今日の記事では、昨日取り上げた小川靖彦『万葉集 隠された歴史のメッセージ』第二章「二 柿本人麻呂の想像力」の記述に沿って、柿本人麻呂が宮廷歌人として表舞台に登場してくる時代の政治的状況を見ておきたい。
七世紀後半、より正確には万葉第二期(六七二~七一〇年)、天武天皇・持統天皇の強力な政治的指導力の下、新しい律令国家が建設されていく中で、その時代にふさわしいスケールの大きな「やまと歌」の表現をその極点にまで高めた歌人が柿本人麻呂であるとすることに誰も異論はないであろう。
ところが、その生涯については、『万葉集』に残された歌以外からはほとんどなにも知ることができない。『万葉集』最大の歌人と言ってもいいのに、『日本書記』にも『続日本記』にも一切記録がない。それだけ宮廷官僚としては身分が低かったということだ。
それに当時の政府にとって公的な文学とは漢詩文であり、初期万葉の時代、「やまと歌」の重要な母胎になったのは内裏、つまり、天皇をはじめ、后妃・女官の殿舎の並ぶ、天皇の私的な生活空間であった。しかも、初期万葉の作者たちの多くは女性である。
ところが、天智天皇の治世下、近江大津宮から天皇の私的空間であるはずの内裏の一部が公的空間となりはじめる。それにともない、「やまと歌」は内裏の中でも公と私が交わる空間に進出しはじめる。
このような時代の変化の中で、人麻呂は、初めての男性宮廷歌人として持統天皇に仕えた。人麻呂は、持統天皇の即位(六九〇年)とともに、皇太子草壁皇子の挽歌を携えて、まさに彗星のように宮廷に登場する。
草壁皇子の急逝によって即位した持統天皇は、夫天武天皇の政治を継承し、強力な律令国家を築き上げる。歴史学者成清弘和によれば、持統天皇は「時代の変革者」であった(『女帝の古代史』)。
その国家建設事業の中で、持統天皇は、「やまと歌」に大きな期待を寄せていたと思われる。人麻呂は、その期待に応えるように、宮廷の人々の心を束ね、その向かうべき方向を力強く示す長歌作品を次々と制作し、「やまと歌」を漢詩文に勝るとも劣らない内実を備えた文学に押し上げた。
そして、持統天皇の念願がかなって、草壁皇子の遺児である軽皇子に譲位し、軽皇子が文武天皇となってまもなく、文武四年(七〇〇年)の作品を最後に人麻呂は『万葉集』から姿を消す。
柿本人麻呂が『万葉集』という晴れやかな表舞台で巨大な作品群とともに活躍を見せるのはわずかに十年間のことに過ぎないのである。