内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

山上憶良晩年の九州での作歌活動、あるいは当時の最先端の「やまと歌」の制作現場

2017-11-08 23:59:59 | 読游摘録

 今日も小川靖彦『万葉集 隠された歴史のメッセージ』からの摘録を行いながら、山上憶良が歌人として登場する時代の政治的・文化的背景を見ておきたい。
 万葉集第三期(七一〇~七三三)には、東アジア全体が安定と交流の時代に入る。遣唐使の派遣、中国をモデルとした律令体制の徹底化が進められる。長安に倣った新都平城京への遷都がその象徴。官僚機構や地方の支配体制の整備拡充も進む。結果として、実務官僚の果たす役割がますます大きくなってゆく。
 他方、藤原宮子を母とする聖武天皇の即位とともに、藤原氏が力をつけ、皇族や旧来の有力氏族との対立が激化する。政府の首班であった長屋王が藤原氏の讒言によって自殺に追い込まれた長屋王の変(七二九)もそのような政治的文脈の中で起こった。
 このような時代に、「やまと歌」によって、「人間とは何か」を問い続けたのが、実務官僚であり学識者であった山上憶良であった。
 『万葉集』に収められた憶良自身の漢文から生年は六六〇年と知られる。天武天皇の時代に青年期を過ごし、持統天皇治世下、川島皇子(天智天皇の皇子)のもとで「やまと歌」を作っている。
 その前半生については、『万葉集』以外には資料がない。仏教経典や漢籍についても豊富な知識から史書・写経関係に従事していたとする説、僧籍にあったとする説、あるいは百済系の渡来人とみる説など、さまざまな仮説が立てられているが、いずれも決め手を欠く。
 大宝元年(七〇一)、約三十年ぶりに派遣されることになった遣唐使の一員として『続日本記』に憶良は登場する。その時点では、官位はない。在唐中、進取の気風に満ちた国際都市長安の活気に溢れた文化活動を目の当たりにし、大いに刺激されたことであろう。
 帰国後、従五位に叙され、貴族の一員となる。元正天皇の時代には、学識者の一人として、皇太子首皇子(後の聖武天皇)の教育係を努める。このころに『類聚歌林』という歌集を編んだらしい(『万葉集』に引用される形でしか残っていない)。
 憶良が「やまと歌」の製作を本格的に再開するのは、神亀三年(七二六)頃に筑前守として九州に下り、同四年か五年に太宰府長官として着任した大伴旅人と親交を結ぶようになってからである。そして、六十代末から、任果てて帰京後七十四歳で亡くなるまでの最晩年に、目覚ましい作歌活動を展開する。
 当時、都では、長屋王が私邸に文人たちを招いて、漢詩の宴を盛んに催していた。この宴には新羅の外交官も招かれた。憶良も七夕の宴に参加して「やまと歌」を作っている(巻八・一五一九)。こうして、内裏の外の、有力者が主催し文人や官僚の集う中国風の文雅の宴が「やまと歌」の新しい制作の場となっていく。
 太宰府の長官となった旅人も、九州の官僚たちを招いて「やまと歌」の宴を催し、中国文学に親しんだ新しい作品を披露する。
 憶良も旅人の下僚としてこのサークルに加わり、「やまと歌」を献上するようになる。このように上司に詩を献上するのは中国の風に倣ったものである。中国では、「詩」は「志」であり、自己の志を詩に託して上官に述べることが官僚の重要な任務であった。
 かくして、九州の地で、旅人と憶良を中心に、当時の最先端の「やまと歌」が作られていく。