旅、思いで思い出し           何も知らずに旅にでた!

昔ズート昔、旅をした。何も知らない私が、若かった,若いだけだった!
半世紀前の事....

465 あれから3年 Ⅱ 「難しいが信念」 (毎週土曜日に更改しています)

2016-04-30 04:21:12 | 高齢者
 私の経験してきた事、楽しい話や愉快な事をこの場で紹介しょうと思っています。しかし環境がそうはさせない様です。103歳以上生きるのは無理かも知れないです。

 高齢者ホームから、救急車で病院へ運ばれる方が多くあります。帰って来られるとほっとして良かったと思いますが、そのまま戻らない方も多くあります。 

 丁度一年前、この欄で言いましたが、何時も朝ベットの上で足を上げて運動しておられる方がいました。一番にお通じはありましたかと聞くと、楽しそうに、ちょこっと、ホンの少し出たと言うのが日課になっているお婆さんです。私の顔を見て、朝を知るといっていました。
大きな大きな分厚い本「聖徳太子」持てるかなと言うのを読んでおられました。私と会う短い時間に聖徳太子について語る元気な人でした。その方が、肺炎を興して救急車で運ばれました。その数日前、棺桶に入った人達がみんな笑っている面白い夢を見たと言っていました。こんな事もあるんですね、多くの人と同じように帰って来られませんでした。

 最近に亡くなった高校の先生のセピア色の昭和42年、当時35才当時の新聞の切り抜きが出てきました。高校野球の公式記録担当者としてやられていた当時の記事でした。「人」の欄で、「むずかしいが「信念」」と真剣な目つきで白球を追いスコアブックに鉛筆を走らせる。と紹介されていました。

 忘れていましたが、実は先生の前に公式記録員でした。西京極の一日の試合を京都新聞に報告するのです。その時の間違いを訂正したと言われていました。何も知らないのは怖さ知らず、あんなボール取れて当然、即、スコアボードに自分が取れるはずが無いのにエラーにしていましたが、ヒットにすればバッター、守り人にも共に良かったと悔いています。まあピッチャーがエラーの方が、いいから良しとしましょう。

 実兄、年はズ~と若い真央ちゃん大好き仕事の先輩、高校の先生と立て続けに3年の間に亡くしました。それ以外にも親しくした人、高齢者ホームでも度重なる死、バイト先のマンションでも何人も亡くなっています。その中には、手弁当で応援しようと思っていた、まだ若い市会議員の方、最近こんなにも多くの方の死と関わっています。

 考えると先生は病院でなく、自宅で亡くなったのです。その場合に警察が入りあれこれ残った人に質問されて大変だったと思います。孤独死、かっこいいと言いましたが、決して自宅で死ぬとは考えないで下さい。まあ、死ぬ時は考えなくても死ぬものです。

 やっぱり、余り考えない方が良さそうです。
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464 震災 (毎週土曜日に更改しています)

2016-04-23 04:47:09 | 地震・震災
 「天災は忘れた頃にやってくる」、それは昔のこととなりました。「天災はいつでもやってくる」前の震災を、はっきりと覚えている時に、熊本で地震が起きました。

 覚えているのは淡路神戸大地震です。その時に震度4を経験していますが、大変凄かったでした。震度6や7が何度もあり、4が弱いと思える地震...訓練で、震度7と言う事でテーブルの下に入り体験しましたが、本当の震度7とは私の想像を超えると思います。
 テレビでニュースを見ていると、ウルトラマンが怪獣と市街地で戦った後そのもので、小さなテレビ画面を出る事もありません。実際を見なけてば分からないのです。

 淡路神戸大地震の時に宝塚まで救援物資を持って行きましたが、途中家が壊れたり、人が公衆電話(当時は携帯電話がありませんでした)に列をなしている姿を見て想像を超えていました。
 その話をした所、友人が実際に東北大震災を見に行きました。機会があれば、迷惑にならない事を前提に現地を見て下さい。見る前、見た後では全く考えが違ってきます。
 
 震災の時に親と近くが便利と同じ神戸のマンションに住んでいる人がいました。そのマンションが倒壊して、マンションのローンが2重、新旧4重は支払えないと困っていたことを思い出します。

 東北の震災から5年が過ぎました。震災に遭われた方、亡くなった人、そして経済的にも考えられない程、苦しいと思います。現地の回復状態をみると、まだ更地にしただけで、やっと0、ゼロからの出発が今始まったと言う状況です。まして親族や知り合いを亡くされた方は、5年というものを受け入れたくないと思います。

 そして又また熊本大震災、日本中何処のとか云えない程の数々の火山の噴火が日本の状況です。地球の将来は、まさに、小松左京さんが書いた「日本沈没」そのものかも知れません。先日、別の惑星に生物がいないかと衛星を飛ばす話がでてきましたが、段々と映画「猿の惑星」が現実味を帯びてきたように思います。それこそ、考えても仕方が無い事です。
 
 今のところ、命が助かっただけ良かったと思いますが、これから先のことを考えるとやり切れなくなって将来を思い、自殺とか考えない様に祈っています。

 震災の時は、歩くのが一番です。動きが取れない、自動車での移動は大変な渋滞に巻き込ます。又、その渋滞を助長することになります。私は50㏄の単車で走りましたが、抜け道は駄目で、大通りを行くのが良かったです。
 そうです、毎日、生きることだけを考え、それが亡くなった人達への供養です。頑張って下さい。
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463 あれから3年 (土曜日に更改しています)

2016-04-16 04:52:27 | 人間
 「103歳になってわかったこと」を書かれた篠田桃紅さんは、死を意識したこともありませんと、死に関して、人のかかわる事で無い、又、かかわれない人の領域では無い事に思いをめぐらせても心理にちかづくことはできません。毎日を自然体で生きるように心がけるだけです。 実際その通りです、素晴らしい考えですし、良く理解もできます。

しかし、毎日ニュースでは何十人、何百人死傷した、そして毎日のように国内外で凶悪な事件が報じられています。この3年間、考えられない程、異常に多く人の死に目にあっています。あの人達がもうこの世に存在しないとは不思議な気持ちです。

 早いもので、兄の3回忌にお参りに行って来ました。最後に会った時、楽しく話そうとしたのですが、涙が出そうで声を出せませんでした。兄は延命治療を拒んで死を選びました。

 私が初めて亡くなった人を見たのは叔父でした。確か、50年もっと前、肺の手術で亡くなりましたが、キリスト教会で執り行われた葬式でした。棺に横たわった叔父さんに花を一人ずつ捧げました。その印象が残っています。その時、生まれて間も無い子と小さい子二人を抱えた叔母は今も元気です。想像すらできない程、それから半世紀以上は大変な苦労で育てたと思います。

 親が死んでかなり立ちます、父は肝臓を悪くして、その母は1年後、ハワイから帰って来たその日に脳溢血で倒れました。そして、ここ3年の間に、自分の周りの方が次々と亡くなっています。

 偶に会って話すだけなのに不思議に何となく気があった人がいました。同い年の方でしたが、余命2ヵ月の癌と言われて入院しました。そして本当にあっけなく亡くなりました。
 亡くなる少し前に箕面市民病院にお見舞いに行きましたが、カーテンで区切っただけのせまい4人部屋に特にする事も無く退屈そうにしていました。亡くなるその日、4時間前でも普段通りだと聞きました。知る人の中では一番気楽に亡くなられたと思います。

 先日亡くなった先生は、大腸癌で孤独死だと聞きました。半年前、甲子園に行くから会えないと元気よく言われていました。信じられません、癌で病院で亡くなったなら分かりますが、孤独死??本人は、そうです末期癌と分かって最後を自由にカッコ良く生き抜き、1人で死を迎えたに違いありません。そうでなければ、オカシイです。本当にいい先生でした。

 人、様々な亡くなり方があるものです。今の私にとっては、死を考えないのは難しいことです。

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462 時代小説と歴史小説 (毎週土曜日に更改しています)

2016-04-09 04:36:39 | 
  恥ずかしながら、どうしても、知らない事が一杯あり、このフレーズこれからも良く出て来ると思います。人生を振り返って思い直すといっぱい過ちが多いと思ってください。
 
 この年まで、時代小説と歴史小説と2つあったのを知らなかったこと。それどころか、その違いがあったのをまったく考えていなかったです。本を良く見ると裏表紙の物語の説明に時代小説と書いてあるのに気が付きました。

  今まで何ともなく沢山、面白く本を読んでいましたが、時代小説と歴史小説の2つの種類の違いを全く意識せずにきました。時代小説は流れゆく歴史の中に、実在した人物や架空の人間を結びつけて物語を創作していく小説であり、歴史小説は歴史という事実の積み重ねの中で、実際に生きていた登場人物を描く物語であったのです。最近は時代、それと歴史小説ともにハマっています。どちらかと言えば、気軽に読める時代小説を好んで読んでいます。

 歴史上に名を残す人達はそれなりに文献も残っていると思いますが、その他の人やその生活を映し出すのはわずかに残った家財道具や今に残る家から想像するよりありません。時代小説は本当にあった様に、当時の生活がそのようにあったかの如く面白く書かれています。

 ただ、驚くのはドラマや映画になった時に、着るものが新しすぎて、下ろし立てのような着物を長屋の子供まで着ているのを見て落胆することが殆どです。現在のように摂取する油ものが少なかったとはいえ、私の子供時代も洗濯自体大変な重労働であったと想像できます。それにしても着物が綺麗すぎる。

 宇宙から日本列島が明るいのが分かりますが、それに比べて北朝鮮の暗さが分かります。戦前、又、その前の電気が無かった暗さは計り知れないです。時代小説を読むにしたがって、我々にはその暗闇は想像できない暗さだったと思います。

 芸者の顔におしろい(白粉)を塗るのは、お座敷で夜、行灯でも顔がハッキリ見えるようにしていたらしいのです。今でも寒い冬をせんべい布団で、まだ布団があるだけマシな暮らしていたとは昔の人は強く無ければ生きていけなかったと想像します。

 私の子供の頃はせんべい布団とは言わないですが、畳の上に布団。今のように毛布を2枚とは考えられない、足元に確か黒の陶器の中に豆炭を入れていたと思います。その様なものがあったか不確かですが、よく火事が起きなかったと思います。毛布無く、暖房無くて、布団も薄く、昔の人は良く冬を越せたなと思う様になっています。栄養状態だけでなく、長生きできなかったはずです。
 
 
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461 雨にも負けず (毎週土曜日に更改しています)

2016-04-02 04:11:53 | 思い出日記
 「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」宮沢賢治。そうあって欲しいですが、現在、理想主義としか言いようが無いです。人が殺し合う戦争をしている国、そこから逃げ出してくる人。戦争を抑止する為に戦力を増強しなくてはいけない国。世界中幸せに何かをしなくては、思っても自分の身の回りも幸せにできないのです。アメリカは建国後30年の間を置かず戦争をしていて、日本は戦後70年、戦争無しです。

 戦争は沢山の人が死にますと言うより殺されるます。毎日人を殺すとのニュースがあり、人の命を軽く見ているとしか思えない。そこで世界中幸福などましてありえない、現在社会においては夢の世界であるとしか思えないです。しかし、どのような状態においても幸福は人類全ての希望と言えます。
 
 宮沢賢治さん、残念ながら、なかなかそう幸福にはならないです。しかし、宮沢さんは死者の幸せ、これから生まれる者の幸せ、みんなの幸福を思って言っているのだと思っています。

 とても不思議なのは何時も当時の人の多く宮沢賢治さんも含み、暗そうな写真を見て、特に「銀河鉄道の夜」等メルヘンチックな本、失礼ながらどう見てを書いた人には見えません。外見とは本人の本質と違うものだと思うのです。
「どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行こう」と数々の童話、詩を書いて「雨ニモマケズ」を書いてから約2年後37歳に亡くなりました。若いです、でも約100年前に生まれて亡くなった人の作品が今でも新鮮に思えるのは素晴らしい事です。感受性が凄い人です、外観で判断はいけないとの言葉を忘れずにいなくてはいけないです。

 フィーリングで判断して、つまり第一印象で、どうしても人を見てしまうという私です。それが外れる場合が多くあります。では、人から見て自分の第一印象とはどのようなものか、考えもしなかった事に最近目が覚めました。多くの人は自分の第一印象を考えたことがないかもしれません。何か面接を受ける時は、考えたかも知れないです。私は、その時にどう答えようかと、そればかり考えていました。

 他の人が感じる自分の第一印象、今まで思って考えたことがありません。これが、ダメなのと分かりました。考えると自分では第一印象が良いと勝手に思っていました。思い出すと高校の時、友人の妹に親切に優しく話したつもりで、怖がられたことがありました。その時に改めていたらと思いますが、そんな昔から、やっぱり無理かも...


 
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