旅、思いで思い出し           何も知らずに旅にでた!

昔ズート昔、旅をした。何も知らない私が、若かった,若いだけだった!
半世紀前の事....

251 大阪城と美しい大阪 

2012-05-26 05:44:07 | 散策
  大阪駅で環状線に乗る時に、長距離列車でも無いのに2-3分おきに来る列車に一々何時何分発と言っているのをご存知ですか?次の列車が2-3分したら直ぐに来るにも関わらず例えば、10時53分発のように言っていますが、多分ご存知無いと言うか気にしないと思います。
  人生会社を退職すると変な所に興味を見出すのでした。山手線の東京駅で同じ事を言っていたか、気にして無かったので、ご存知でしたら教えて頂きたいです。大阪に住んでいる今、まさか、その為に東京迄行けないです。時間だけは厳格な私もビックリしましたが、ここにもせわしげな大阪が現われていると思います。

 その環状線で前回と同じく2度漬け駄目の新世界の串や京橋店で昼ごはんに!ヤサイ串4本、味噌汁、小鉢、サラダそして白米がついて来て450円でした。安い美味い、さらにビールが290円で言う事ありません。それを頂き出発です。

 この前行ったほぼ同じコースなりましたが、森ノ宮迄環状線に乗って東京の兄と一緒に大阪城を巡ります。まず公園で花木の即売会をやっていました。大阪市の橋本さんが戦争をどう考えているか知りませんが、とりあえず65歳以上の兄は無料と知り、どうしても見てもらいたかった大阪ピースを見学しました。
 そこで大阪が50数回も爆撃にあった生々しさを充分に再認識。沢山の学生が、先生に連れられて見学していました。横で聞こえて来た、ある質問は、戦争当時日本の人口は幾ら位かと聞いていました。それに対して7000万人と答えていたのには、良く答えてたなと思い、流石先生偉いと感心させられました。
 (軍票を沢山もっているので、次に、できればここに寄付しようと思っています。) 

 メインの大阪城は、1931年に市民の募金で再建されたもので、1997年に国の登録有形文化財となりました。歴代の天守は約30数年で消失しているので、現在あるのが奇跡のように戦争で焼ける事無く、80年と一番長く持っていると言う事でした。裏側から入り桜満開で、あちこちで花見をやっていました。石山本願寺の蓮如上人の松の切り株を見学して、お城は近くで見ても本当に美しいと思いました。登るのは今回もパスして表道を探して帰路につきました。石垣の大きな3枚の石に、今まで見た一番の大きさにこの石を取り付けた人達はどんな気持ちだったろうと感にふけりました。
 
 大阪城を出て、この辺りは大阪らしくなくて、よく整備された、広い通りに高いビル群、その角にある大阪歴史博物館に行こうと、透明の屋根で隣接してあるNHKの喫茶店へ行き、喉の渇きを癒しました。 
 歴史博物館はその名の通り、大阪の成り立ちから綺麗な人形、映像とか模型で紹介しています。一番最初に最上階の9階から降りていきます。昭和になって発見された、学校で習った平城京より歴史的に古い、難波宮から始まります。ここに京都の清水を模した新清水寺の説明、江戸時代付近に高い建物が無く、すぐ近くに海が迫っていて、今以上に見晴らしが良く大阪で有数の観光名所だったようです。舞台は現在鉄筋コンクリートでとても当時を伺い知れないです。
 
 ここは展示物も意義あるものが一杯ですが、何といっても何度見ても素晴らしい、一度は見てもらいたいエレベータ-階の窓から見る大阪城でした。毎日見るニュース番組で出てくる風景、そのままよりも美しいと言わなくてはならない物です。見応えあるもので、大阪の良さを一番知らされる場所でした。

 この辺りに以前30年以上前に来てますが、すっかり変わり、確か日生球場があったと思うのですが思い出せません。その球場で、私の世話になったニューオーリンズのアメリカ人の方が、キリスト教の伝道サービスを開催すると言うので行った覚えがあるのですが、その面影は無くまるっきり新しく綺麗になっていました。多分場所違いと思いますが、新しいNHKのビルがそこにあるので間違いないです。

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番外Ⅱ お人良しでどうしようもない人達 後編

2012-05-19 05:36:01 | 日記
 話はまとまりませんが、もう少しだけ付き合って下さい。兎に角どうしてこのようになったのか情けなくて仕方が無いです。皆さんと関係無いのに申し訳ないですが、人に土地建物を譲る場合に一旦法律上ハッキリするべきでした。いつまでも京のボンボン意識があり、そういう意味の人の良さは治らないものでした。

 相続人は今まで不動産税は払って来たと言いますが、一度でも借地賃貸料を請求した事があったかと憤然となります。でも、お金が絡むと人間保守的に家族を守らなくなったのは分る様な、しかし、ひど過ぎます。

 今回、兄が過去帳を見せてもらいたいと言うだけで、そのコピーを近くのコンビニに兄自身が取りに行かなくてはいけないと本当に情けなくなります。 先方の一族郎党沢山に人がいるのに、その中で一番年上の兄が近所迄コピーを取りに行かなくてはいけないとは私には考えられない事でした。私が取りに行きましょうと言う人がいなかったのも我慢がなりません。

 今となっては信じるより仕方無いですが、叔父さんが自宅が火事で燃えた時に過去帳を最初に取りに行ったものですが、その事だけで当時は美談で素晴らしい事と思っていました。

 何も土地や家を問題にしているのでは無くて、親戚としてこれからも付き合おうと思っていましたのに、これで一生、母親の実家に行けないとは淋しすぎるます。
  生前に自分の残した遺産を誰に渡すか明記しとくべきだと思います。何時人間死ぬか分らないですが、40年前に54才で亡くなった母はハワイから戻って来て、そのまま、亡くなるとは自分自身夢にも思わなかったのに違いなっかたのでした。

 皆さんには、この様なお人よしと言うか馬鹿に、今日も付き合ってもらって付き合ってもらって本当に済まなく思います。でも、この気持ちを皆さんだけには分ってもらいたかったのですが、やはり憤懣仕方がなかったのです。

 今までどれだけの人がこのブログを読んで見ているか数字は気にしなかったのですが、最近一日に170以上のアクセスがある日があり、それがどんな事かと考えたのです。以前もそうだったかも知れませんが、一週間に5‐600最高639のアクセス、こんなにも多くの人がアクセスしていると思うと有難く思うだけです。

 相続人は壬生寺で六歳念仏を演じていますので、もう少し我々の心が分かってもらえたら良かったのに残念です。これは私の気持ちですが、相続人は貴方のお父様お母様に是非、本当に感謝をして下さい。これを読まれた方でS家を御存じの方があれば、この気持ちをお伝え願えればとお願いします。

 今回は腹にたまっている話を、ここ2週間に渡って退屈な話しに皆さんに付き合ってもらいました。

 そこで、このブログが一杯になった時様に、欧州編この別のブログの1からまとめています。今読むと恥ずかしい文ですが、もし初めから読んでいないのでしたが読んで下さい。それが目的でしたので、宜しくお願い致します。

 ヤフーかgoogleの検索画面で最初の画面が http://kitashimizu.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/post-5741.html これをコピーしてアクセスして下さい。私の欧州に行った時の思い出が1番から出てくるという次第です。暇にあかして、当時は1日1話を思い出しながら書きました。

 人生死んだら何が起こっても悲しいかな不思議な事はありません。今回、興味無い事に付きあわしました、忘れましょう、長い人生色々あります。基本路線に戻り散策日記を続けて行きますので宜しくお願いします。

 
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番外 Ⅰ お人よしな被告人!(暫く付き合って下さい) 前篇

2012-05-12 05:04:53 | 日記
 そもそもお人よしなのは、我等兄弟のことです。今回、東京から兄が自分史を知りたくて、亡き母親の実家に過去帳を調べに来た事から始まりました。母の実家は、私の知る限り少なくとも18代続いた家で、その家で兄が途轍もない迎えを受けたのでした。

 母の実家を訪問するのに兄は普通に普段着で行ったそうです。だのに何事が起こったのかと思われるような、向こうは家の跡とり夫妻、妹とその家族一同総勢6人が足元に書類を措いて待っていたとの事でした。それだけでは分からないので少し説明します。

 裁判所からある日突然被告人として出頭せよ、ここで出席すべきだったと今さらながら思います。かなり前、平成11年の事でした。私が裁判所に行かなかったのは、それも土地家屋を権利放棄して譲っただけで行っても仕方ないと自分で判断して勝手に思っていたからでした。間抜けた事ですが、権利放棄すれば行かなくて良いと自分で思っていたのでした。

 我々兄弟が、相続できる京の壬生にある土地(約200平米メートルプラス家屋)を権利放棄してあげたのでした。そもそも今は亡き母親の実家の土地家屋の事で私たちは喜んで差し上げたので、もめる事は無かったのです。それだけだったのに、有難うとただ相手側に感謝されると思っていました。
  
 それが何故にこんな事になってしまったのでしょう。そもそも複雑になっている家系でしたが、ややこしいので簡単簡単に説明します。長女であるお母さんは我が家に嫁ぎ、母親の妹(知りませんでしたが母親が違う)婿養子を貰って家を引き継ぎまして私と同年の女の子を設け、2歳位の時に、その叔母さんが亡くなって、血がつながっていない叔父さんが再婚して2人の子を儲けたのです。そのまま平和にズート暮して我々も叔父さん叔母さんとして仲良く接していたのでした。
 我々兄弟はその叔父叔母さんにその家と土地をあげる事で納得していたのでした。私が知っている二人は良い人と思われ思っていたのですが、その両方が亡くなってしまいました。

 その2人が生前の時に、住んでいる土地と家をあげる約束をして印鑑を押しました。総て叔父さんの計画通りに事は行った様に思われます。しかし、手続きのミスがあり、平成11年に再度手続きとなりしました。
 
 その家のお婆さんは厳しくて、寝小便をしたら布団を持って近所を回ったとか、そこで私の懐かしい思い出がありましす。小さい時は、お祖母さんが元気で良く家に遊びに行きました。小学校の時にその家にあった五右衛門風呂に入いる事になりまして、同い年の従姉の女の子(長女、彼女も相続に不満を言って裁判所に行ったそうです)に一緒に入ろうと言われて恥ずかしくて拒否した事がありました。その家も火災で焼けてしまったのでした。

  話は横道にそれましたが、そんな訳で、いきなり被告人扱いでした。暫くして、相続人から、かかってきた電話も私がいない時で、事務的でしたと聞きました。カッとなって電話をかけ直したのでした。これがそもそもいけない事でした。今思うともう少し落ち着いて電話をかけるべきだったと思い悔やまれてなりません。苗字を持って18代も続いたのに、叔父さんにその昔を尋ねた時に百姓だったと殊更に家を低く言っていました。そして、息子(相続人)に毎度会わさなかったのは私と上手くいくはずがないと思っていたのかも知れません。

  私はただ分かってもらいたくて電話をしただけなのに残念です。本当に良かれと思ってやった事がこんなにも不誠実に取られているとは、悲しいばかりです。若かったですが、もう少し説明しますが、今回の兄に対する無礼も許せないです。でも、この文は大分落ち着いてから書いたものです。
 <m(__)m>   (ちびまる子ちゃん風に) 後半へつづく


  
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250 生國魂神社

2012-05-05 05:22:50 | 散策
 本のタイトルも大人の街歩き‘大阪’谷町9丁目で地下鉄を降りました。まず、東海道膝栗毛にも登場したと言う、梅と桜の名所として名高い高津宮を目指しました。いつもですが恥ずかしながら、今まで高津宮そのものを知りませんでした。

 大きな道の裏手を行くと、両側にズート道沿いに大きなお寺がかなりな数がありました。丁度大阪場所をやっている最中で、1つ目のお寺、久生寺に高砂部屋が入っていて関係者以外立ち入り禁止となっていました。

 向かいにある園妙寺は歌舞伎(済みません詳しくありません)に縁があるそうで、看板の説明書きによると、この辺りに良質の水が取れるとして水の寺と言われたそうです。その横に公園に下りて行く道がありました。公園の横に雨の日に関わらず梅の花の道があったので、いずれにしても裏手に出ると思い進んで行くと開けた所が綺麗な梅の花が沢山咲いていました。そして公園が再びあって高津宮への石階段がありました。
 この立派な高津宮を今まで知らなかったとは情けなく思いながら中に入って行くと、かなり実際古そうな石柱に5代目桂文枝と書かれてあって、裏に落語協会の会長桂三枝とあり、思った程そう古い物では無くて平成のものでした。
 丁度結婚式の前で、沢山の人が写真を手にして待っていました。階段の下では、着物を着ているから新郎と思われる人と新婦が小雨降る中を傘をさされて待っていました。階段に通じる石畳の道は門まで長く通じていました。この景色だけで今日来た甲斐がありました。

 向かいに報恩時と言うお寺がありました。お寺には不動尊が法善寺さんのに負けない程のものがありました。このお寺も小さい割には見ごたえがありました。

 通りを挟んで不釣り合いのビジネスホテルと書いてある派手なホテルがありました。1つではありません、派手目の女性が先に朝から働くにしてはと思っていたら、後から来る連れを待っていました。ここはその手のホテル街でした。何故に高津宮が夜に門が閉ざしてあるか分かった気がしました。これが大人の大阪と思いましたが、良く本を見ると紹介されたレストランの値段が高い、今の私から遠い存在となった殆ど1万円以上となっていました。これが大人の大阪であるなら、まだ子供の域を出ていません。

 そこを一人で通り抜けて大通りへ、これは今まで見た中の道路で一番で、御堂筋より同じか緑の無い分広い通りでした。坂の真ん中でセンターラインの柵をまたごうかどうかと考えていましたが、パトカーが停まっていたので歩いて坂のしたへ陸橋を渡りました。

 生國魂神社(いくくにたまじんじゃ=いくたまさん)に行く為に急な、これまで大阪であった坂のある上町台地で一番急な坂を上がって行きました。そこであったのが大阪で一番古いと云われる大きな神社でした。裏から入って行きましたが、神社内にある神社群を指し示した流石大阪、矢印看板が色とりどりに8つもありました。
 
 その看板があって分り易く表示してありました。浄瑠璃神社があって反対方向に井原西鶴坐像までありました。先ず、右の方からと芸事に従事している人がお参りする凄く由緒ある様な、3つ神社が並んでいました。そこを右に行くと断崖占いと言う1人待合室の様な建物の横奥に女性の為の淀君が祭られてありました。まだまだ有るのですがこの辺で正門の方に向かいました。神社の人が乗るのかベンツが境内をゆっくり行きましたが、そこにある神社群の写真つきの看板に、それぞれに総てを成就する為幾らかかるか値段が載っていました。

 そこを出てもその手のホテル街でしたが、源聖寺坂があってここが清水さんへ行くのにはそんなに遠くは無いです。新規墓所受付中、赤い登りを3本上げて募集してました。

 下り終えて、しばらく行くとアパートが畳半畳位の入り口の横に、それと同じより狭い位の幅で5つ位門燈が付いているではありました。こんな所に人が住んでいるとは驚きでした。

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