内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

Inventio naturae(自然の創案)― la technicité de la nature et la nature de la technique(自然の技術性と技術の本性)

2016-11-13 13:11:38 | 哲学

 今日の記事のタイトルは、先週の木曜日から土曜日にCEEJAで行われたシンポジウムでの私の発表のタイトルである。
 この発表のために最初に考えたタイトルは、フランス語の « L’invention de la nature » であった。それをちょっと格好をつけてラテン語にしてみたのである。仏語であれ、ラテン語であれ、このタイトルの表現は両義性をもっている。自然が何かを創り出すという意味と何かが(あるいは誰かが)自然を創り出すという意味である。
 前者は、日本語の「造化の妙」という表現などによく表されている。自然が、人類の生誕以前に、あるいは、人類とはまったく無関係に、己自身の中に生み出す、人間には真似のできないような様々な形(生物多様性 biodiversité)は、すべて自然の創造あるいは創案である、という考え方がその表現の背景にある。
 それに対して、後者は、絵画史などで、自然が、宗教的象徴主義から解放されて、自然として発見されたのはルネッサンス期だというような見方によく表現されている。自然がまさに自然として対象になったのは画家たちの自然の直接的な観察に基づいた仕事のおかげなのだから、その意味で、自然(という対象)は人間によって作り出されたのだ、人間の創案によるものだというのがある絵画史家たちの主張である(正直に言いますと、仏語のタイトルは、Nadeije Laneyrie-Dage の名著のタイトルのパクリ以外の何ものでもありません、ハイ)。
 しかし、私が考えているのは、絵画史の分野で言われる上記のような意味での、人間による〈自然の〉の発見・発明、あるいは〈自然〉の誕生のことではなく、自然が創られること、より正確には、自然の中に新しい形が創り出されることである。
 日本語のタイトル「自然の創案」は、このような両義性を込めるために選ばれた。「創案」というあまり聞きなれない表現を選び、「発明」という語を避けたのは、後者が日常語であり、様々な誤解を生みやすいだろうと思ったからである。
 このような両義的タイトルによって、創る自然と創られる自然との関係を、スピノザのいうnature naturans (能産的自然)と natura naturata(所産的自然)とは違った意味で考え、己自身のうちに形を創り出すこととして自然を捉えるという意図を示そうとした。
 サブ・タイトルに込められているのは、自然と技術との関係を、対立的なもの・相互に排他的なものとしてではなく、相互内在的なもの・相補的なものとして捉えようという意図である。自然の中の形の生成に見られる作用性・媒介性・道具性を技術性の起源(自然の造形技術 l’art plastique de la nature)として捉える考え方がその背景にある。
 このような考え方に拠るとき、自然に適用される技術の中に、専ら反自然的(すなわち人工的)なものだけを見るのではなく、自然のうちに眠っていた要素を一定の操作を加えて励起して自然自身に適用する、自然の自然に対する創案的関係を成立させる媒介の役割を見ることができる。
 この発表の構想は、拙ブログの長期連載「ジルベール・シモンドンを読む」の中でも二度引用したシモンドンの MEOT の次の一節が起点になっているので、発表では、前置きの後、その一節を注解することから始めた。

L’opération technique n’est pas arbitraire, ployée en tous sens au gré du sujet selon le hasard de l’utilité immédiate ; l’opération technique est une opération pure qui met en jeu les lois véritables de la réalité naturelle ; l’artificiel est du naturel suscité, non du faux ou de l’humain pris pour du naturel (Gilbert Simondon, Du mode d’existence des objets techniques, nouvelle édition revue et corrigée, Aubier, 2012, p. 346).

技術的操作は恣意的ではない。主体が直接的な有用性の気まぐれに応じて好き勝手にどんな方向にでも曲げることができるようなものではない。技術的操作は、純粋な操作であって自然の現実の真の法則を現に働かせる操作である。人工的なものとは、励起された自然であり、自然と取り違えられた虚偽や人間的なもののことではない。

 発表の後半で、三木清の『構想力の論理』の中の技術論を援用した。時間の制約から、三木の構想力の論理については少ししか語れなかったが、シモンドンの個体化論および技術の哲学の光の下で三木を読み直すことで、両者の哲学が現代社会において技術の問題を考察するにあたってきわめて重要な役割を果たしうることを示そうとした。