内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

大伴家持の憂愁、あるいは日本古代社会における「近代的」孤独

2017-11-09 15:49:08 | 哲学

 万葉第四期(末期)、つまり、七三三~七五九年には、東アジア世界は次第に不安の影に覆われていく。
 国内では、聖武天皇が、東大寺大仏を中心とする蓮華蔵世界(無数の世界を包蔵した美しい蓮の花の世界。清浄な仏の国)を実現するという巨大な国家プロジェクトを、律令国家の総力を投入して推進した時代である。このプロジェクトは、一方で、華やかな天平文化を花開かせたが、他方では、国家体制を急速に疲弊させてゆく。
 藤原氏と旧来の有力氏族との衝突も激しさを増す。このあたりのことは、高校レベルの歴史の教科書にも書いてあることだから、省略しよう。
 今から三十数年前、ある万葉集の権威は、「家持は万葉の時代最初の近代人だ」と講義で仰っていた。その主旨は、共同体内の絆が不確かになり、近代人が経験する個人の孤独の憂愁を家持が古代においてすでに知ってしまったからだということだったと記憶している。
 しかし、今の私は、日本古代社会における家持の詩的実存そのものが「近代」を定義していると捉えたいと考えている。
 逆説的に聞こえるかもしれないが、古代にも「近代」はありえた。もちろん、この「近代」とは、単線時系列的ないわゆる歴史上の時代区分のことではない。
 「近代」は、フランス語の « époque moderne » に対応する。分野によって定義が異なるとはいえ、西洋史の枠組みの中では、通常、十七世紀以降を指し、他方、「現代」(« époque contemporaine »)とは区別される。
 しかし、moderne と contemporain とでは、そもそも語源的に意味が違い、連接する直近の二つの時代を指すという用法は歴史記述上の便宜からにすぎない(この両語の意味の差異については、拙ブログの2013年6月19日付のこの記事を参照されたし)。
 フランスの偉大なる中世史家ジャック・ル・ゴッフ(1924-2014)によれば、 « modernus » というラテン語は、中世において、それ以前の〈古典時代〉〈過去の理想〉〈旧世界〉などと対立する新しい時代、という意味で、例えば、西ローマ帝国崩壊後に使われていた(Histoire et mémoire, Gallimard, « Folio histoire », 1988, p. 59-103)。
 つまり、過去の時代の価値観や体制と対立する新しい価値観や体制が成立する過程で、その過程がそれとしてその時代の人間たち自身によって自覚されるとき、それが「近代」だということである。
 この意味で、家持は、日本古代社会における「近代」を個人として自覚した詩人である、と言うことができる。その自覚が「やまと歌」としてこの上なく繊細に詩人家持において表現されたのである。その歌に見られる深く癒やし難い孤独の憂愁は、旧世界の価値・理想が決定的に失われた時代に生きざるを得ない「近代」詩人の魂の表白にほかならない。