「絶対負けられない試合がそこにある...」と言いながら、サッカーには、又、2度3度チャンスがある。しかし絶対、人間避けられないの、「死」という現実です。
両親が亡くなって40数年、その両親より10年も長生きしていますが、誕生とは反対の死について、実は余り考えなかったでした。しかし、去年に兄を亡くしてから、自分の終わりと言うものを考えるようになりました。目の前に兄の遺体を見ても、暫く経つと、兄が亡くなったことが信じられないです。何度も言いますが、両親や姉を亡くした時は自分も若くて、自分が死ぬとは考えずに、ただ悲しいだけでした。
そのような時に、30年程前に書かれた、明治生まれの、当時、聖路加看護大学学長日野原重明 さんの本を読む機会に出会いました。どうすれば生きがいのある人生を送れ、終えられかを考えさせられました。日本では死を話題にできない環境があるのですが、西欧では昔からThanatology=死の教育を研究していると言うのです。
そして若い時から死を真剣に考えるべきだと知らせてくれたのです。そこで人間60歳を超える頃から、死を考えると言う話がまさに私でした。人間その身になって、やっと自分の事ととして考えてくるようです。その大事な死の教育を未だになされていない国にいます。戦前は日本の平均寿命は49歳、それが戦後30年経って世界最高寿命の75歳までになったそうです。その頃に書かれた本です。
現在の様に、毎日殺人がニュースになり災害、事故と何が自分の身に起きても不思議ではありません。死といつでも隣あわせになってきているのに、親しい人が死んでも、かわいそうにとか気の毒に思っていた自分があったのです。しかも最近の子供は死とは無縁になるほど兄弟や親せきが少なくなっています。若い人程、最近は死者に会うのが少なくなって来たといえます。
今も30年前と同じで、死について皆さんは未だ考えてない方が殆どだと思います。確実にある死についてもっと真剣に考えた方が良いとこの本を読んで思います。
The last of life,for which the first was made。(宗教詩人)人生の終わりはこれからである。そのために人生はつくられたのである。年をとるという事は、決してみじめなものではなしに、人生の華々しいクライマックスなのです。そのプレリュードとして若い時代があるのです。
信じなくても、人は誰でも死ぬんです。親より長く生きた人生、色んな事を経験しました。そして如何に死を迎えるか改めて考えて行こうと思います。いつもながらマトマリませんでした。
両親が亡くなって40数年、その両親より10年も長生きしていますが、誕生とは反対の死について、実は余り考えなかったでした。しかし、去年に兄を亡くしてから、自分の終わりと言うものを考えるようになりました。目の前に兄の遺体を見ても、暫く経つと、兄が亡くなったことが信じられないです。何度も言いますが、両親や姉を亡くした時は自分も若くて、自分が死ぬとは考えずに、ただ悲しいだけでした。
そのような時に、30年程前に書かれた、明治生まれの、当時、聖路加看護大学学長日野原重明 さんの本を読む機会に出会いました。どうすれば生きがいのある人生を送れ、終えられかを考えさせられました。日本では死を話題にできない環境があるのですが、西欧では昔からThanatology=死の教育を研究していると言うのです。
そして若い時から死を真剣に考えるべきだと知らせてくれたのです。そこで人間60歳を超える頃から、死を考えると言う話がまさに私でした。人間その身になって、やっと自分の事ととして考えてくるようです。その大事な死の教育を未だになされていない国にいます。戦前は日本の平均寿命は49歳、それが戦後30年経って世界最高寿命の75歳までになったそうです。その頃に書かれた本です。
現在の様に、毎日殺人がニュースになり災害、事故と何が自分の身に起きても不思議ではありません。死といつでも隣あわせになってきているのに、親しい人が死んでも、かわいそうにとか気の毒に思っていた自分があったのです。しかも最近の子供は死とは無縁になるほど兄弟や親せきが少なくなっています。若い人程、最近は死者に会うのが少なくなって来たといえます。
今も30年前と同じで、死について皆さんは未だ考えてない方が殆どだと思います。確実にある死についてもっと真剣に考えた方が良いとこの本を読んで思います。
The last of life,for which the first was made。(宗教詩人)人生の終わりはこれからである。そのために人生はつくられたのである。年をとるという事は、決してみじめなものではなしに、人生の華々しいクライマックスなのです。そのプレリュードとして若い時代があるのです。
信じなくても、人は誰でも死ぬんです。親より長く生きた人生、色んな事を経験しました。そして如何に死を迎えるか改めて考えて行こうと思います。いつもながらマトマリませんでした。