昨日の記事の中の著者紹介に誤りがあったので、まずそれをお詫びして訂正させていただきます。Éloge du polythéisme[『多神教を讃えて』]の著者 Maurizo Bettini は、古代哲学の専門家ではなく、古代文献学が専門。イタリアのシエナ大学「人類学と古代世界」研究センター創設者。
さて、昨日の記事の最後に予告した対照的な二つの事例の紹介を期待されていた方たちがいたとしたら、その方たちには申し訳ないのですが、今日はそれについて書いている時間がないので、その二つの事例紹介は明後日に延期させていただきます。その代わり、今日明日の記事では、本書の序章の一部を紹介します。
ギリシア・ローマの古代世界について、哲学・文学・演劇・建築・美術などの文化に関わる分野では、専門研究の枠を超えて情熱的な関心が今日でも持たれており、現代におけるそれらの諸分野での活動に霊感を与え続けているのに、宗教のことになると、それは「原始的な」多神教であり、今日の世界では(一神教によって)完全に「乗り越えられてしまった」過去の遺物とされ、一部の専門家の研究対象でしかないことを本書の著者はかねてより残念に思っていました(ただし、現代においても、詩人、哲学者、作家の中には、古代多神教に対して、かなり暗喩的な仕方ではあれ、つまり、古代の実際の宗教的実践とは切り離された仕方ではあれ、真剣な興味を抱いている人たちがいることは、著者もこれを認めています)。
そのような古代宗教に対する一般的な無関心あるいは蔑視は、どこから来るのでしょうか。それは、上掲の文化的諸分野と宗教とはまったく「別物」だという、少なくとも古代世界についてはまったく誤った認識から生まれたものです。古代世界では、文化と宗教とは不可分でした。プラトンを読めばわかるように、哲学も宗教とは不可分でした。
ヨーロッパにおいて、古代宗教に対する無関心あるいは蔑視を決定的にしたのは、言うまでもなく、キリスト教の歴史的「勝利」です。キリスト教が古代宗教を排除しそれに取って代わったという歴史的事実が、古代宗教に対して「異教」「偶像崇拝」「多神教」という決定的な烙印を押すことになりました。
それにもかかわらず、なぜ、今日、古代の多神教を「讃える」のでしょうか。多神教である古代(特に古代ローマ)の宗教と現代社会において支配的な排他的一神教的信仰(あるいは狂信)とを比較するという方法は、今日の社会に生きる私たちに何を教えてくれるのでしょうか。
古代の多神教世界での宗教的実践について学ぶことは、一神教的信仰によっては解き難い、あるいは一神教的信仰自体が発生させている現代社会の諸問題のうちの一つである宗教的闘争を、そして、それに伴って発生する、他者たちによって信仰されている神々に対する敵意・否認・無関心を、いくらかでも減少させてくれるだろうと著者は期待し、それゆえに本書を書いたのです。