼ばれているそうです。しかし、お婆さんしか使っていないと紹介されていました。その説明に、私もその年かと、がく然としました。

 何れにしても、生まれ育った所の言葉は大切にしたいものです。しかし、淋しい事ですが、今となっては似非(エセ)京ことばを話すだけとなりました。




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466 103歳 を超えて (毎週土曜日に更改しています)

2016-05-07 04:07:07 | 思い出日記
 103歳越して生きるて、いいことを書いているので、そして何から抜粋したか、それぞれに素晴らしい、面白いと思った時に書いて整理が悪く誰が書いたのか分から無いですが、メモしたものが多くあります。

 若い時は、頭にひらめいたことは何でもできる、やれそうな気がどこかにあります。歳を重ねるだけで、頭にひらめいたけれど、もうできないだろうという否定が生じるのです。歳をとれば、人にはできることと、できない事があると知る事になるのです。
 それは、できなくて悲しいというよりも諦める事を知り、ここまで生きて、これだけのことをした。まあ、いいやと次第に悟る事になりました。

 20才の時に世界一周、何も知らないのに、いえそうでは無く、知らないから良く行けたと思うのでした。今なら行けない、そう思う事が、いつでも気分は20代とはいかない様です。年を取ったなと思います。

 海外持ち出し金が$500(日本を出る時は、$1,200になっていました)、1ドルが360円で全ての持ち金を、外貨にできず残りのお金を歯磨き粉の中(今と違い底が開きました)に隠して入れました。夢のハワイと言う時代、現在でしたらお金さえあれば簡単に行けますけど、今度は金が無いと言う情けない状態です。
 そして、インターネットで情報豊富な状況下で旅行ができるようになりました。まあ、情報が豊富でも私の様に行き当たりバッタリで、役に立たないから同じです。

 今や、米国だけで無く、欧州も治安が悪くなっていますが、最近、死ぬまでに(この言葉、実際書いてみて、死ぬ迄近くなったと気づきました)、もう一度スイス等に行ってみたいと思い始めました。イタリアのフェレンツオーラやバーミュダー島等は再訪してみたいものです。その土地で会った人達が素晴らしい思い出を作ってくれました。

 当時は欧州へ行くのに安いシベリアルートが安く一般的であったと思います。知らない人ばかりがウィーン迄、初めて行ったソ連(現ロシア)は、舗装していない、板塀で囲まれた貧しかったことが印象に残っています。モスクワでは砂糖が珈琲に解けない固いものでした。
 
 我々の行く前、半年か1年前に欧州に行っている人達は労働ビザを取るのが簡単でしたが、デンマークで公的な施設で働く責任者に付いて行ってもらっても簡単では無く、結局就労ビザは取れなかったでした。何でも早い方が、人より苦労も多いけど良い見たいです。

 書くつもりはありませんでしたが、昔話になりました。年取って来ると同じ話が多くなります。山に段々登っていって目線が違ってくるので同じ話とは違い、以前に話たことでも、色々またちがった思い出が出て来るのです。
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