旅、思いで思い出し           何も知らずに旅にでた!

昔ズート昔、旅をした。何も知らない私が、若かった,若いだけだった!
半世紀前の事....

404 Thanatology (死の教育)

2015-02-28 05:58:34 | 思い出日記
  「絶対負けられない試合がそこにある...」と言いながら、サッカーには、又、2度3度チャンスがある。しかし絶対、人間避けられないの、「死」という現実です。

  両親が亡くなって40数年、その両親より10年も長生きしていますが、誕生とは反対の死について、実は余り考えなかったでした。しかし、去年に兄を亡くしてから、自分の終わりと言うものを考えるようになりました。目の前に兄の遺体を見ても、暫く経つと、兄が亡くなったことが信じられないです。何度も言いますが、両親や姉を亡くした時は自分も若くて、自分が死ぬとは考えずに、ただ悲しいだけでした。

 そのような時に、30年程前に書かれた、明治生まれの、当時、聖路加看護大学学長日野原重明 さんの本を読む機会に出会いました。どうすれば生きがいのある人生を送れ、終えられかを考えさせられました。日本では死を話題にできない環境があるのですが、西欧では昔からThanatology=死の教育を研究していると言うのです。

 そして若い時から死を真剣に考えるべきだと知らせてくれたのです。そこで人間60歳を超える頃から、死を考えると言う話がまさに私でした。人間その身になって、やっと自分の事ととして考えてくるようです。その大事な死の教育を未だになされていない国にいます。戦前は日本の平均寿命は49歳、それが戦後30年経って世界最高寿命の75歳までになったそうです。その頃に書かれた本です。

  現在の様に、毎日殺人がニュースになり災害、事故と何が自分の身に起きても不思議ではありません。死といつでも隣あわせになってきているのに、親しい人が死んでも、かわいそうにとか気の毒に思っていた自分があったのです。しかも最近の子供は死とは無縁になるほど兄弟や親せきが少なくなっています。若い人程、最近は死者に会うのが少なくなって来たといえます。
 今も30年前と同じで、死について皆さんは未だ考えてない方が殆どだと思います。確実にある死についてもっと真剣に考えた方が良いとこの本を読んで思います。

 The last of life,for which the first was made。(宗教詩人)人生の終わりはこれからである。そのために人生はつくられたのである。年をとるという事は、決してみじめなものではなしに、人生の華々しいクライマックスなのです。そのプレリュードとして若い時代があるのです。

 信じなくても、人は誰でも死ぬんです。親より長く生きた人生、色んな事を経験しました。そして如何に死を迎えるか改めて考えて行こうと思います。いつもながらマトマリませんでした。
 

 
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403 出会い

2015-02-21 04:48:09 | 思い出日記
 マンションで90歳の人が階段を一人で登って歩くのを見て凄いなと思っていました。でも、世の中にはまだまだ驚かされる人がいました。

 91歳の産婆さんをテレビを見た人もいると思います。一晩寝ずに子を取り上げて、次の日に妊婦であった人の為に買い物まで自分で車を運転して行っていました。家で子を産んでいる時に、途中で産婆さんが倒れたらと、そのまさかの方が心配でした。産婆さんも凄かったけれど、妊婦のその信頼感に感動しました。自分のお母さん、お婆さんと3代とも取り上げてもらったそうです。

 そのような産婆さんが後二人、たしか87歳と78歳の産婆さんがいるのにも驚かされました。91歳がいる為、普通なら一番若い78歳にスッポットあてるはずなのに、78歳まだ若いという事でしょう。地元では3人産婆でサンババと読んでいるそうです。病院で産むのが当然の時に、昔ながら自宅で産んでいる人にも感動しました。まだまだ感動できるのは、私もまだ若いです。

その人たちと比べると、今介護している方は大事にされ過ぎていると思いました。朝、体温、血圧を測り、朝食時に呼びに来られて 朝ご飯。これが幸せかと悩んでばかりいます。

 そのような中で、先の産婆さんと同じ91歳の方がおられます。女学校の時に終戦直後、朝鮮からリック一つを背負って引き揚げて来て親戚に頼ったと話されました。朝、3-4分ほど血圧と体温を計る時に会話するだけですが、上品な方で、もっと話を聞きたくなりました。そこで、その話を書き綴って私たちに残されたら、メモでもいいですからと勧めました。

 その時の事は話したく無い、長生きし過ぎたとおっしゃられました。軽々しく聞きましが、よく考えると悲惨で惨めな事だったと想像します。その事を後世の人たちに伝えるべきだと思いましたが、何も言えませんでした。今はただ、「おはようございます。今日は朝は、寒かったです」と挨拶するだけです。
 
 同じく92歳の方が、2階におられます。その方は、結婚して大阪に来るまで京都の三条麩屋町に住んでいて、何と私と同じ二条中学校、その当時は女子学校に行っておられたというではありませんか。その時迄、二条中学が戦前は女学校とは全く知りませんでした。
 初めの時は、血圧体温で一生懸命で気付きませんでしたが、部屋に京都の絵が飾ってあったのでした。話をしていく内に話が盛り上がって「学校に等身大の女性の日本画が何枚も飾ってあるのをご存知無いですか?」と聞きました。
 半世紀以上も前、壁の上の方に朽ちるがままに無造作に掛けてあったの等身大の日本画の女性の数々、どうしてか不思議に頭に残っていたのでした。女学校なら、謎解きはできたと思ったけれで、ご存知ありませんでした。

 京都人なら誰でも知っている通り名の歌を二人で「まるたけえびすにおしおいけ...」色々な出会いがあって、又、違った楽しみが増えました。
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402 始めることを忘れずに!

2015-02-14 04:56:11 | 思い出日記
  子供が良くごねて泣いているのを見かけます。今頃気付いても仕方ないですが、子供は言いたいことが言葉で言い表せない無いから苛立って、ごねているのでは無いかと最近考えるようになったのです。

 それと同じく、お年寄りの人も直ぐに苛立って怒ります(私も...、年取ったかな、でも我慢ができます)。多分、年を取ると自分の言いたいことが直ぐに出てこない、自分の意思が他人に通じない事が、怒鳴るとなってくるのではと、特に今の仕事をして、そうなので無いかと思ってきました。老人のそう言う面で幼児化が謙虚になってくるのだと思います。多分当たっているのではないかなと思っています。
 
 同じ話を何度もしている人の横で、その話を聞かずにと言うより聞こえない人が、平和に食事をしている人が見受けられます。耳が遠くなることが、幸だと思う事があります。年を取って来ると、隣は何を言う人状態で、この様な人はまさに幸せ。

 何の仕事もそうあるように時間通りに業務を行う必要があります。介護老人のペースはゆっくりしています。例えば、自分で車椅子でいける人でも、押した方が早くなります。というより、気の毒で最終的に後ろから押しています。感謝されますが、運動能力を妨げることになるような気がして罪悪感を覚えます。今日思いましたが、日々衰えている方はその方が良い場合もあります。いろいろと考えされられます。

 先日、仕事が終る頃に、お茶を入れて欲しいと言われたので、食事の後なのでコップに半分ほど入れたら、凄く怒って、一杯入れろと言われました。普通は殆ど飲まないのに、気を利かしたつもりでもダメなのです。次の日まで、もう話もして貰えないと落ち込んでいました。
 しかし、翌日に昨日の事は本人全然覚えていないのでした。忘れてしまうのを忘れていました。と言う訳で、私も多分に、昨日怒ったこと怒られたをことを忘れて、毎日楽しく過ごしています。
 後日談、その方は、最近手が不自由になって、コップを口に運ぶのが大変になって来たのに気付きました。だから、コップにお茶を一杯入れないと飲みずらいのかもしれないのです。ただ、重くて口迄、コップを持っていくのが大変でした。

 老人の悩みは、毎日、同じことばかりで新しい事、新しい出会いがまったく無いので自分で考えねばならないのです。新しい事を始めるには環境が大事だと考えさせられます。そして若い時から、常に新しいことに興味を持っている必要が大事だと思うのです。
 
 「老いることはまた楽しからずや...ただし、始めることを忘れさえしなければ」また、「人が、生涯積み重ねた経験は、作り上げた財産よりも貴重である」先人はいい言葉を残しています。
 
 さあ、みなさんも今日一日を大事にして、若い時から何か、何でも新しいことを見つけようとして下さい。

 

 
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401 思い出思い出し

2015-02-07 04:33:59 | 思い出日記
 週刊新潮に仲代さんの黒澤監督の思い出として、「七人の侍」(1954年)の中に2秒仲代達也さんが出ていると語っていました。前後編約3時間半の映画の中で、たった2秒を探し当てるのは並大抵ではないです。

 「七人の侍」を何度も見ていますが、映画オタクの人達は、仲代さんの出演した2秒を探して見つけ出すそうで、凄いです。端役から登りつめるとは、又、黒沢監督は、その人を見出すとは流石です。映画の構成として、7人の個性の強く出し、村人の個性を出して面白い映画を作ったと思います。まだ、見ていない人もDVDで是非見てください。

 黒澤監督が映画を撮影する時に、当時のハリウッドのウェスタン映画を上回るとして考え、雨の戦闘場面を撮ったと語っていました。さすがに素晴らしい考えであったと思いますが、最後の音はずれの音楽といい、それ以外の各場面も個々に凝っていました。

 思いで深い映画とは何時までも心に残るものです。しかし、見なければ良かったというものもあります。最初の時のように感激しない、自分の思っていたのとイメージと違うものがあると映画「ひまわり」を見て思いました。

 さて自分の事になると、今まで生きてきた内で、どれか自分の印象強い1日24時間にスポット当てて書けるかな、昨日の事でも不可能です。その1コマでも覚えていたら良い方で、このブログを始めたのは、日記があったから書けたのでした。

 学生時代にコペンハーゲンでユースでバイトをやっていた時に、日記を書いていたのです。8人部屋?それさえ忘れていますが、2段ベットの上で、何か日記に書ける事をやることが無いかと聞いたことを思い出します。そんな事も部屋にいた仲間達にとっては思い出に残らない、まあ、暇で怠惰な日々を送っていたのでした。

 日記と言ってもメモ程度の簡単なものでしたが、そのメモが私にとって思い出すには十分でした。又、それを見て思い出すことも多くありました。ほぼ2年の欧州で、デンマークにいた間しか書いていなかったのです。横浜から船でナホトカ、汽車でハバロフスク、飛行機でモスクワ、忘れてしまった事が殆どです。それでも思い出さないと忘れ去っています。

 そもそも400話以上も続くとは、思いもよりませんでした。何時まで続くか分からないですが、日々、私の気に掛かったことを忘れないよう書くようにします。

 今だったら、デジカメで写真を撮るだけで、日記など面倒な事をしなくても思い出す事は可能です。みなさん携帯でもなんでも写真を撮って下さい。老人ボケにならない為にも、年取って昔の事を思い出す為、それも良い考えと思います。
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