内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

内的自己対話、そして思考の言語

2016-11-24 09:57:38 | 哲学

 このブログのタイトルは「内的自己対話」となっていますが、これには二重の意味が込められています。
 一つは、内的自己との対話という意味です。社会生活の中での帰属集団や人間関係によって規定されている自己を外的自己とするならば、その外的自己とは異なり、したがってそれには還元されず、それに対してときに違和感を覚え、それから疎外されていると感じることさえもあり、それ独自の存在を私の名において主張する自己が内的自己です。このブログは、この意味で、外的自己と内的自己との対話であり、その対話を通じて、両者の間のずれはずれとして、それぞれの自律と融和を図ろうとしています。
 もう一つの意味は、自己と自己との内的な対話という意味です。問う自分と問われる自分とに自分が分かれて問いと応答を繰り返すことで対話を続けることを意味しています。フランス語に訳せば、mono-dialogue intérieur となりましょう。この意味での内的自己対話は、現実の他者との対話とは異なって、お互い相手の手の内は知り尽くしているわけですから、想定外の発言というのはほとんどありえず、結果として堂々巡りに陥りやすいという弊害があります。この弊害を避けるためには、自己内対話であっても、実際の他者からの意見を考慮する、書物などで得られた観点を導入して自己の観点を相対化するなどの意識的操作が必要になります。
 しかし、上記二つの意味での内的自己対話とは別に、さらにもう一つの次元を導入する可能性について考え始めています。それは、通常私たちがその中で思考している自然言語(私自身の場合は、日本語あるいはフランス語)とは独立に機能し、それ固有の文法を有した概念的言語という次元です。
 これは、「思考の言語」という問題として、古代ギリシアのプラトン、アリストテレスから、中世スコラ哲学を経て、現代の言語哲学や分析哲学に至るまで、様々な形で議論されてきており、真理の存在と人間の認識の限界に関する根本問題の一つなのですが、この問題を徹底的考え抜いた哲学者の一人が十四世紀の神学者・哲学者オッカムのウィリアム(1285-1347)でした。
 このオッカムが言うところの「心的言表」« oratio mentalis » について、その古代哲学にまで遡る前史からオッカムに至るまでの系譜を辿り直し、オッカムの議論がなお有している哲学的アクチュアリティを明らかにしてみせたのが、 Claude Panaccio の Le discours intérieur. De Platon à Guillaume d’Ockham, Éditions du Seuil, 1999 です。刊行されてすぐに買ったのですが、一旦日本に持ち帰ってそれきっりになっていて、先日再購入しました。ぼちぼち読み直していますが、十数年前に読んだときより、今の自分にとって問題が切実なものになっていることに読みながら気づかされています。