旅、思いで思い出し           何も知らずに旅にでた!

昔ズート昔、旅をした。何も知らない私が、若かった,若いだけだった!
半世紀前の事....

269 7割 が 運 

2012-09-29 04:55:40 | 思い出日記
京都のコロナと言うお店でタマゴサンドを作る推定94歳?のシェフがいる店は、以前この場で紹介しましたが覚えていますか?2月にお店を止めれらたと張り紙がしてありました。やっと現役引退して隠居生活を幸せに送られる事を祈ります。もくもくと客と話もせずに500円サンドウィチを作る姿に、客が物珍しそうに待つ時間も忘れて見ている姿は感動ものでした。客に感動を与えて黙々とその年まで狭い厨房で料理をしていたのは羨ましい事でした。

 営業してる間に行けて良かったと思っています。その年94歳になるとかで無く、現在をどうやって暮らして行くか考えなくてはいけないのは情けない事です。実は、私は家を外国から来た人達を受け入れられるゲストハウスの様な施設を作ろうと思っていました。まず家を買ってから、定年後と言う事を現実問題として何も考えていなかった事に気づくと言うありさまです。皆さんも人ごとで無く、直ぐにこの年になりますから、今から心がけて下さい。

未だ18歳前の日本語をアメリカ人の方に教えていた、本当に世間知らずであった頃を思い出します。英語で‘子供を作ると’言ってアメリカ人夫婦に笑われた事がありました。考えて見れば作ると言うのは変で、それも今なら笑えますが確かMAKEと言っていたのです。最近のTVのCMを見ても未だにそう言っているのは今となっては可笑しな話です。
 子供を持つ、神から授かると言う意味でアメリカ人の方が理にかなっていると思うのです。子供を作る、それを聞く度に、若かりし当時を思い出します。
 
 やなせ たかしさんが雑誌の大往生と言うインタビューで、人生7割が運だと言っています。本人は大往生でなく中往生を願っていましたが、60歳を越えて世の中にアンパンマンをだして、結果晩年になって努力が報われたのでしょう。色んな病気を持って、流石に90歳を超えて遠く迄歩くのが難儀になって来たそうですが、未だに元気にやっておられます。

 私の場合、その運は10割だったと思う様になって来ました。今まで本当に運が良かったとしか言えません。親は何でも私の望む事を好きな様にさせてくれたし、兄弟、先生、友人、他人との出会い、どれを取っても運と言う物でした。今ではその運を使いきったのか、運が無い事おびただしいです。最近も交通事故に会いました。幸い別段大した事は無く、まだ運が離れていないのを実感しました。
 
 先ず、出会いと言うものがあります。その出会いが人、物等、それに疑問点があると思います。どれも大事ですが、どれに巡り会っても分らない、又深く考えない人もいます、私です。出会いが、私の場合運であったと思います。今思うと大切で大事な出会いをものにできなかった事が多かったと言わざるを得ないです。

 7割の運を自分のものにする為に、遅ればせながら、今日から真剣に人、今からの疑問点との出会いを大切にしたいと思います。



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268 北野神社

2012-09-22 04:41:17 | 思い出日記
 小学生の頃、堀川(ちんちん)電車に乗って北野神社に骨董好きの父親に連れられて良く行きました。日本の一番古い市電で、現在は平安神宮の庭の片隅で野ざらしにされています。広島市内を走っている電車とは違い、もっと小型でドアの代わりに鎖があっただけでした。中立売り(なかだちゅうり)堀川を西に曲がる角が、私は鉄橋の様だと思って一人面白かったのを覚えています。ハッキリとは覚えていませんが、何故かワンマンの様に、降りる時に紐を引っ張って知らせた様に思い出があります。

 今だったらちんちん電車は観光スポットして、お池から中立売りの堀川通りだけでも、残っていたかも知れません。時代には勝てずに36年の7月に、残念ながら惜しまれて廃線になりした。

 堀川は今のように殆どが地中で美しく整備しいなくて、下水を兼ねた汚いドブ川でした。戦争中に道路拡張で広くなる迄、相当に賑やかだったと聞きました。亡くなった私の叔母さんが昔堀川に住んでいて強制的に立ち退かされたと言っていました。何時もあのまま住んでいたらと残念がっていました。そのおばさんの所が、蒟蒻屋を始めて、失敗したこんにゃくを堀川に捨てたと話していました。私の家の前には、下水道ができる迄どぶと言うか溝と言うか、車が良く溝のふたを落とした事があったりした事も思い出しました。

 北野神社は今ある上京警察署が境内で、良く賑わっていたのでした。見世物小屋もあったのですが、今は見ることができないから、一度は見ていたらと残念に思います。へび女とか、ろくろく首とか色々な出し物があったのでした。それを怖いと思って、それはそれで良い時代だと思います。
       
 見世物小屋で思い出しましたが、何処であったか誰と行ったか忘れましたが、多分加茂川の河川敷だと思われますが、木下大サーカスが来まして、何故か柵で囲われた動物が頭の中にあります。

 二条城の前、今バスの駐車場になっている所で、良く凧揚げをして届くはずが無いのに、何故か飛行機に届く程空高く上げた覚えがありました。のんびりして良かったです。自衛隊が戦車、大砲や武器の展示場として二条城の南側に来た時、兄が指を機関銃に挟んで怪我をして、その怪我を自慢していた事が懐かしいです。その二条城に、もう名前も忘れた犬を捨てに行ったのが、残酷だと反省しています。凄いのは、今もある‘ひまわり幼稚園’に私は通園していました。

 昔の東映映画では、必ずお城が出てくると、二条城が出て来ました。太秦に東映映画村ができると出なくなったので、リバイバル映画を見る時は懐かしいです。家で働いていた人の親戚が東映で働いていると言う事で、見に行った事もありました。

 京都駅より南側は田んぼであると思っていましたが、高校になって初めて京都駅の南側にも家があると知ったのでした。私の世界観が分ってもらえると思います。
こんな人間が欧州に旅立ったとは信じられません...
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267 Card 

2012-09-15 07:00:00 | 思い出日記
 私が欧州に行った時は、一ドルが360円。今となっては信じられない事ですが、一日働いても800-1500円にでした。旅行において何が一番変わったかなと考えた時に、給料もあがり一ドルが80円近く迄、飛行機料金もすごく安くなりました。アンカレッジ経由便が無くなり、世界中殆ど何処でも携帯電話で話も出来ますが、大きく変わったのはクレジットカードを持った事であると思います。

 江戸時代に旅が活発になったと思われますが、遠くまで行った人は費用をどうして払ったのか、剣の修行で、町道場でやっかいになる話は出てきます。紙幣でなく、大きな小判から小さなお金まで持ち歩くには重くてそんなに沢山持てなかったと思います。たまに、懐が重そうだと、雲助や追剥に当然襲われると言う事になったと想像できます。

 現在はクレジットカードです。私は旅行に行く時は殆ど現金を持ち歩かないようにしています。実際は現金が無いのですが、住んでいたマンションに私の為と思われる‘クレジットカードでの支払いは、借金です’と言う掲示がしてありました。その通りで、旅行は借金して出かけます。しかし、便利な世の中になったものです。

 始めて欧州に行った時はクレジットカードなど思いつきようがありませんでした。現金を練り歯磨きのチューブの中に(その頃は、下の方が折り曲げてあって)中身を出して80万円のお金を入れました。海外の持ち出し金がちょうど1200ドルになった時でした。初めて持ったのがVISA付きKIPS CARD。35年程前に近畿日本ツーリストのスタッフから頼まれてその使い勝手も知らずに持ちました。
   
 話はそれますが、何時もパンナムのファーストクラスで旅行させてもらいました。一度は他に客がいなかったのでワインを瓶ごとプレゼント、そして乗る度にローストビーフを客の目の前で切るサービスで、2-3cmの厚さを指で示して見せたものでした。良き時代でした。
 一度は兼高かおるが一緒でした。彼女の番組を小学校の時に見て、テレビで見たローマの近郊30kmにあるTivoliの噴水に感激した事。それとテレサテンが旅券法違反で国外退去になる時も一緒でした。本人が飛行機迄走って、その後梨本さんやレポターが一せいにこちらへ、横を見るとマネージャと思われる女性がいた事もありました。彼女はエコノミークラスでしたが、色々と思い出すものですね。

 ハワイから帰る時に、航空会社のストがあり、帰国便は一杯で乗れずに何日か足止め目に合いました。そしてお金が少なくなって(もともと持っていなかった)、そこで初めてクレジットカードを使う事となりました。食事はホテルでその他費用も総てカード払いと言う事で便利に使い、大変助かりました。そこで初めてカードの良さが分りました。

 又余談、20数年前、ダラスで20万円を2日に渡って使われました。その日に家にVISAから電話が掛かって来て助かりました。私が40万使うだけで直ぐに電話とは私の使い方?情けない程、私の懐具合を知っているのでした。生活苦で現在はTUTAYAのカード8万円程ネットで使うだけで一分後に電話がありました。情けない事です。
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266  23,299 位 /1,739,509ブログに感謝!

2012-09-08 07:14:07 | 日記
  最近指の先がしびれるので医者の行くと、老化現象で人指し指の第一関節が曲がっているとも言われました。良く見ると確かに異常に曲がっています。年はとりたくないですが、この頃いつも思うのですが、1日、1週間が過ぎるのが早く焦ります。以前は1日をそこまで大事に思わなかったかも知れません。この先何年生きるのやら‘正月は冥土への一里塚’が自分の事になってきたと思うのです。人間確かな事は、それを感じるか感じないかは別にして、誰でも死と言う避けられない事に常に面していると言う事です。私は今まで考えなかった。
 ‘THE GREY 凍える太陽’と言う‘初登場全米NO.1’の映画を見てきました。自殺しようとした人間が飛行機事故に会って、7人が行き残り雪の中から、脱出する映画でした。面白そうでしょう、初めは良かったのですが、雪の中で襲う狼が作り物と分ってからはどうもしっくりしなかったです。終わってみれば、自殺は愛する人を病気で亡くし生きる望みを断たれた人が、生きる為に何でもすると言う映画でした。思い出したら、最後の言葉に意味を見つけるのでしたが忘れました。

  長く続けていると色んな事が起きるものです、私のブログも今までランクと関係無いと思っていたのですが、有難う御座います初めてのランクインです。 1,739,509ブログの中、23299位 、そして27780 位 / 1,744,848ブログになりました。2度だけですが、こんなにも多くの人に読まれているとは、ランクにこだわらないと言いながら、その順位に喜ぶべきと感じています。

 順位にこだわると事においてオリンピックは特別なものがあると思います。金メダルを取った人は勿論、出場しただけでも十分だと思うのです。メダルを取る事は一番の事ですが出場しただけで日本で一番ではありませんか、日本1という言葉に重みが無くなったと思います。グローバル化しましたが、自分でやって見て、なんでも日本1位になる事は凄いと思うのです。

 メダルを取れなかった人は世界に届かない人を、日本国が送り出したのですから、国(税金)からサポートがあった事に感謝を述べれば良いのです。私だけそう思ったのかも知れませんが、銀座のパレードの一番初めのオープンカーにやり投げの村上選手が私の見る所恥ずかしそうにしてましたが、モット堂々としても良かったと感じました。

 テレビももう少しメダルに取れなかった人たち(日本1位)にスポットをあてるべきだと思います。沢山の人が見るのは期待せずに、少なくともその家族は見ます。予算の加減もあるでしょうが、いっその事メダルを取れない人達ばかりを中継すれば面白いと思うのです。でもレスリングでは有名だから1回戦で負けても坂口は映してくれたけど、やっぱり負けるのは余り良いものでは無い事は確かでした。

 写真だけだは可哀そうで、名前だけとなると税金は何処にいったのかと思います。私のブログがランクインしたのはオリンピックに見飽きた人達がいたに違いありません。
とりとめの無い話になりましたが、これからも頑張って行きますので、宜しくお願いします。
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265 バーミュダー その後、ハリケーン 

2012-09-01 06:11:53 | 思い出日記
 レンタバイクに乗ってバーミュダーの島中を巡って時間が少しおそくなり、戻るとレンタ店が閉まっていました。翌朝、バイクを持って行くと、昨日の夜迄の料金しか取られ無かったのでした。この島はバスに乗ったら我々に子供が席を譲り、本当に観光者に親切な所と感心させられました。バーミュダーに機会を見つけて是非行って下さい。

 海底散歩も楽しみました。経験すれば大した事がありませんが、潜るまで本当に怖かったのでした。船長に潜るのに口パクで話して分るかと聞かれました。多分分らないと言うと、その頃TVで放送のあったウルトラクイズで海中で答えるビデオを見せてくれました。船長の息子がバハマやっているそうで、多分安心さす為に見せてくれたのでした。実際は面白いですが、船上ではアメリカ人の女性が、凄くナーバスになって大声で私は止めたと言って皆をより怖くさせました。

そして、帰る時になって大型のハリケーンが東海岸を襲うと知らせて来て、廊下に出ると人々は右往左往して、再々あるのか、対応もきっちりしていました。フロントでここからは、アトランタとトロントしかいけない情報が入っていると言われました。
 どうするか悩んでいると、入ってくる人がいないから、ホテルの部屋は空いていて何時までいても構わないと非常に親切に言ってくれたのでした。とりあえず弊社の現地事務所の場所を聞き、そこに行きこれからどうするか決めようとしました。(一番初めに会社の休みの延長を考えるべきでした。)

 そこが何処にあったか、どんなオフィスかかなり前で忘れてしまったのですが、一路トロントに行く事に決めました。この間の事は綺麗に忘れましたが、気楽に直ぐに始めてのカナダトロントでレンタカーを借りてナイアガラ迄行きました。
 
 初めて行くナイアガラは、ゲームセンタ-、土産物屋さんが一杯あったと言うイメージのみで何か日本の安っぽい温泉街に来たような雰囲気になりました。しかし、正面や全体を眺望できるのはカナダ側になるもで流石に滝は大きくて、感動したのは遊覧船「霧の乙女号」に乗って滝つぼまでの間を行った事でした。
 古い思いでは、現在とその間に色々な映画やマスコミの影響があるので、当時の感動はそのまま言えないですが、船で行くナイアガラ瀑布は想像通り凄かったでした。

 丁度その時にシカゴに行った事を思い出しました。そこで私の記憶に間違いなければアサ- ヘイリ-のホテルと言う本の舞台とされているパーマーハウスに泊りました。唯一思い出すのが、ドアがかなりの厚さで二重になっている事でした。そこに洗濯物を入れるようになっていたのは私の利用したホテルの中でもあのホテルだけでした。

 ホテルの近くのビルの中に比較的に大きく広い地下への階段があり、レストランだと思いそこを降りて行きました。下に行くと昼間なのに、間仕切りが無くて広い場所に、薄暗くて良く見ると黒人ばかりがいました。友人がナイロビに行った時に町自体が暗くなったと言う事を思い出しましたが、異様な雰囲気にこんな所もあるのかと、少し怖くなって早々に引き揚げた事も思い出しました。
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