旅、思いで思い出し           何も知らずに旅にでた!

昔ズート昔、旅をした。何も知らない私が、若かった,若いだけだった!
半世紀前の事....

90 風邪気味 Ⅲ 

2009-12-31 19:33:55 | 日記
10月20日 晴れ 時々 雨

 太陽がまぶしくさしてきました。久々に太陽を見た気持ちであります。風邪の方はだいぶ良くなった様です。しかし、腰がまだ痛くてしょうがないのでした。

 人にあって聞かれたら取りあえず、‘余り良く無い’と言おうと決めました。オフィスに降りて行くと、ベントが‘ボーダン ハードゥデイ’(調子はどう?)と早速聞いたので、すかさず‘ヤハデゴッツ’(良い)と言ってしまったのでした。

 習慣とは恐ろしいもので、いつもの様に答えてしまったのでした。言うべきことは‘イゲ ゴッツ’(NO GOOD)と言うべきで、調子は良く無いと言うべきでしたが、習慣でそう言ってしまったのでした。と言うより、調子に乗ってそういったのでした。

 今日もみんなのパンを買いに行くと、急に天候が崩れて、雨足が強くなったのです。雨は強く、どんどん強くなって、日本にいれば誰かの迎えも期待できるのですが、ここはコペンでその期待もできないのです。パンを抱えて雨が小降りになったので、雨の中を走って帰ったのでした。

 帰るとみんなが驚いて大丈夫かと聞きましたが、多分、待ってれば良いのにと言う様な感じでありました。でも、この先天気がどうなるか分からなかったので仕方無いと思います。

 昼食を、食べていると日がさして来たのでした。その変わり方は信じられないものでした。私たち日本人にとって全く変わった天候であります。

 その後、ユースで土屋氏から習った折り紙を、みんなの前で折って見せると大変喜ばれたのでありました。動く鶴は勿論、一つ一つが珍しがられ喜ばれるので、嬉しかったので折れるだけ沢山折ったのでした。

 その為かどうか、夜は身体の具合が悪くて、直ぐにベッドに入ったのですが熱の為にナカナカ眠れ無いのは、昨夜と同じでありました。



87 風邪気味 Ⅱ 

2009-12-30 20:08:18 | 日記
10月18日 雨

 どうも先日来の、風邪の具合が思わしくありません。憂うつな気持ちで、いつもの様に朝にオフィスへ行くと、日本から3人から手紙が来ていたのでした。嬉しかったのと時間があってので、3人の手紙を何度も読み直したのでした。

 風邪がヒドクて、カーナにエアコンを直して欲しいと言ったところ、日本の切手をあげたのが良かったのか、快く一生懸命アレコレ見てくれました。所が、しばらくして、直す事をあきらめて、やっぱりヤンが来るまで無理と言うではありませんか。結局、休み明け迄、待つことになったのでした。
 仕方無く、辛抱して結局ベッドで眠る事にしました。しかし、熱があるのか良く眠る事ができませんでした。

 夕食後は、ゆっくりと思ったが、甘かったのです。6時過ぎに風邪をひいているので手伝わなくていいと言うかと思ったら、そうはいかなかったのです。
 その後は、カスッテン等がスウェーデンに一週間程行っているので静かだったけれど寝る事が出来ずに夜中の1時過ぎ迄寝られなかったのでした。

10月19日 小雨

 少しばかり身体の調子が良かった。いつもの様に駐車場を見るとヤンはまだ来ていない様であった。聞くと、今週は祭日があるのでヤンは来ないと言う事でした。

 リンダも来ないかと思っていたら、10時過ぎに掃除を始めたので、手伝う事になったのでした。ディッテはと言うと、彼女も今日は休みでした。今日は殆どのスタッフが休みと知ったのでした。

 いつもの様に、パンを買いに行くと、少し雨が降り始めたのでした。雨に濡れた為に少し寒気がしてしまったので、急いで帰る事にしたのでした。

 部屋に帰って少し眠る事にしました。いつもよりは良く眠れたが、ダンダン疲れてきました。(シンドイ(疲れた)が漢字変換できないので、初めて標準語で無いと知りました)
 

82 憂うつな日 

2009-12-25 19:27:19 | 日記
10月12日 小雨

 どうも、今日の天気の様に気持ちがすっきりしない日でありました。自分自身で11月1日にここを出て行く事を最終的に決めたのでした。

 昨日、私がここを何時出るかと言う事は話したはずなのに、未だに何も言ってくれないので気をもむばかりでした。かと言って、こちらから聞くのも嫌だった。

 ディッテ迄も、何時もと違うように見えてきたのでした。どうも長く居過ぎた様でした。

 つい1週間前に何時出るか考えていた事が、何も決められないからこんな事になったのでした。そんな時に、ベントが優しく声を掛けてくれたのです。ハイキタ(私)と言ってくれたそれだけで今の自分に取っては気も楽になりました。

 それにしても、何もかも嫌になり、いっそ日本に帰ろうかと真剣に考えたのです。ノイローゼ手前、ホームシック色々ありますが、落ち込んだのです。

 まるっきり知りあいも無く、身寄りもなく、良く既に4カ月、今まで京都を出た事が無いのに一人切りのこの生活したと思います。
(結局、この後も1年と数カ月も海外にいるとは想定外の事でした。)

 そんな中、マリアンがどうしてデンマーク語を習うのかと聞いてきたのでした。その意味は直ぐに出て行くのに習う必要が無いのにと取れたから、頭に来たのでした。

 TVを見ていても、沢山の人の中、自分一人でTVを見ていると言う雰囲気になって、どうも、気まずいのでそこを出たのでした。
 今日からリスベットを言うわりと可愛い子が、学生研究で一週間滞在する事となったのです。しかし、どうも好きになれない様に感じたのが第一印象です。

 最近、気を使い過ぎるせいか、少し疲れ気味で目も痛くて仕方が無かったのでした。とにかく、新しい道は自分で切り開かなくては、1週間前にここを出る事をもう少し真剣に考えていたらもっと気が楽だったに違いないです。

 もっと勉強の為を考えれば、この施設だけで無く他のものも見て、又、滞在して内情を知らなくてはと思いました。
 これで、もう一つ施設を見たいと、ヤンに頼めばそれも可能ですが、どうも人を見る目が無いのかそれも嫌になったのです。 厳しいベントの方がよっぽど良い人間と気付いたのでした。
 

 

81 進路 

2009-12-24 21:38:26 | 日記
10月11日 曇り後 小雨

 昨日の夜にユースから土屋氏が訪ねて来たのである。彼が来るまで何度かバス停まで迎えに行き、やっと着いたのでした。
 ベントに泊まる事を伝え、それから風呂に入り、そして遅くまで話したのが、答えてのか2-3度見にいったが、結局10時近く迄寝ていたのでした。

 彼に各部屋をみせる為に、掃除のかたわらアチコチ見て回った。11時半にディッテが来ているので下へ降りて行った。いつものように洗濯屋とパン屋へ行った後、昼食は2人で食べました。
 彼はまだ黒パンが苦手であったようだ。今日は生憎と言うか、私の知る限り初めてディッテが余り機嫌が良く無かったのです。彼はまずい時に来たと思っていたが、帰る時には機嫌がなおり、いつものように笑顔で送ってくれたのでした。最初で最後の訪問者でした。

 今日は、ヤンに何時まで、ここに滞在する予定かと聞かれて、1月に初め迄いたいと答えたが、余りに長すぎると自分で思ったのでした。
 とりあえず、今日の会議で話し合うとヤンが言ったのでした。私も会議に出られると思ったが、彼が今日は遠慮するように言ったのでした。初めて自分を外したミーティングで何か仲間外れにされたような気分になったのです。

 今日はパーティをやるので参加しないかと、言われたけど、デンマーク語の学校へ行くからと断ったのでした。(多分、落ち込んで、ひねくれた為だと思います。)

 そうまでして行った学校は、雨の降る中、こちらに来て初めて着る一張羅のダブルのジャケットで出かけましたが、いつも通り全くもって良く無かったのです。
 初めて本を使う授業でかなり前よりは分かり易かったのですが、こんな調子なら教師はいらないのではと、思ったのでした。寮でみんなに教えてもらう方がよっぽどいいと思ったのです。

 学校から帰って私がどれだけいられるか、聞けると思ったのでしたが、何も言ってくれませんでした。自分自身この施設から、学ぶ事はそう多く無いと思っていたのだが、冬にここを出るのは躊躇したのでした。

 (今、私が書いていて、この先どうなるのだろうと思っています。今までやった事を考えれば良く施設の人達が私の滞在を許していたなと思います。)

80 ニュータウン 

2009-12-23 19:04:54 | 日記
10月10日 曇り のち 晴れ 時々 小雨

 やっと北欧の天気らしくなって来ました。(実際は北欧の天気がどんなものか知りません。多分、快晴が殆ど無いのが北欧風と思われます。)

 朝、起きるのが辛くてしばらく寝ていました。それでも昼食時にはちゃんとキッチンにいたのでした。(どうも、朝は抜いていた様です。気楽ですね。)

 お昼は、鶏肉でしたが、私はお腹が空いていたので二つも食べたのでした。(食べる事はキッチリしているのでした。)そして、テーブルの上を片付けをやり始めると、皿拭きを手伝うように言われたのでした。(自分から、率先してやる事無しに他人から言われてやる事に不満を持っていたようでした。いずれにしても、余りやる気が見えない様です。)

 午後は、オフィスのタイプでデンマーク語を勉強したので、ヒドク疲れました。TV室での番組を見たりして、43号(サロン)で音楽を聞いたりして時間を過ごしたのでした。

 夕食は、今日はおばさん達がいないので我々がやるので、5時半頃に降りて行った。まだ、誰もいないので一人で用意をしていると、ヤンがビールを取りに来たのでした。彼女と何処かへ行ったいたような雰囲気でした。(ここにビールが置いてあるのが、不思議?)
 
 その後、ベントがやって来て、私が仕事をしているのを見て嬉しそうな顔を見せました。やはり、心配してくれている事を知って安心したのでした。(誰でも心配するほど仕事していないでは、ありませんか。自分の日記を見て、こんな人間(私)がいたら、私なら直ぐに辞めさせたと思います。どうも、若いと先の事は考えていないです。今日の天気の様です。)

 彼は、その後、別の所へ連れて行ってくれたのでした。学生寮の様な建物で、その一室の一人の少年の部屋ですが、その少年は留守で誰もいなかったのです。仕方無しに帰る事にしたのでした。多分、その少年の生活を見せたかったのだと思いました。その時、その周りの商店街やドライブインシアターの規模の大きさにビックリさせられたのです。こんな大きな施設はユースにいれば見過ごしたでしょう。
(今なら、こんな事にも驚かなくなってしまっています。京都から来た人間です。当然、日本から来た人間がこれを見て驚いたでしょうが、今となっては、当たり前の施設です。)


78 失敗 

2009-12-21 21:34:32 | 日記
10月7日 つづき

 夜回りで、みんなの部屋を回るのでした。部屋に帰ってるかどうか思っていたら81号室のスザンヌの部屋が火事だと言うのです。火事はボヤでしたが、ポールが忙しく立ち回ったのでした。
 私はオフィスが誰もいなくなるので、そこを離れる訳にいかなかったのです。スザンヌは気が強そうに見えて、陰で泣いていたのでした。私はどうする事もできませんでした。

 そんな最中に、カッステン、マンネッタ、カールとマックスが薬を欲しいと言うので仕方無く戸を開けて薬をあげたのでした。
後から考えて、どんな薬か分からないものを彼らに渡してしまった事を悔いたのでした。
 人に強要されると、断り切れない私の弱点がもろにでた結果であるが、又、注意される事を覚悟する必要があるようです。

10月8日 曇りのち雨

 昨日のミスで、とうとう皿洗いになってしまったのです。結局の所、他に脳が無い為に、仕方無い事である。

 私は奉仕で皿洗いをやっているのに、今まで以上にみんなが何をキッチンでやっているのか分かりました。私が入ってそれを良い事に他のおばさん方がサボるようになったのです。
でも、私が誰も英語が話せずに、一人ぼっちで仕事をしているので、どうも他の人を悪く見るようです。反省です。

 昼に会議に出たっかたが、皿洗いの為に少し遅れたのでした。部屋に入ると、へニングさん
が私の席を示してくれたのでした。ディッテも参加しての会議で、彼女の暖かいまなざし
が嬉しかったのでした。

 会議はいつも通り全く分からないので、退屈でしかった無かったです。それが終わると別にやる事が無いので、部屋に戻ったのです。
一人になって、他人にどう思われているか、ヤンやベントには良く思われなければならない等、色々考えさせられたのです。全く疲れる仕事であると思ったのでした。

 夜、キッチンを手伝っていると、名は知らないけれど見覚えがある女性が子供を連れて自由に振舞っていたのでした。彼女がディッテに何故、私がここで働いているかを尋ねたのです。
 その時に、ディッテは私が何でもやる必要があるの、でここにいるのだと答えたのです。全くその時は、凄く嬉しかったのですが、でも仕事は長くしんどかった。

 今日の最後の仕事はスベントについて43号室を見て回ったのでした。

77 キッチン 

2009-12-20 20:30:50 | 日記
10月7日 曇り

 曇りで風が強いうっとうしい日でだった。いつもの様に、朝起きるのも遅かったのです。(この辺の感覚が今となっては良く分からないのです、殆ど我が家にいる感じですが、気楽にやっていたのだと思います。)ただ、朝の仕事が決まってる為、結構やり易かったのでした。(取りあえず気楽でした。)

 キッチンでの仕事がますます増えた為、オフィスにいるよりそちらにいる方が多くなったのです。外人(この言葉は余り好きではありませんが、ここで使います。私の友人のアメリカ人が害人として最初に覚えた日本語です。)が、できる仕事は限定されているのでしょう。取りあえずとディッテと一緒のキッチンにいる方が良いと思うようになった。
 今日は芋の皮むきを一人でやったがナカナカ大変でしたが、自分一人でやってみて自由にできるから良かったと思ったのでした。

 仕事でも、もっとみんなの役に立つ事、ベントを手伝うとか、何か目立つ仕事ができれば一番良いのですが、それはマダマダ見つけられません。

 夕食後に、キッチンにいるとディッテが私に声かけてくれて、いろいろ言ってくれたけど、ディッテはデンマーク語しか話せないので、私の知っている言葉を全て話したのでした。どれだけ分かってくれたか、分からないけど、私の事を認めてくれたのでした。

 キッチンの仕事が終わるとデェラ(?、多分キッチンにいたスタッフ)がコーラの栓をいつもの様に開けてくれた。いつもの私の報酬でした。この報酬が常に私の幸福を生み出してくれるのでした。
 それと、昼の仕事が終ればみんなでコーヒーを飲むのです。なんの話か分からないけど毎日の楽しい日課となっていたのでした。

 今夜はヤンが休みなので、特別のへニングさんが夜回りは私がやったのでした。

(注)疲れたので今日はここまでです。

 

75 昔のユース 

2009-12-18 22:01:19 | 日記
9月5日 快晴

 久々に快晴と言う日が2日続いたのです。これは日本人にとっては奇跡と言った方が良いかもしれません。

 土屋氏からの電話を待っていたけれど、かかって来なかったので、荷物を取りに行く都合もあったので昼過ぎにユースを出かけたのでした。

 土屋氏はドイツに数日前まで行っていたと言う事で、向こうでは彼女の部屋を訪れて楽しくやって来たようでした。全てかかった費用が500クローネだそうで、私にはナカナカできない豪遊でした。しばらく話していないので、いろいろ話がはずんだのでした。彼は別に目的も無くここに長くいるようであると思ったのでした。ユースの生活は私のいた時と変わらない様で楽しんでいる様でした。
 彼と離れて生活していると、改めて気の合う友と思うのでした。もっといたかったけれど何時までもいられないのでそこを離れたのでした。(今となっては分かりませんが、常に同じで済みません。今日は平日火曜日なのに、自由にしているようなのですが、不思議です。)

 夕食後、キッチンに入りディッテを手伝う事にしたが、僅か1時間半程の事でしたが凄く疲れたのでした。私が入らないと、この仕事を誰かがやらなくてはいけないと思うと大変な仕事と思ったのでした。疲れた後にコーラ1本、これが本日の仕事の報酬でした。

 大体この施設の内容も分かったし、そろそろここを去る事も考えなければいけないと思い始めたのでした。しかし、こうやって仕事の手伝いをできる事はいい事です。

 夜にユダがパンを作ってくれたのでした。彼女が私に興味を抱いているのはわかったけれど、職員と寮生の垣根を越えてはいけないと、つまらない道徳感が二の足を踏んだのです。彼女がかなり意識して接して来たのですが、その職員と寮生考えこそ、考え過ぎかも知れないと思ったのでした。(あーあ、惜しい事をしたと言うのが今の考えです。全く残念でした。)

 

 


74 外国人語学学校 

2009-12-17 21:32:52 | 日記
10月4日 快晴

 珍しく本当に珍しく天気がいいです。日本の秋の空の様、こんないい日は殆ど覚えにありません。(今でしたら、昨日の事もあやふやで覚えていませんがが、この当時でしたら当たっているに違いありません。)

 月曜はリンダ(名前が沢山出てくるけど、忘れているケースが多いのでビックリします。こんなに色んな名前を覚えていたとは、若い事は素晴らしい。その内に書いている間に思い出しますから名前は書いてある通りに書いています。多分、名前は若そうだけれど、やせた気のいいおばさんだと思います。今迄も名前が分からなくて省いた人も多いです)の手伝いで、全員のシーツを変える事を見つけました。
 その後、キッチンへいつもの如く抱擁をディッテとして、そして、時々はオフィスに顔だしと、大体のスケジュールは決まったようでした。

 パンを買いにHB(ストアー)へ今日はお金を支払った(多分、今までは施設として払っていたのでしょうが不明、御免なさい。)。その後、ベッツイに頼まれてコーヒーを買いに行きました。

 今日は夜に初めてデンマーク語の学校へ行く予定ですが、まだ、学校からの書類が着かないのでした。マリアンに学校に問い合わせをしてもらおうと彼女に頼んだのでした。すると彼女が学校方面に用事があるので、ついて来てくれると言うのでした。

 夜になっても、彼女は来ないので仕方無く、ヤンにファヴェル(さよなら)と言って出かけようとしました。この時は、彼女は全く物忘れがヒドイ、どうしようもない女と思っていました。
 しかし、私の思い違いと分かりました。彼女はミーティングで遅れたために時間に来られなかったのです。 彼女はチボリ公園であるコンサートを聞きに行く予定で、途中まで私を送ってくれたのでした。

 教室の中は、思った通りにアラブ系の人たちが沢山いたが、どうもユースで働いて以来、人種差別をするような目で見るようになったのです。全く嫌な人間になったと思います。教室を見回すと、私を含めてみんな黒髪でした。ヒドイ化粧をした、身なりの良さそうなスペイン女性もいたが、米人よりは良いと思うのだけど、どうも好きになれない。

 ちなみに、デンマークの人は金髪が多いように思われたのでした。


73 デンマークの洗礼式 

2009-12-16 17:05:26 | 日記
10月3日 晴れ

 今日はカッステェンの洗礼の日でありました。この日の為に、彼は服から何から何まで新調して、この儀式にのぞむのでした。

 私も教会について行くつもりで、人の洗礼なのに、比較的に早くから目が覚めていたのでした。寮でこんな事もやるのでした。

 窓を開けていたら、ヤンが声をかけてくれたのでした。そこでペア(どんな人間か忘れてしまいました。)の車に乗せてもらって行く事になったが、彼は私を教会で下ろすと帰って行きました。

 一人で教会へ入って行くと、今までデンマークで見たことも無い程の沢山の人であふれかえっていました。 椅子には名前が書いてあって、後から分かった事ですが、それが今日洗礼を受ける人の名前でした。全部で30名以上はいました。
 その他の大多数の人は、ほとんど宗教とは関係なく、今までに教会に来たと思われない人ばかりでした。みんなは、それぞれに飾り立てていたのでした。
 儀式は1時間30分程でやっと終わったのです。ベッツィやヤンも来ていて、彼が出る時に小さな子供がヤン、ヤンと声を掛けたのでした。カッステェンの兄弟たちにはやされる姿は映画のシーンを見ている雰囲気になったのです。

 帰ってから、昼過ぎにパーティがあるので食堂の飾り付けを手伝って、私も参加できるものと思ったらできない事が分かりました。
 パーティに参加しないカーナもTV室にいたので、自分一人が除けものになったと思っていたが、取りあえず安心したのでした。
 終わる頃に、キッチンの手助けをと思い下に降りて行きました。ディッテやカイの奥さんや子供達もいた。早速キッチンに入って皿洗い、その他の事を含めて十分に手伝う事が出来ました。

 ディッテは丸々と太って気のいい母さんの雰囲気で、彼女にキター(私)と優しく言われ抱かれると、たまらなく嬉しく思ったのです。みんなに微笑みを絶対に絶やさない人でした。毎回朝、挨拶に抱擁する事が日課になっていました。

 最近、みんなにキター、キターと言われますが、その時程、幸せに感じる時はありません。全くここにいるのが幸せで仕方がないと言うのが、本当の気持ちであります。

 この時にカメラを持って行ったので、ヤンに写真を撮ったのを渡してくれるように言われたのです。しかし、スライド用のもので今、何処に行ったのか分からずに渡していません。私の心に何時までも申し訳無く心の痛手として残っています。(白黒のもあったから渡したかも知れないですが、分りません)
 

72 テレビ番組 

2009-12-15 20:00:10 | 日記
10月2日 晴れ

 今日は、ディッテマー(みんなが親しみを込めてディッテの事をこう呼ぶのでした。)の手伝いで芋むきを手伝った。芋むきだけは、ユースで慣れていたので楽しかった。それに、ディッテを手伝うの事は喜びの一つです。(デンマーク人はジャガイモをほぼ毎日食べているようです。)又、オフィスの番の手伝いが増えたので結構忙しかった。

 12時にカーナが来ると言うので待っていると、彼女は病気で来られないと言う事が分かったのでした。全く待って損をしたようなものでした。

 3時半から見る予定のTV番組も新聞のミスで明日である事が分かったのでした。初めからユースに行けば良かったのに、予定が全く建てられないで困ってしまったのでした。
(一日の予定に昼に見るTV番組のチェックとは、気楽に違い無いと思います。)
 
 今日は夜ごはんの後にクヌードサン宅を訪問する事に、結局なったのでした。彼の家では、どうも、息子と気が合わずにいたけど、反対に自分が彼の立場だったらどの様な態度がとれたでしょう。全く縁もゆかりも無い東洋人(私)に対して、自分の親達が常識を超えたサポートをしているのを辛抱できるでしょうか、その様な援助をクヌードサンはしてくれていたのです。

 ここでも、アメリカ映画を見るつもりでしたが、Sweden2(スウェーデンの番組もデンマークでは見られます。スウェーデン語とデンマーク語は違いますが、デンマーク人はスウェ-デン語を理解します。がこの家では見られないらしいので、他の番組を見ました。結局帰りは12時過ぎになってしまいました。(人の家迄行ってTVを見ているとは、驚きます。)

71 ディッテマー 

2009-12-14 21:47:59 | 日記
10月1日 晴れ

 これで3度目の警察ですが、ベントの付き添いで行く事になったのです。少し待って今日は別の部屋へ案内されてのです。今日も同じ事を言うのかと思っていたら、今まで以上に色々と聞かれました。殆どベントが質問に答えてくれたのでしたが、私にも福祉についての質問が割と多かったので、一応それなりに答えられたのでホットしたのでした。

 その場を離れる時に、握手をする等、好意的で90%は長期滞在に関しては確実であると言う事でした。

 今日はカッステェンの腕時計と買う事を頼まれた為、それを言うとベントは時間が無いと言っていたが、時計屋迄付いて来てくれたのでした。どうもベントという人間が怖くて仕方ないけど、その行動から何時も割と優しいのでした。しかし、どうも苦手で仕方がありません。

 午後は全体会議があったので、私も出席した。(前回は参加しなかった)前出た時と同じようにデンマーク語が分からないので、聞き役に回ったのですが、チンプンカンプンでした。いつもの如く、いつもの様に進行した終わりました。ただ、2度目ですが本当、分かりませんでした。

 今日はディッテについて、話をさしてもらいます。ここのキッチンの主で、既婚であるか無いか、それと年は不明ですが、体格は大柄、毎朝抱き合いの挨拶をしたけど、手が背中まで届かない位に太っていました。いつも笑顔で迎えてくれるお母さんでした。

 朝、朝食を取らない私の事をいっぱい心配してくれて、無理にでも食べさしてくれたのです。食べないと悲しむので、何時からか食べる様になったのです。

 特に、私は好き嫌いが多くて、京都にいる時は、煮たものや鍋もの、イモ類そしてこれがいまとなっては惜しまれるのが、マツタケ、タケノコ、カニなどの時は近所の肉屋で別もの(トンカツ、ビフカツ等)を取っていたぐらいでした。

 今、思うとデンマークでの生活で食べ物の味覚が変わったと言うか別物になったのです。

 特に、デンマークでは、オープンサンドが有名ですが、そのパンが酸っぱいのです。8-9cmと6-7cm幅の5mmの分厚さの茶色のパンで、日本に無い種類のパンが主流で、食べられたものではありませんでした。実際ユースでは殆ど食べませんでした。

 そんな、朝食は夜余ったものを、パンの上に乗せて食べるのですが、ディッテマー(母さん)が、毎日心配してくれるので仕方なく食べていたのでした。
食べている内に、病みつきになって今や大好きになったのです。いろんな意味で感謝を優しいディッテマー(ディッテ母さん)に感謝してます。

 20年程前にディッテマーに会いに行きましたが、既に亡くなった事を知らされたのでした。 本当に淋しくそして残念でした。合掌

70 北欧での映画館 

2009-12-13 18:24:26 | 日記
9月30日 雨

 何もする事無しに今日も事務所に座っていた。と言うのも気楽なメンバー(ベントが2人いてリトルベント、ここで初めて、ベントが2人いたと気付きました。彼は優しくてBack to the future の主役という雰囲気がありました。それと、もう一人はスベント)だけだったのです。

 余り気兼ねすることなしに英語の勉強をしていてのでした。部屋に戻っても良かったのですが、部屋に最近こもりがちだったので、こちらにいた方が良いと思ったのです。所が、ヤンが突然入って来たので、まずい事に英語の本を見られたのです。やっぱり、勉強するならデンマーク語を勉強しなくてはいけないと思ったのです。

 夕食時に、ステファンが映画を誘ってくれたので、断る事をできずに行く事にしました。どうも、何でもハッキリと断る事ができない悪い癖と言うか生地が治っていませんです。
 今までも、誘われて断った事は一度もありません。又、余計な出費でありました。映画に行くのは11人、途中で2人が合流したので、合計13人が1台の車に乗りました。(何人乗りの車か忘れましたが、どう考えても定員オバーです。)

 映画は思った通り単純であった、正義が勝つと言う見本の様な映画でした。こちらの映画を見たという、この場合 映画館を見たかったと意味では悪くは無かったのです。
 田舎で映画を見る雰囲気で、大声で正義が優勢になると声の声援があったり、場面によっては冷やかす等、そちらの方が楽しかったのです。
 タイトルは‘The Man Cannot Die’でした。出演者は全く見知らぬ人ばかりで、1時間半のTVと同じ程度でしたが、映画の前にエレキの生演奏があったりして、映画の中身よりは概して良かったのでした。マカロニウェスタンであった為に、英語での映画は非常に分かりやすかったのです。考えてみれば、この様な、単純明快な映画しか分からないので、この映画は私にとっては非常に良かったのでした。やっぱり断る事は良く無いと思ったのです。










 
 

69 北欧美人のウラ 

2009-12-12 18:24:47 | 日記
9月29日 晴れ (曇りがち)

 目覚まし時計のかけ忘れで、今日も8時30分に起きる事になったのでした。(毎日、日替わりで良く寝過ごしの理由があったものです。勉強しているのを忘れてしまっている。)

 今日は昨日言われていた、重要書類をシュレダーする事が仕事でありました。それをしていると、ヤンがカッステェンの服を買いに行くので誘ってくれたのでした。
 マリアンも一緒に行く事になって町中を走りまわると言う事になったのです。彼の肌着から靴迄みんな新調する事になっていたのでした。
 12時にベントと警察に行く約束があったので、時間を気にしながらの買い物でした。事情をヤンに言うと、時間内に帰ってくれたのでした。

 12時半を少し過ぎた頃に、ベントと2人で警察に向かったのでした。警察は前来た時より人で一杯でした。取りあえず、ウラMs.のオフィスに立ち寄ってから出直す事にしました。
ウラは暖かく我々をいつもの様に気持ち良く、悩ましく迎えてくれて、ベントに爽やかなキッスをしたのでした。ウラは北欧美人で非常に美しく優しかったばかりでなくハスキーな声での主で超セクシィでした。全てに満点をあげたくなるような女性でした。
 そこで、ビールを御馳走になってウラにも手伝ってもらいながら、今日持って行く書類を埋めたのでした。(どこでも、昼はビールを出すと理解してます?)

 その後、警察に行って、ベントの助けを借りた結果は金曜日に分かるとの事で、もう一度来る必要があったのでした。この取次した事務員の態度は生意気で腹が立ったが、ベントも頭に来ていたのでした。

 夜にウラについてスポーツジムへ行った所、みんなが苦しむのを見ていると無理に誘われて私もやる事になったのです。全ての機器をやり終えてシャワーを浴びたけど、こちらの人間は、恥かしくも全く前を隠さないので恐れ入ります。

68 警察 

2009-12-11 19:34:11 | 日記
9月28日 火曜日

 カステンのグッモン(おはよう)と言う声に飛び起きたのですが、まだ、やっぱり眠かったので寝る事にしました。(いつものパターンです、済みません。)

 今日は警察に行く予定で、朝は特にオフィスに降りて行く必要がありませんでした。(オフィスに行かない理由、色々あるんです。)そんな訳で、午前中は部屋で勉強しました。

 昼食後、マリアンも一緒に今回は警察へ同行してくれるので力強く思いました。そして、警察へ足を速めたのでした。一回行っているので場所は直ぐに分かりました。

 警察では前に説明した事を何も分かっていませんでした。仕方無く、何もかも、もう一度繰り返す必要になったのです。今回はマリアンが一緒に公共の施設で無給で勉強していると説明したが、返ってくるのは冷たい答えのみでした。全く取りあわないので、そして 一向にらちが開かないので諦めるしか仕方がありませんでした。

 帰ってから、オルフに説明した所、ベントが助けてくれるはずだから、アドバイスを求めれば良いと言ってくれたのでした。彼は、忙しくしていて そうとう待つ必要があったのですが、説明すると、方々に電話で問い合わせてくれました。非常に頼りになる男でした。
 しかし、何処も閉まっていた為に、遠くのバルビィの警察迄一緒に行ってくれました。いろいろ説明してくれましたが、結局、明日に出直す事になったのです。

 彼ははじめトッツキ難い強面のする、真面目で融通の利かない近寄り難い人間の様に思っていたけど、本当は頼りになる優しい人と思い直したのでした。自分の見る目が無いと思ったのでした。

 夜にTVで大島渚の(多分)‘少年’が見られると言うので見に行ったのです。しかし、これは、日本の悲しい貧乏な生活がベースになって、当たり屋家族の物語でして、少し難しすぎると言う事もあってカステン、ステェファンは早々と部屋に戻っていったのです。
 やはり、外国にいると日本の美しい所を見て欲しかったと思うのは私だけでしょうか?