旅、思いで思い出し           何も知らずに旅にでた!

昔ズート昔、旅をした。何も知らない私が、若かった,若いだけだった!
半世紀前の事....

382 一期一会 Ⅲ 思うこと色々         (毎週土曜日に更新しています)

2014-09-27 04:30:33 | 思い出日記
 「一期一会」とは誰が創ったか、いい言葉です。例えば、砂漠でたまたま人に会い、その人と2度と会わないことを言う事だと思っていました。しかし毎日会う人でも、その人が何らかの理由でもう2度と会えなくなる、その時その場が最後になるかもしれないということを知りました。
 現在、勤務しているマンションで亡くなった親しい人も4人になります。みんな良い人でした。今日会うことを大事にしなくては、死に方は様々で、事故で突然死ぬ場合等、年と共に色々と考える事が多くなって来たのです。

 将軍家茂は吃音(きつおん=発音障害の1種)で、いらだって直ぐに怒ったそうです。吃音とはドモリの事と思っていましたが、辞書によると最初の言葉が出て来ない事を言うと知りました。吃音の人は何故怒るのかと思っていましたが、自分の言いたい最初の言葉がナカナカ出て来ない、それを相手が気づいてくれない事にいらだっての事だと分かりました。まして、普通良く会話をする人は、当然気づいていると思ったのに分かってくれないので、それがなおさら将軍となれば怒り狂うのだと思います。

人事であると、なんでも自分がその人の身にならないと分からないものです。最近、突然何か言われたり質問されて、直ぐに答えなくてはと焦ってしまうことが良くあります。そうと分かって来てからは、相手の事をゆっくり聞くというパターンでどうにか過ごしています。現在は、1日に話す会話が短く殆ど限定されていますから、そんなに問題は無く過ごしています。そんな人間が営業をやっていたとは、笑い話にもなりません。

 今、考えると昔はお気軽に仕事、これも、他人の苦労を知らずに来た自分にとっては、今更ながらいい時代を生きて来ました。やっぱり残念ながら、自分の場合は苦労はその身になってみないと分からかったのでした。
 勤めていた当初は、パソコンはまだまだ一般化していませんでした。Windows95が出てきて、やっと誰でも使うようになったと思います。営業をやっている時は、数字合わせのようなものが多くありましたから、高齢者にとってはアバウトが許されないコンピュターが一般化して大変でした。

 前向きの、未来の事を考えて行こうと言う気はまだあるのですが、どうもいけません。人生終盤になって、生きていく、この行程が人生というものである以上、世の中に出て自分の力で、飯を食べている人間なら苦しみのない者はいないと、やっと分かりました。成田に行って若い人達の仕事を一緒にして、自分のドジさも分かりました。海外に気軽に行っていた自分の人生を振り返れば恵まれ過ぎていたと思います。

 いつもの事ですが、話があちこち行ってしまいました。過去を振り返ると反省、反省ばかりです。もう反省は終わりたいと思っています。良かった過去、そしてモット未来を見て行こうと思います。
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381 出会いを大事に!    (毎週土曜日に更新しています)

2014-09-20 04:47:03 | 住宅
 年を感じている暇がありません。新しい事を始めると今までと違った世界を知る、そこに新たな沢山の出会いもあります。しかし、殆どの人は年を取るとそれが段々と自分の世界に入っていかざるを得ないと思います。

 誰でも哀しい事に感じなくても感じても否応なく年を重ねて行く、つまり年を取ると、若い時に比べて動作が鈍くなり、そして歩行困難になってしまう方もいます。やがて車椅子や介護の世話が必要となって益々行動範囲が限られて来ます。一日中部屋から出ないで中に閉じこもっている、外に出ても話す人がいないとなってきます。いたとしても話し相手になる人は殆どが年寄りばかりで、会話と話題が限られてくると思うのです。
 
 人によっては頑固で自分の考えが合っていると会話が難い人もいます。そんな人に対しては、自分の意見を述べずに良く聞けば良いと思うのです。この頃、やっと出来るようになりましたが、これがナカナカ難しいです。

 世の中、一人住まいの方が多くなって孤独死が多いのも良く分かります。他人が毎日元気かどうか確かめても、その人達に1日の内、何時間会っているのでしょう。ほんの少しの時間で話す内容も同じと思います。これが1週間や一月に一度となれば生死を確かめているだけだと思うのです。ますます年寄りが増えて、役所の人も大変と思います。

 今、この様な言い方が正しいか分かりませんが(有料老人)ホーム、他に言い方あれば教えて下さい。そこに入っている人達も、生命の不安をなくしているのですが、ボケの防止は二の次にならざるを得ないと思います。このような中で、自分自身ボケの防止をしなくては他の人に迷惑がられるのです。今からボケないように何か新しい事をしなくてはならないです。でも、本人はボケて何も分からないのです。 
 こんな時に新しい事を始めるというのは、無理な事です。その前に、いろんな人と出会う事を心がけなくてはと思います。幸いと言うか、恵まれていると言うか不幸というか、色々私の場合やっています。

 若い時は自分の身の回りの事で精一杯でしたから、気にしなくてもそれなりにやってきましたが、今までの人生で出会いと言うものがどれほど大事かと思うようになって来ました。どうしても新しい人に会う事、新しい事を始める事が少なくなってきます。今日を大事にして、今日会った人を大事にしなくてはと思います。

 先日、お年寄りの方に、「貴方の様に年寄りの人の方が、親切ね!若い人は駄目だと」言われました。私が年寄り、言葉の選び方が間違っていると思いたいですが、私も年寄りの仲間に入るのか考えさせられます。

 (今あることに)か、感謝、き、希望(を持って)、(何事にも)く、くよくよしない、(自分自身の)け、健康管理、(思ったら)こ、行動、「かきくけこ」の精神を忘れずに皆さん、お互い頑張って行きましょう。
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380 昭和住宅 ストークガーデン        (毎週土曜日に更新しています)

2014-09-13 05:04:38 | 住宅
 5年程前に関西を中心に営業している昭和住宅で家を建てました。先ず最初に気づいたのは、屋根裏部屋の物置から屋根裏に抜けるための戸がずれていたのを見つけたことでした。30cm四方程の戸は閉まらないけど、見えない所だからと、まあ良いかと思っていました。そもそも、それから始まりました。

 その前にもありました。家の外側に雨水の後がどの家にも付いていたのを我が家が入る前に改善して貰いました。そして、暫くしてから家の外側の下水管から汚水が漏れたのでした。数度の調査の後に、結局外階段を壊して分かった事は、2メートル程の木が詰まっていたのです。
 その外階段と下水管は新しく作ったもので、信じ難い事でした。とりあえず木を取り除きました。その間、トイレは使えなかったのです。でも早めに汚水がもれて良かったです。取り除いた外階段5段程が色が違ったのですが、その内、変わると言う事で、了承しました。そしてガレージの入り口の下が、他の家に比べて違うので他と同じように石を入れてもらいました。

 トイレと言うと、自動で便座から離れると水が流れるというモノです。小の水の流れが悪くて2年ほど経った時迄、総てを大にして使っていました。恥ずかしながら自動とはそういうものと諦めていましたが、他の数々の苦情のついでに言うと、簡単にトートの人が直してくれたのでした。今までの辛抱は何かと思いました。

 今度はトイレのクロスがずれているのに気づき張り替えて貰うことにしました。クロスの模様を選ぶ為に、分厚いサンプル本を3冊持ってきました。それで選んで待っていましたが、特に困るものでないので辛抱強く待ってました。何時までも来ないので電話で催促すると、選んだクロスの型番が古くて、製造していない、もう無いと言うのです。そこまで2年です。その間に、主寝室のクロスもズレていたのに気づきました。目立たないのでそれを修繕するのを諦めるので、風呂場のゴムパッキングを替える事を引き換えに諦めました。

 しかし、パッキングを修繕後、ドアが曲がっている為にこれ以上直らないと、パナソニックの人は逃げるように帰って行ったのでした。その間5年、ナショナルからパナソニックになりました。これは見にも来てくれませんでした。そもそも初め2年程して、毎年住宅はどうなっていますかと聞くと言っていたのが、その時の電話1度きりでした。それなら言わなくても良いのに分からないサービスでした。

 それから隣の境目で雨跡が酷かったのですが、クレイムの対象外ということでした。5年たって最後に苦情を昭和住宅の支店長宛に書きましたが、もう諦めた時分2週間ほどしてお詫びの言葉が、タイプ打ちで送られてきました。
 支店長は代わっていて、今後は直ぐに対応しますとか書いてありました。返事が直ぐとは2週間も掛かると言う事です。そして、誰が打ったのか署名はタイプ打ってありました。 

「還暦を迎えて、家を建てる馬鹿」この場合は意味は違いますが、人生最後の大きな買い物が、気分の悪い思い出となりました。家1軒こんなにも建てるのは大変です。大変と知らずに現在バイトバイトです。そのお陰で沢山の人と会えました。今ある事に感謝です。

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379 京都に爆弾が落ちた!          (毎週土曜更新しています)

2014-09-06 05:49:35 | 思い出日記
  京都に爆弾?本当です。京都は戦災に遭ってないと思っている人が多いと思います。昔、我が家の裏に1発、伏見の方に1発落ちました。聞いたのはその2発だけと思いましたが、念のためにインターネットでチェックしました。
  違いました昭和20年1月の馬町付近の爆撃では死者41人・被害家屋は316戸に上ったそうです。これが京都空襲の最初で、その後も散発的に爆撃がありました。そして、6月には西陣に7発の爆弾が落とされ、死者50人・被害家屋は292戸もありました。日本住宅を火災にして短時間で、破壊するのが目的に作られた、悪魔のようなばくだんで、焼夷弾いいます。B29が空からこれをいっぱい民家に落としていったのです。無差別にです。
 全然知りませんでしたが、「智恵光院通下長者町上る」にある辰巳公園には、西陣空襲を忘れていかないようにと建てられた石碑もあるということです。ほんねき(直ぐ近所)ですが生活範囲外でしたから、今度、機会を見つけて言ってみたいと思います。

 焼夷弾は、しょういだんと言います。『小さい頃、親からその話を聞いてたので子どもの私は焼夷弾の難しい漢字を知らないし聞き違いをして、「しょうゆ弾?」というと、母が爆笑してしょうゆじゃない!しょういだんって何度も言わせた事があります。』これは残念ながら他人の話で、恥ずかしながら私は今回迄‘しょうゆだん'と思っていました。

 我が家は私がまだ小さい時、2階の天井が編みこんであって、母に聞いた所、終戦まで焼夷弾が落ちた時に大丈夫なように天井を抜いたと言っていました。子供の時ですから、そうかと思っただけでしたが、屋根に落ちたら同じ事とでは無いのかと思います。戦前の人はみんなそう思わされたのではと思いますが、未だに分からないです。未だと言う事は、一生分からないです。

 母親に聞いた話ですが、その焼夷弾が我が家の裏に落ちたと言う事でした。当時は土間でしたから、土がみんな床の上に上がって、我が家も疎開したそうです。良くこんな所に疎開したと思えるのですが、北大路を(北)上がった親戚の近くで、今なら車で行けば10分はかからない所です。その家を売ったお金を貯金したのでしたが、銀行も潰れ何も残らず仕舞だったと聞きました。

 私も知らなかったことですが、昔、大阪の中堅の旅行会社の支店長が、嬉しい事にその当時の我が家を知っていまして、その町内は我が家を含み3軒で持っていたと聞きました。自己満足ですが、写真で見る限りナカナカの家でした。私はその家より2筋下がった所で生まれたのは確かですが、どうして本籍が疎開先の北区になったのか聞かずしまいでした。その後、私が生まれた工場兼住居が我が家になったのです。

 堀川通りも今のように広くは無くて、良く四条のように繁盛していた通りだと叔母さんが生きている時に言っていました。その家は蒟蒻屋を始めたばかりで、失敗して蒟蒻を堀川に良く捨てたそうです。その叔母さんも戦争によって道路を広げるので立ち退きさせられたので被害者でした。

 

 


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