旅、思いで思い出し           何も知らずに旅にでた!

昔ズート昔、旅をした。何も知らない私が、若かった,若いだけだった!
半世紀前の事....

317 人生の殆どの時間は探しもの 

2013-08-31 02:27:48 | 思い出日記
 今日も朝から探し物です。限られた人生、よくもまあこれだけ、毎日毎日探し物があるものだと思っています。思い出すのが大変ですが、自分の行動をその日、又は昨日から追って近くから探して、そして見つけて難をしのいでいます。 

 デンマークに行った時の話を別ブログに改めて書いてまとめています。1年前の自分の書いたその記事をメールで知らせて来ますが、もう完全に忘れてしまっているから驚きです。そんな事もあったかなとビックリ、ある意味1年前にこんな事を書いたのかと思い出すのにいいです。出て来る名前等、偶に思い出しますが、その時驚き、又今回も驚くと言う、驚くパターンです。でも、まだ感激する事があるので大丈夫だと思っていますが、いよいよ痴呆症が始まったかと心配しています。
 
 村上 春樹の‘ねむる’を読んでいて、主人公が『アンナ・カレーニナ』の再読する内容を、ろくすっぽ記憶してなかったと言う話が出て来ます。登場人物もあらかた忘れていた。全然別の本を読んでいるような気さえした。不思議なものだと主人公が思います。読んだ時は、それなりに感動したはずなのに何も頭に残っていない。あの時代に私が読む事で消費した膨大な時間は何だったのだろう。

 良い本があって良かったです。小説の中とはいえ同じような人がいて、ひと安心しました。本当を言えば、『アンナ・カレーニナ』の様に難しい本ではないのに、読んだ本名を記録しているので分かりました、ろくすっぽで無く、完全に全く忘れている事もありました。。内容はちょっと違いますが、まあ同じ様なものです。『アンナ・カレーニナ』を難しいと決めつけていますが、読む予定が無いので、難しそうと言いなおします。
 
 稀に、私も本を読む事で消費する時間は何の為と思う事があります。自分の血となり肉となると思って、本をむさぼる様に読んでいます。それで、どうなるのと聞かれても‘面白かったです’と言う風に、今さら血肉になっても...テレビを見ているのと一緒だと思われます。

 年を取ると物忘れがヒドイと言いますが、今まで貯め込んだ脳の記憶部分の許容範囲を越えているだけだと思っています。私の場合、許容範囲が狭くて、それを越える程、数々の豊冨な経験を積んだとも言えます。いい表現です。しかし、10分前に飲んだ薬を飲んだかどうか分らないのは、既に新しい物を覚える事は出来ないとも言えます。
 
 ‘ねむる’の主人公は、17日間も寝ていないのに周りの人には自分が普通の生活をしているので、全く分からずにいる。人に相談すると、医者に行って相談した方が良いと言うのが関の山で、そのままにしていると問題無いと言ってます。と言う訳で、自信を持って私の1日4-5時間の睡眠は十分だと言えます。

 題名に悩みましたが、実際は‘人生32%が探し物’の方が真実味あると思います。‘起きている殆どが探し物の時間’と言い換えます。困ったものです。
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316 地蔵盆

2013-08-24 05:32:30 | 思い出日記
 関東ではポピュラーでないですが、毎年8月の23,24日と子供を中心に京都の各町内でお地蔵さんをまつる地蔵盆が開催されます。年に一回町内に祭ってあるお地蔵さん前に、路地や駐車場にシートを敷きテントを立てて子供たちがその前で遊ぶのです。(市内の町内は1つ1つが大きさがほぼ同じです)。
 小学生の頃、24日になると地蔵盆の楽しさと、もう直ぐ夏休みが終わると、宿題がまだ終わっていので焦りました。結局いつも学校が始まる前に半泣きで状態で兄の救援を得、どうにか新学期を迎えました。

 去年、伏見の兄の家に寄る時に丁度地蔵盆、その時は暑くて昔の実家の町内に行けなかった事を後になって残念な思いをしました。
 我が小伝馬町では、思い出すのは、毎年各家を順番に廻る様になっていました。表を開けて、家によっては、土間にゴザを敷き、特に格子戸を取り払って誰でも入れる様にしていました。
 大きな数珠を皆で回しながら‘なんまんだぶつ、なんまんだぶつ’と大きな声で一周すると、一つある大き目の数珠が回ってきて、‘まんまんさんあん’と言ってお辞儀をするのでした。確か、お供え物を皆に配ったと思います。実家が無くなっていますが、一度昔の町内に行って見ようと思っています。

 これに限らず、朝にお坊さん(私はおーおさんと言ってました)が托鉢に来たりして、そう言う意味で宗教が身近なものであったと思います。どこの町内にもお地蔵さんがあり、それが普通と思っていました。大阪市郊外に住むようになって普通ではないと気づきました。京都も今や子供が少なくなり、高齢化が進んでどうなっている事やら興味があります。新聞に本来2日間あったのを1日するとか、お地蔵さんの維持が大変だと、近くのお寺に預け、絵や写真をまつり簡略化している所もあると書いてありました。
 我が町内のお地蔵さんを備え付けてある家が、改築すると言う事で台座の前の部分をカットしました。そんな事は許されるのかなと、子供心に非常に淋しく思った事があります。

 大文字にしても、我が家から見て、丁度、大の字、舟形や他の字はハッキリ見えるのですが、右大文字の右側にマンションが建って、ビルの左に見える様になったしまいました。
 モットビックリしたのは、欧州から帰って堀川丸太町を何度も車で通ったのですが、ある時に信号で停まった時に横を見るとそこが見慣れない高い高いホテルがあった事が印象に残っています。現在、そのホテルも無くなって、更地になっていますが、今度どんなビルができるか心配しています。

 今でこそ、高い建物がそこら中にありますが、当時は我が母校の待賢小学校と我が家が3階建てでした。府庁前に共産党の確か我が家より高い5階建ての鉄筋ビルが建ったので共産党嫌いになりました。でも、そんな事は忘れていて今回の参院選で投票しました。

 でも、まだ高い建物が制限してるし、京家も又復活しているという事でそれなりに努力して保存しているのは良いと思いましょう。
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315 人生は生きているだけでまる儲け! 

2013-08-17 07:55:25 | 思い出日記
 43才で、若くして遭難で亡くなった長谷川恒男さんが‘生きていることが冒険だ’『私のやっている行為は全宇宙から見たら、まったくゴミでしかない。しかし、私にとってみると、大きな大きな生命の証しなのだ。人間の一生は短い。その中で。たったひとつの生命が、自分自身の心の中で永久に生きていられる表現方法が、私の場合は登山だと思う。』

大阪で営業をやっていた時は、怖いもの知らずでした。今になって、あの時、ああやっていたら、こうできたのにと色々良かったのにと思います。人生前向きに生き無くては駄目なのですが、どうも悲しいかな昔の悪い思い出ばかりが出て来ます。後先考えずに来た為に、振り返ると人生失敗ばかりでした。考えて見ると、その失敗を知らずにやってきたとも言えます。
 若いって素晴らしい事です。その時、その考えしか浮ばなかったのでしょう。許してもらうより仕方無いですが、夢中であって、若さの特権です。自分で納得。

今や冒険を避けて通かすることや、冒険というものの存在すら分からなくなって来ている自分に気が付くというありさまです。まあ、気付いただけマシカと納得。何処までも納得。

 これからどうやって残りの人生を生きて行こうと思っていた時に、ビギンの‘笑顔のまんま’が朝ラジオから聞こえて来ました。‘人生生きているだけでまる儲け’そうか、気楽にそういう考えもあっていいと思いました。

 今さら他人にどうこういわれても(残念ながら、言う人は殆ど亡くなったのです)どうすればとあれこれと道を探す事無く‘人生生きているだけでまる儲け’目が覚めました。これから、この精神で生きて行きます。死ねば、こういう考えどころか、どうなっていたか分からないです。何度か危ない目にあっているのに、それでも死と向き合う事がなかったのが幸せだっと思います。。

 若くして亡くなった人の事を思えば、今生きている事に感謝しなくては駄目です。しかし、ビギンは若いのに、若いからかも知れないですが、良くこんな歌詞がよく思いつきます。友人の言った‘生きている人すべてが強運なんです’とも言えます。

 直ぐに忘れ去ってしまう、遺してもたかだか知れたものですけれど、何か自分の生きていた証あかしを残さねばと難しく考え過ぎていたのかも知れません。

 反面、こんなに考えた事が無い程‘死’と言うものを良く考えます。楽しい事、苦しい辛い事、総て生きているから思う事です。70才の先輩が腸が痛い異物感があると医者に行き、精密検査を受けました。本人は癌と思っていて、なる様になると強気に言ってました。その結果、鼠径(そけい)ヘルニアと分かりました。癌で死ぬ人が多いと聞きますが、人生それだけ長く生きたとも言えます。昔の人はそんな病気になる前に亡くなったのです。みんな長生きして、自分を振り返る事が可能になったと思います。
 今夜も宝くじが当たったらどうするか考えます。まあ、こんな調子だからいつも早く寝られます。
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314 日本語 296のつづきⅡ

2013-08-10 02:17:37 | 思い出日記
 あらゆる言語は基本的に等価であると認識してると村上春樹さんは言っています。ある意味そうかも知れないですが、私は歴史に支えられた日本語と日本字は特別に素晴らしい言葉と思っています。前に述べたことがありますが、もう少し...

 縦にも横にも書け、表紙が右側にあったり、左側にあったり、漢字、ひらがな、カタカナ等で書けルビを添えられる言語は無いと思います。これだけで、様々な発想でできると思います。アルファベット26文字、それに比較にならない日本文字の多さ。何じ考え方に近いことを、『日本語論』としてまとめた本があったので、紹介を兼ねて表して行くと色々面白い事が発見できたのです。その本で、直ぐ覚える、直ぐ慣れる、直ぐ飽きる、また新しいものを求める、死語は新しい言葉に変わると言っています。
 
 島国は限られた情報が注ぎ込めれるのであるから無駄なく全体に直ぐ行きわたる、以心伝心服芸と言うものが普通に使われています。その島国の消滅、飛行機で、ネットで地球は狭くなったと言えます。媒体も当然、日本中を益々狭くしています。
 特に若い人に受けているというNHK連続テレビ小説「あまちゃん」、その舞台、小さな岩手県久慈(くじ)市の小袖(こそで)地区。殆ど死語に近くなった言葉を、ヒロインらが驚くときに口にする「じぇ」がブームを起こしていると言う事で考えなければいけないと思ったのです。テレビが言葉を広めるいい例です。
 
 音声中心の一元的言語は女性名として仮名は良く使われます。一方、男性名はほとんど漢字であり、生まれると直ぐに言語の世界に入って行くと言えます。表音文字・表意文字の2元的言語を使い分けているのです。名前を呼び合う事が少ない、主語が消える、はっきりしていれば目的語なども省略されると言う事が普通である。私なんか省略が多すぎますので、意味が分ってもらえない。これは少し意味が違います。
 日本人に取って必要となっている、名刺の交換は1つの文字を音と訓があるので、その読み方を分かってもらう為だと思います。読み難い名前にルビを入れる。考えて見れば、ルピがあるのは日本語だけかも?

 外国語は名詞を3つ以上重ねることはできない。日本語なら、例えば、全国大会学術調査協議会事務局となる。時勢については、ハッキリした自活を持たずに日々生活する事が可能である点。
 『古池や蛙飛び込む水の音』飛び込むは 現在形か進行形なのか現在完了形なのか日本人は考える事がない。そして、冠詞がつかないと落ち着かない外国語でも、蛙が一匹でも何匹でも可能な日本人なら気にしない。

 世界に通用する言葉になる為には強国にならなければ駄目なのです。やっぱり、日本の言葉と文字は日本人が誇れるものであります。日本語は素晴らしいと思いませんか、お宅文化、アニメを通じて世界に広まっている様ですが、今まさに、この日本語を世界に広めて行くべきだと思います。
今日は日本語について、少し述べさせて貰いました。この素晴らしい日本語を世界に通用させましょう!!










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313 人生 

2013-08-03 04:35:11 | 思い出日記
 日影 丈吉が小説‘現代呪法’で「人間はだれでも自分だけは特別な運命を持っていると信じやすい。若い人のなかには自分の人生に終わりのあることなぞ信じられないという者もある。事実はともかくとして、そういう感情は不自然ではない。」

 よくこんな文章が書けるなと、羨ましいというか素晴らしいです。当たり前の事ですが、改めて作家とは自分の思いを文章に書いて、言葉を自由にアヤツルものと感心させられます。人生に終わりがあるとは信じられない、この文を読みまして、又、色々と考えさせられました。

 人生を振り返って私の場合でいうと、その通り、人生の終わりばかりか、定年後については殆ど考えていませんでした。だからどうなんですか、と開き直ってしまいます。若い時に、自分の両親が亡くなって本当に悲しかったですが、自分が死ぬとは考えていなかったです。ましてや、死んだ後などとんでもない。そして、社会人になって若くしてある人が自殺で亡くなっても、それ以降も、自分の身の回りに亡くなった人はいましたが、遠い存在でした。しかし、だんだんと知っている著名な人が亡くなって、それも年齢が近くなってきました。考えねばならないのは、その亡くなった人が自分より年下の人もいるようになってきました。今や、あらゆる終わりについて考えるばかりです。

 小説‘鳴神(なるかみ)’で、「ふつうの段階を踏んだ出世コースをたどれなかった者が、芽を出すには、人並み以上の努力をして技芸に上達するか、あるいは、はったりで声望を獲得したり金もうけするより手がない。たいがいの人は下済みの生活に甘んじるか、中には出世をこころがけずにいられない者もある。そういう強い性格の人もしぜんに応分の道をえれぶようになるらしい」。

 はったりで地位声望を得た人は知っていますが、私の場合、なんにでも顔を突っ込み、それなりに人なり人以上にやり、趣味は多いけれど何事も極める前に止めてしまう。遅いですが、何かを極めないと思いますが、気を付けないと、それを考えている内に人生終わります。

伊集院静の‘しぐれの実’で「人の本当のところは見えないもんですよ。目で見えてるものなんてほんのひとかけらしかないものよ、時の流れの中で置き去りにし、あるいは底に沈めて忘れたふりをしてきたものが、人生の終盤に水が引いたようにくっきり姿を現す。時を取り返す事は叶わなくても自分の人生の意味を悟る瞬間にめぐりあうことができる。」と書いてありました。 

 人の記憶とは曖昧模糊たるものです。人生の終盤にかかり始める前に、まだまだやらなくてはいけない事があるはずと頑張って探して行こうと思います。

 情けない事ですが、今気づきました。興味あるものが年々少なくなってきました。これは考えねばと思っていますが、駄目ですね、終活に入ろうとしているのに、気を付けなくては...
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