内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

ただ繰り返されるばかりの自己存在の眩暈の中で ― ジルベール・シモンドンを読む(151)

2016-11-09 00:15:15 | 哲学

 「完璧な行為」は、他の行為と同様、前個体化的現実から個体化過程を通じて形成された主体によって実行される。ところが、「完璧」になることで、つまり完全に自己同一的反復になることで、その本来の出自である前個体化的現実との繋がりが失われてしまう。「狂気の沙汰」は、己の完全な個体化しか眼中になく、完全に個体化されきったものしか現実と認めない。諸行為が連関するのは、連続的個体化によって生成の起源と繋がっているかぎりにおいてである。ところが、「狂気の沙汰」は、内的規範しか持たない。それ自身のみから成り、ただ繰り返されるばかりの自己存在の眩暈の中に留まる。己自身の中にすべての情動と作用を吸収し凝集する。主体の多様な諸表象をすべて自分の方に向かって収斂させ、唯一の観点たろうとする。

Le sujet se ramène à l’individu en tant que résultat d’une seule individuation, et l’individu se réduit à la singularité d’un hic et nunc perpétuellement recommençant, se transportant partout lui-même comme un être détaché du monde et des autres sujets en abandonnant son rôle de transfert (p.335).

主体は、唯一の個体化の結果としての個体へと縮約される。個体は、いつまでも再開を繰り返す「今ここ」の特異性へと還元される。この「今ここ」は、己自身をいたるところに持ち運ぶが、それは、転移者としての己の役割を放棄して世界と他の諸主体とから切り離された存在としてである。