旅、思いで思い出し           何も知らずに旅にでた!

昔ズート昔、旅をした。何も知らない私が、若かった,若いだけだった!
半世紀前の事....

594 人生100年が当たり前(次回更新予定日 第一土曜日 3月2日)

2019-02-16 04:47:50 | ブログ
 セーラー服の赤いスカーフが笑顔を引き立てる。慰問を受ける方、いえ実際より30才以上は若く見えて、写真を見る限り決して無理している様に見えません。城間ヨシさん(97才)は高齢者ホームの慰問ショーに出演し続ける人気者で、制服姿で歌う「高校三年生」が十八番だそうです。「お家にいたら弱っていくだけとにっこり笑い、拍手がエネルギーの源」だという。定期的に老人ホームからの依頼で、入所者が全員年下の時もある。驚いたのは、この方よりも年上の入居者がほぼ常にいる事です。
 毎日のように頑張らないと言って自分に言い聞かせる。ご飯食べるときも、膝が痛いときでも。みんなを喜ばせて元気を与えたり、もらったり。後ろは振り返らないと目力たっぷりだ。舞台は笑いにこだわる。曲によってスーツや和服など衣装を使い分け歓声を呼ぶ。スカートは膝丈。10代の時に着ていた頃を思い浮かべ「あの時より短いね」人生100才以上が当たり前になってきました。趣味のカラオケが高じて始まった舞台活動。カラオケは60代からたしなみ、慰問や歌謡ショーの舞台に立ち始めたのは80代からというから驚きです。

 昭和も、もう直ぐ100年。普通に話している言葉が死語になりました。その昔、ソ連船で旅立って、フランクフルトのユースで日本人に、それも京言葉を驚くほどノンビリ話す人に会いました。それも御池の室町。我が家から近く、親戚もある近所の人でした。日本を出て2週間しか経ってのに、今までこんな言葉を話していたかと思いました。
 現在、豊中市に住んで、既に私の死語なっている言葉が多いです。文字にするとアクセントが不可能ですが、思い付くままに、おはようおかえり(いっていらしゃい)、おやかまっさんどした(お騒がせしました)家にテレビが無かった時、ヨソの家でテレビを見せてもらった時に常に、さいならの代わりに言ってました、
おつむ(あたま)、ほんねき(直ぐ近く)、おっっさん(和尚さん、発音表現が難しい「お」にアクセント、「おっさん」ではありません )
お揚げさん(油揚げ)、おくどさん(かまど)
いーひん(いない)、みーひん(見ていない)
おきひん(起きない)、見られへん(見る事ができない)
おしたじ(醤油)、だだこ(だだをいう=無理を言う)、寒い寒い、暑い暑い等、二度同じ事を言うこと等々、今は言わなくなりました。
 大阪ことばで可愛いなと思ったのが「言いやんね」、吉本言葉が大阪弁と勘違いしていますが、船場言葉で市川雷蔵が映画「ぼんち」で話した言葉が素晴らしかったです。
 いつもの如く、色々話が飛んでしいました。そういう訳で(どうゆう訳や!)今や標準語を話すようになりました??


 
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593 兼高薫さん(次回更新予定 第3土曜日 2月16日)

2019-02-02 06:13:16 | ブログ
 「兼高かおる世界の旅」は1964年に海外旅行が自由化される前、1959年から放映開始され、パンナムで毎週日曜に世界の各地を巡る旅番組でした。一般庶民にとっては海外旅行は高嶺の花、夢のまた夢でも見ない時代でした。それこそ皆さんご存知ない方が多い、アップダウンクイズ「夢のハワイへご招待」と言った以前に世界各地を廻った凄い番組でした。そんな時に家(うち)の向かいの家族は欧州旅行。ずーっと後で知ったことですが、銀行勤めをした高校の友人がその家の向いの私が友達と断って、預金をしてもらったと聞きました。京の金持ちは違います。
 海外旅行自由化後、今では信じられない1ドルが360円、海外持ち出し額が500ドルで、今なら約5万円程でした。71年に私が海外に出る時はレートはそのままでしたが持ち出し1,200ドルになりました。日当は千円ちょっと、高卒の月給が3万円以下だったと思います。80万円???(現在でも持って無い)を、その頃はできましたが、歯磨き粉の後ろを開けて万札を入れて通関しました。今なら挙動不審者と確実に別室行きになったでしょう。
  貧乏旅行(便宜上です)の時、兼高さんの番組で見たイタリアのチボリの噴水の数々を、実際に見て、それこそ生涯で一番、感動そして感激したかも知れないです。今でも鮮明に覚えていますから、そうなんでしょう。
 現在なら乗ることが無い路線バス、言葉も通じない所でチボリに、どのように行ったのか?今なら絶対その様な行動は考えられないです。時間がありお金がなかったら、何でもやれるものです。

 その兼高さんが、大昔に成田空港パンナム機に乗られたのを今でもよく覚えています。予算が少なかったのか、違うクラスでした。(余談、同じように搭乗を待っていると二重パスポート問題で成田空港でレポーターに追われて走って乗られた大ファンのテレサテンさん。昔に決まっていますが、成田空港で働いている時、夜遅く誰もいない税関内でジョニー・デップがエスコートの女性職員の彼自身のカートを、その場で彼が代わって引いているのに感激、一発ファンになりました)
 
 「若い時は何でもできる!」そんなことはありません。若い時は、何も知らずに、何も知らないから、できるのです。ブログのタイトル「何も知らない私が、若かった、若いだけだった!」 40年以上前の事....(もう直ぐ50年、半世紀前、月日の過ぎるのが驚きです)が本当です。恥ずかしい事に、未だに何も知らない!だのに何もできません。50年進歩無し。
 
 海外旅行の自由化という時代を、その先兵で皆に夢を与えた兼高さんも亡くなりました。淋しい事です。


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