田邊元全集第四巻付録の月報に、フランス哲学研究者の淡野安太郎が「「哲学概説」と「哲学演習」―大正年間の田邊先生」と題された想い出の記を寄せている。その中にこんな一節がある。
京大での田邊先生の演習がきびしい道場であったことは、知る人ぞ知る事実であるが、大正末期の頃は相当年輩の―年齢からいえば田邊先生より上ではないかと思われる―学生もいて、そういう人が「今頃そんなことが判りませんか」と激しくきめつけられる時などは、思わず目を伏せたくなるのだった。「この教室へ出て来る時は、いっさいの虚栄心をすてて、素裸になって土俵上で一騎討ちをする覚悟でやって来い」といわれた先生の言葉は、終生忘れることができない戒めである。
こんな厳しさを学生に求める教授は、今の日本には、もうどこにもいないのかもしれない。しかし、問題となる対象そのものに向き合うことができる「純粋な個体」(« individu pur »)に人がなれるのは、このようにしてではないのだろうか。