内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

私撰万葉秀歌(15) 風さえ恋ふる待つ女ともはや待つ人なき女との優美哀切なデュエット

2017-11-20 09:12:20 | 詩歌逍遥

 新しい研究成果によって従来の通説が覆されるということはどんな学問分野にもあることだ。万葉研究もしかり。
 巻第四・四八八の額田王歌とされる次の一首は、おそらく誰が選んでも万葉秀歌のアンソロジーに入選間違いなしの著名な秀歌である。一番好きな万葉歌に挙げる人も多いと聞く。

君待つと 我が恋ひ居れば 我がやどの 簾動かし 秋の風吹く

 題詞には、「額田王、近江天皇を思ひて作る歌」とあるが、今日の研究者の大半は、この歌を額田王作とは考えていない。中国六朝期の「閨怨詩」の影響下に、奈良朝にある歌人が額田王に仮託して作歌したものだろうと見ている。しかし、だからといって、この歌の価値が下がるわけではない。額田王その人の歌ではないとしても、秀歌はやはり秀歌である。
 この歌に唱和するのが「鏡王女が作る歌」(四八九)である。

風をだに 恋ふるはともし 風をだに 来むとし待たば 何か嘆かむ

 こちらも奈良朝期に王女に仮託された作と今日では見られている。両歌ともに当時から名声を馳せた歌だったようで、巻八・一六〇六~七にも重出する。
 私には、この鏡王女の歌がことのほか哀切に響く。単に額田王歌に唱和する慰めや羨みの歌ではないと思うからだ。
 大岡信が『私の万葉集』で示した、独自の解釈に基づいた現代語訳を引く。

風をすら恋いこがれているとは羨ましい。風をすら。あの方がやってくるだろうと思って待ちこがれているのだったら、何を嘆くことがあろうか。

 通常の解釈では、三句以降、「風が来るのを待つ」ことができるのなら、何を嘆くことがあろうか、と取る。ところが、大岡信は、「風がやってくるのを待ちこがれているように見せながら、実際に言わんとしているのは愛人が「来む」ことへの期待なのですから、それを明確にするためには、この歌を五七五/七七という形で読むのが、歌意に近くなるのではないかと思います」と述べている。
 伊藤博『萬葉集釋注』の解釈もそれに近いが、さらに遠く深いところまで進む。

ああ秋の風、その風の音にさえ恋心がゆさぶられるとは羨ましいこと。風にさえ胸ときめかして、もしやおいでかと待つことができるのなら、何を嘆くことがありましょう。

 そして、こう釋注する。

額田王に吹く風はその向こうに天智天皇を持つ。しかし、関係がなくなった鏡王女に吹く風の向こうにはその人を期待することができない。風は永遠の絶縁を載せて吹くばかりである。それに比べれば、あなたは何を嘆くことがありましょうというのである。

 我が恋する人とその訪れを心待ちにしている自分とを繋ぐ風、そんな風はもう私には吹かない。私の心には、風はただ、あの人との繋がりが永遠に絶たれてしまったことを告げて虚しく吹く。