内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

『万葉集』の隠れ名歌を「発見する」愉しみ ― 生死を超えた感覚的な繋がり

2017-11-18 23:59:59 | 詩歌逍遥

 万葉集には、人口に膾炙したいわゆる名歌・秀歌が多数ある。万葉学者や歌人たちがそれぞれに選んだアンソロジーにも事欠かない。斎藤茂吉の『万葉秀歌』(上・下、岩波新書)は、その中でも名著の誉れ高く、初版出版から八十年近くたった今日も版を重ねている。私も高校・大学の頃に愛読したものだ。
 他方、久しぶりに行き当たりばったりに『万葉集』を開いたとき、あるいは、万葉関係の著作を読んでいて、「ああ、こんな歌もあったのだなぁ」と、改めて「発見する」喜びもある。かつて読んだことがあってこちらが忘れているだけかもしれないが、そうだったとしても、「新しい」歌に出会えた喜びが味わえるのだから、これはこれで一つの小さな読書の愉しみと言っていいのではないかと思う。
 昨日の記事で話題にした小川靖彦『万葉集と日本人 読み継がれる千二百年の歴史』の「おわりに」を読んでいて、そんな「発見」をした。その歌は、小川氏が「『万葉集』の研究の道に入るきっかけになった歌」で、「柿本人麿之歌集」から『万葉集』に採られた巻第九・一七九九である。

玉津島 磯の浦廻の 砂にも にほひて行かな 妹も触れけむ

〔玉津島の磯の浦の細かい砂に触れ、その白い色に染まってゆこう。妻も触れたことであろうから。〕

 これは亡妻挽歌である。「生と死を超えた人と人との感覚的な強い繋がりと、情景の美しさに深い感銘を受けました」と小川氏は言う(ちなみに、これを秀歌とした先例は、詩人の大岡信氏と万葉学者の中西進氏だとのこと)。
 かつて拙ブロクでは、巻第十四・三四〇〇を取り上げて鑑賞したことがある。この有名な東歌にも、愛する人が触れた物が宝玉に変容するという感覚的・情感的世界における物象変容が表現されている。しかし、上掲歌の場合、小川氏が言うように、生死を超えた繋がりが表現されており、それだけ感動も深い。