旅、思いで思い出し           何も知らずに旅にでた!

昔ズート昔、旅をした。何も知らない私が、若かった,若いだけだった!
半世紀前の事....

839 施設の人々 (次回更新予定日10月1日 第一土曜日)

2022-09-17 03:51:02 | 目標

 「ユウは何しに日本へ」でヒッチハイクのユウに付いて!それを見て’71に欧州でスチューデントフライトがキャンセルされ絶望していた事を思い出しました。その時ユースで会った日本人にヒッチハイクを伝授され!それはインターチェンジに近い所でプラカードを手に行先を書き車を待つ!後になって考えれば簡単な事でしたが『地獄で仏』その後ヒッチは主な移動手段となりました。番組の中でスタッフが後部座席から通訳代わりをしましたが、狭い車中で長い沈黙は大変で苦痛でした。その大変さを通訳抜きで一度は映像で見せて欲しかったです。(この時の未使用のチケットを日本に送り払い戻しを簡単に家族に頼んだはずですが、今考えると京都から大阪迄行く必要があったのですが、それをしたか??そんな事迄考える余裕が無かったです)そしてフライトで直接ストックフォルムに直接行く予定がヒッチハイクに変更これが全て良い方向になるとは全く思いもせずデンマークに!

9月17日 晴れ 後 小雨/ 私にとっては初めて全員の職員だけのミーティングに出席!ヤン、ヘニィングさん等、普段 面白可笑しくしている人たちが真面目に討論していて、面白い以外の何物でも無い物でした。ヘニィングさんは、口ひげを生やした紳士然とした人で、時たま面白い事を言う人で、いいおやじさんと言う雰囲気を持った人でした。
 途中で小太りの女性カーナがタバコを吸いかけたら、職員トリルが大声で止めろと!一瞬沈黙、後みんなが爆笑になったのです。それ以外にもしばしば、爆笑の渦が起こったのでした。言葉が殆ど分からないのに雰囲気だけですが分かりました。
 途中で抜け出して、カッステェンの手伝いを!小遣い稼ぎの為に、ベントの車を午前中に、午後からヤンの車を洗っていたのでした。しかし余りにも働かない彼に、大人げなく殆ど切れかけてしまいました。
 今日は施設いる全員に小遣いを与えたので、それぞれ外に出て行ってステファン(若いのに口髭に短髪)、カッステンと私が残ってTVを見る事になりました。
 マリアンがチボリ公園に行こうと誘ってくれたけど、それには行かずにTVを見ていた。凄く魅力あるならついていったけれど、仕事をやる上では良い人だけれど2人でデートするほどは興味無かったのでした。(強気で、ビックリします。)
 夜に職員のベッツィ、トリルとスウェンドとビールを飲みに行く事となったのでした。ビールを2‐3本のむと、ビアホールが閉まるので、別の場所に変わったのでした。梯子酒で、お陰で気分が悪くなって、もどす事となったのでした。
 しかし、みんながおごってくれたので、とても幸せな時間を過ごす事が出来たのでした。その後トリルが車を運転して普通に帰ったのには、その酒気帯び運転に正直恐れ入ったのでした。今日のメンバーの名前をみんな覚えていたとは脅威です。若いって素晴らしいです。



 

 

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838 施設に訪問者 (次回更新予定 9月17日 第3土曜日)

2022-09-03 06:04:09 | 目標

  洗濯機は無く洗濯板で手洗い、氷を中に入れて冷やした電気では無い冷蔵庫。テレビは近所の家で部屋を暗くして正座!偶に停電があり!我が家で白黒テレビを初めて見た時の感激!黒電話は家にありましたが、無い家は近所から呼び出し!赤い公衆電話は近所のタバコ屋に?今や想像さえもつかない汚いドブ!そして便所は勿論、汲取り!京都の家々は奥行きが深くバキューム車で長いホウスで、我が家は4~50m裏まで吸い取り!後に水洗トイレに、高校の友達の家で初めて洋式トイレを!どんな田舎(失礼)に住んでいたのか!信じて貰えないでしょうが市地図でド真ん中、二条城の北側に住んでいました。今当然あるモノを便利を便利と感じ、戦争を知らない戦後生まれ私にとっては大変幸せな時を過ごしました。そんな私が70年万博でガーナ館でバイトをした後、何も知らずに横浜から船でソ連、後航空機で欧州、アメリカの旅に...

9月16日 晴れ:オーストラリア人の訪問を待っていました。約束は10時ですが、少し遅れて50歳を少し超えた位の人が来ました。
 その彼の施設に関する質問は雑多で2時間程度続きました。この施設と何の関係があるのか分からないのも多くあり、私にも質問しますので迂闊に聞き逃す訳にいけ無い為、かなり疲れました。
 昼食を一緒する事になり、流石デンマーク、ビール迄御馳走になりました。話で日本人はリスニングができないとの言われたのですが、反発すらできなかったのです。様々な質問が矢継ぎ早に、その中に堕胎についての等、日本語でも答えるのは難しい話も多くありました。
 別れ際に、もっと英語を勉強するように言われました。これを聞くとやっぱりモット若くて3~40台かも?当時は、英語と米語、ましてオーストラリア語の発音の違いも分からずに、ただガックリと疲れました。思うと良くこんな日本人を働かせてくれました。余談:後に米系の航空会社に、米本社で恐れも無く会議でこれぞと分かる英語で質問した自分に今でも冷や汗ものです。ただ米語より日本人には英語の方が発音し易いと思っています。
 夜に施設で2人の子の誕生日祝いを!そのプレゼントに日本らしいハンカチを贈りました。それは安くて持ち運びに軽くてかさばらず良いアイデアでした。しかし今夜は日本からのTV番組があるので早々に切り上げました。
 番組はデンマーク放送が作ったもので、日本の工業についての番組でした。可笑しな日本人が説明するのには参りました。どんな風に可笑しかったか、書いていないのが残念!

 

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