旅、思いで思い出し           何も知らずに旅にでた!

昔ズート昔、旅をした。何も知らない私が、若かった,若いだけだった!
半世紀前の事....

321 家... 

2013-09-27 21:21:25 | 思い出日記
 引っ越しが3度、ちょっと多いのではと?! 最初は娘が小学校に行く前に引っ越しました。住んでいた所に問題は無く、アクセツも良かったのですが、小学校の学区の一番端にあって通学が大変だと思って娘が学校に入る前に引っ越しました。

 そのマンションは大変気に行っていたのです。駅からは歩いて6分、遠藤さん設計で大阪の知事賞を取り、全室窓で彩光できました。そこには、テレビを暫く休んでいるK.E子さんが住んでいました。駐車場では私の車の前に停めていて、悔いるのは漫才界の白雪姫として頑張っていて大好きだったのに声を掛けられなかった事です。道路を挟んだ所に、たけしの嫁さんが大阪に逃げていた時住んでいた事もありました。私の駐車場にカメラマンが良くたむろしていました。
 中庭で、まだやっと自転車に乗れるかどうかと言う小さい娘はブレーキのかけ方も知らずに乗って、そのまま庭木にぶつかって止まっていました。滑り台を一人で滑って降りるなど、常に怪我をして怖いもの知らずでした。そして、毎年クリスマスには無神論者の私も含めて、そのマンションの近所にある教会に礼拝に行っています。
 その家が大好きな家付き娘が引っ越しを嫌がって、2階建のベットを買うと言う事で、やっと納得して引っ越しました。

 初めての引っ越し先は、小学校が見える所にあって5棟あるマンションでした。1‐3棟は、かなり高額なマンションで、4‐5棟目ができた所で、バブル終焉で多少私でも買える程(勿論、ローンを組んで)になりました。それと以前の所が、それなりに売れたので引っ越しました。入学式の時はサクラの木が雨に濡れていたのを思い出します。先生にも恵まれ学校から、毎日部屋から見える道を、いつもかなりの時間を費やして帰って来ました。

 2度目は娘の高校の時に、通学に自転車で坂のある道をかなりの時間を掛けていました。やっぱり大変と学校にもっと近い所に住む必要を感じて引っ越しました。ここで、気づきましたが、子供には目が無い親でした。そして私も成田勤務になり、バブル終焉完了後で大損しました。

 結局、娘が高校を卒業して、大学が徳島、妻は大阪、私は成田勤務と別々暮らす事になりました。そして、定年を迎える前に、今の一軒家に引っ越してきた訳です。考えてみれば、それぞれ大変な引っ越しをしたものでした。 

淋しいですが、京都の我が家は、いつまでもあると疑いもしなかったですが、今では更地になって跡形も無くなっています。そして自分が所帯を持ち、3回も引っ越しとは考えもしなかったです。

 しかし、この家から巣立つ娘の為に良かったと思います。でも、一か所に住んだ方が良かったかと色々考えて、引っ越し人生うまくいったのか駄目だったのか判断つかないです。それでも今まで住んで来た所は、それぞれに思い出が一杯あります。
 
 娘が今日結婚します、そしてこの家から旅立ちします。
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320 「一寸先は光」 

2013-09-21 07:01:52 | 思い出日記
  終活とは業者が使う言葉で、生活をもっと考えなくてはと思いました。これは遅いとは言えません。改めて考えると、生活、いい言葉です。

 そこで思い出すのは、初めて行った滋賀の函館山で見た、若き日の三浦雄一郎さんです。滋賀の函館山と言ったのは、当時、恥ずかしながら、京都を余り出た事が無く、函館山とは北海道にスキーに行けると思っていたのです。今でも良く覚えている、珍しいスキーのエアターンなるものをデモンストレーション、あの短いコースによくぞ来たものでした。

 その人が、80才でエベレストに登りました。私は愛宕山登るだけで精一杯、到底絶対真似はできません。努力して出来ない事もあります。人より歩きますが、股関節が痛くなって2時間が限度になっています。80才を過ぎて頑張っている仲代達也さん、それと82才になっても映画を撮り続けるクリント イーストウッド。
いずれも日本人の平均寿命を過ぎてから益々頑張っています。
 クリント イーストウッドは、半世紀以上前、58年から始まって人気があったTVシリーズ「ローハイド」に準主役で出て、後、マカロニウェスタンで人気者になりました。その頃は、日本制作ものが少なく、‘てなもんや三度傘’‘スチャラカ社員’‘月光仮面’‘隠密剣士’が人気でしたが、やはり一番アメリカのドラマものが人気ありました。ラッシイ、ペリーメーソン、コンバット等、私の印象で間違っているかも知れませんが、クリントイーストウッドはローハイドで確か吹き替えの声の性もあるけれど頼り無い役でした。

 その中で人気のあって名前を覚えているウイッシュボンを調べると、ありました、料理人で、フライパンで豆料理をだす役のおじいさんでした。思い出しましたが、ウェスタンと言うとフライパン?一度、その様にして豆料理を食べたいと思ったのでした。牛を売却するために所有者に依頼されて牛の大群を何千キロも移動させるカウボーイ達の日々の生活を表現した西部劇ドラマです。ローハイドと言うのは、長距離を乗馬すると、ズボンの内股が馬と擦れて破れないようにするために、ズボンの上から履いていた革製のズボン当ての事です。

 その人が、今度公開される映画‘人生の特等席’でメガフォンを撮り、そのプロモーションの中で、メンタル面で前向きになっている事が日々の暮らしでは重要といっています。昔の自分に恋をしないこと。鏡の中の、自分を見て、「こりゃひどいな」と自分に落胆して、若い頃は良かったのに...と落ち込むより、新しい出会いやアイデアを求めた方がいい。発想を変えよう。歳をとることはとても楽しいことだよ。と言っています。

 今からでも遅くはありません、若い諸君、元気な年寄りを見習って何かにトライして下さい。もうやっている、失礼。

 私はと言うと??? でも、まだまだ長い道のりになりますが、‘1寸先に光’兎にも角にも、光を求めて探していきます。
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319 娘

2013-09-14 07:12:13 | 思い出日記
 百田尚樹の‘永遠のゼロ’‘影法師’の二つが面白いから読むようにと薦められました。しかし、図書館で予約が一杯と諦めましたが、たまたま見つけた同氏作の‘輝く夜’を代わって読む事にしました。短編ばかりの本で2つ目あった‘猫’と言うのを読んでいて何故か涙が出て来ました。

 夜、パソコンに向かっている時、珍しく娘がお風呂だと呼びに来ました。普通に話すように唐突に結婚するのだと言いました。あっ気に取られ、ただただ笑っているより他無かったです。どう考えても夢の話と二日悩んだ末、もう一度本当か夢かと確認しました。
 もとより娘の目を信じていましたから、その結婚に反対の理由はありませんでした。まして反対しても結婚したでしょうが、まだまだズート先の話だと思っていました。ただ情けないかな、そんな彼がいるとは知らなかったです。それと結婚等思いもつかない程、独身生活を楽しんでいました。ひょっとして、一生このまま気楽な独身と思った程でした。

 初めて娘を意識したのが、妻のお腹を破れる位それは気持悪い程、元気に蹴っていた時です。そして生まれる前に、市主催の父親育児教室に行って若いお父さん方と一緒にお風呂の入れ方などを学びました。私の名前のいわれを小学生の時、作文に書く様に言われ困った事があったので考えて、名前も色々な本を読んで、女の子は読み易い名が良いと書いてあって、その意見をとりいれました。
 予定日が7月4日で、会社の名前とその日がアメリカの独立記念日、私の名前の頭文字を採って、字はお祖母さんに決めて貰いました。実際は予定より遅く、7月9日午前10時20分、大きな声が分娩室から聞こえてきました。  
 生まれて確か7日目、初めて、お風呂に入れようと用意しました。予行演習の様にテーブルの上にベビーバスを置いて入れようとしたら、暴れたので、仕方なく自分も身体を洗い、一緒にお風呂に入りました。と言う訳で、ベビーバスと父親教室が無駄になりました。

 まだ生まれて間もない時に、籠に入れて片手に持って毎週テニスにも連れて行っていました。日差しの厳しい暑い時は、籠の回りに水をまいて、私がテニスをしている間、他のメンバーが面倒を見てくれました。泣くとタイムを掛け、オムツを替えながら休み休みテニスを続けました。幼児水泳教室にも参加、一緒に水泳の後、他のお母さん方と幼児達と肩を寄せあいながら温かな小さなビニールプールにも入りました。 
 少し大きくなってきた時には、週末になると自分もテニスに連れて行って貰うと可愛く用意をしていたのでした。試合等がある時、テニスウェアーにネクタイをして会社に行って来ると娘に断って行きました。男ばかりのテニスであった為に、少し大きくなっても女性にはなかなか馴染まない程でした。
          その娘が結婚するのです。彼を紹介されました。
 朝から散髪に行き、昼にはケーキを買いに梅田まで行って待ちました。学生時代から付き合ったそうで、真面目そうな青年で良かったと思うのが、本を読んでいて涙が出て来たのだと思いました。
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318 不幸のままに生きる

2013-09-07 07:39:23 | 思い出日記
 直木賞作家の東谷長吉さんは、不幸な人は不幸のまま生きれば良い。「苦しみの道」を歩み通すことで深まる人生の味もある。楽な道とは苦しみから逃れる道の事です。そこに希望はない。かえって迷いや落とし穴に落ちてしまう。楽な道に希望はない。東谷さんが、8年も住所不定の暮らしを送った末にたどりついた答えだと思います。彼は蓄膿症で、本を書いている間だけそれを忘れると言っています。

 そうは言っても、楽しく楽して生きる方がいいですよね。私なら知らない内に死を迎えたいと思います。以前この場で話した、本当に狭い4人の相部屋に苦しみも無く、死を宣言された最後の1ヵ月を気楽に過ごした、同年輩のSMさんが無くなった様になるのが一番かもと思ってしまいます。
 見舞いに行った時も、ただのん気に暇に平安に普通に過ごして、普段のように話していました。本人も元気にそう思ってましたが、本当にこの人が死ぬのかと思いました。暮も押し迫って、病院から正月を家で過ごす様にと言われ、家族がいないので何処で迎えるかと心配していました。その数日後に容態が急変して亡くなって、死後も他人が面倒を見たのでした。

 多分、この項を読んでくれている人はそんな事は無いと思ういますが、死ねばゴミとなる、亡くなって見ると直ぐ忘れされると言うものも仕方ありません。

(余談、この市民病院で、救急車で運ばれた1人住まいの女性が退院の時、大雨で靴が無かったのでスリッパを借りようとしたら、借りも売ってもくれなく、タクシー乗り場まで裸足で歩いたのです。現在入院中の友人は術後直ぐ退院、家で余りお腹が痛むので、急患として行くと、お腹の中に汚れたガーゼが入っていたという病院です。)

 天命を全うされた方や、そして、まだ若く40歳代と言う方が、思い志ざし半分もいかない内に、亡くなった方がおられました。この方は本当に残念だったと思います。学校の先生から市会議員をやって、私が勤めた当初は、元気で人あたりも良く、手弁当を持って選挙応援に行こうと思っていたのに苦しんで癌で亡くなったのでした。
 その方の奥様に夜、騒音がうるさいと言う苦情について、たまたま、廊下で御本人に立ったまま話を聞いていただきました。それ程重病と知らずに、苦しさでそれどころで無いのに、その苦しさを出さずに、申し訳無く思っています。その2日後、亡くなりました。
 亡くなられた後、(奥様が言って分ったのですが)瓶回収日に飲み屋かと思うほど、通常常識では考えられない数のウィスキィ-の角ビンがここ数カ月毎回捨てあって、ライターが何箱も異常に多く捨ててありました。その方のものと分って、苦しんでいた様子が分ったのでした。

 人間いつの日か死ぬのは分ってますが、2人の死に方を見ても、天命、病気、事故、災害、自殺、殺人等、人それぞれの亡くなり方があるのだと思います。自分の年と変わらない、又、自分より若い人が死ぬ数が増えて来ても、それでも未だに実感が無いです。でも、まだまだ、頑張らなくてはいけないと思います。
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